・・・  吹雪3  ・・・ 


 六人が戻ってきたときから、吹雪が始まった。ほんの数分のずれだ。
 車窓から見ていたときとは段違いの吹雪の迫力に、自然皆無口になった。暖かなカレーの香りが山小屋を充満する。
『罠は終わった。あとは待つだけだろう』
とだけ、蘭は帰ってきたときにいった。
 吹雪は三時間の休憩の間に猛威を振るい始め、わずか一寸の先ですら見えなくなった。昼か夜かなんてここでは問題にならない。真っ暗な世界がそこに広がっている。
 凍傷対策に、全ての指に油紙をまきつけさせる。
 水分摂取は厳しく制限させた。吹雪の中で尿意を覚えたら、そこにあるのは死でしかない。
 午後六時を過ぎて。
 完全な闇がそこを覆ったとき、出発の合図がだされた。
「二時間、西の方の罠を見張る。
 何もなければ、四時間以内に帰還する。それ以上の時間が経過するようだったら、対象に遭遇したと考えろ」
迎撃組は、蘭、毒丸、現朗、激、炎、そして鈴木という古参兵だ。相変わらず布団で丸くなっている丸木戸に、さすがに蘭もあきれていちいち注意はしなくなった。
 ようやく出番になった毒丸はうれしそうに愛用の得物を腰にさす。鼻歌交じりで一人明るい。
「元気がいいのはいいが、くれぐれも浮かれるなよ」
辛気臭い空気が苦手な蘭がちょっとだけ毒丸を褒めると、鼻をこすりながら満面の笑みを見せる。
「浮かれませーん。
 つかまるといいっすね。今日中に」
「まあ……な」
蘭は窓をみる。
 吹雪はかなり荒れているが、山の吹雪はこういう状況が一番多い。それに、吹雪始めてから三時間たって、様子も安定してきている。
 あまりに視界が悪いと不利だが、今の状態なら数十メートル先でも電灯の明かりが見えるから連絡がつく。
 悪くはない。
 確かにこの状況で鉢合わせできれば、一番迎撃体勢が整っている。
 だが。
「まだ、皆が雪の動きになれていないからな」
その一点が気がかりだった。
 狩の態勢を整えて山に向かった。目印に立てた旗が、わずかに行き先を教える。旗の番号と周囲の目印を確認しながら、蘭は丁寧に皆を率先した。
 彼女の指示の的確さと判断力のよさは折り紙つきだが、こんな雪山の状況でもそれがくずれることがないことに、毒丸は、少し感動していた。そして、新たな尊敬も覚えた。こういうとき、自分は零武隊に入ってよかったと思うのだ。軍隊に入ったことは嫌な記憶しかないのに、零武隊に来てからはいい思い出ばかりがある。
 罠を張った場所に到着すると、数メートル離れた地点で観察を始めた。二人ずつ、三方に別れてそこを見張る。菊理特製の札と生贄に鹿の死体を転がしておいた。報告によると、熊に憑依したそれは、何度も死体を食べようとした痕跡がある。奴は相当餓えているのだ。
 数分もたたぬうちに、じわじわと熱がとられていくのを毒丸は感じた。寒い、なんて程度ではない。痛い。頬につきささる氷の礫が、さらに鋭くなったように感じる。地面から吹き上げてくるそれは容赦なく視界を奪うのだ。
「激くん。
 どう。きた?」
「まだ。全員ところ動きなしってさ。
 寒くなってきたら、体揺すって動かせよ」
小声の会話が鈍くなったのを感じて、激は後ろちょこっと向くと、毒丸がどかどか足踏みをしているのが見える。
「さーむーいー」
「……この状況下でそれをいわれると、壮絶なギャグだな。しっかりしろよ、雪国育ち。大佐、お前のことかってるんだから」
「別に。俺なんか期待されてねーよ」
「なんで。すげぇ期待されてるじゃねえか。こんな任務にも選ばれるしよぉ」
毒丸が黙りこくった。背中合わせだから、顔が見えない。激は気になったが、後輩の言葉を待った。
 階級。
 エリートとそれ以外は『士官校』を出たか否かによって決せられる。
 同じ時期に入って、同じ実力であったとしても、士官校の出身か否かは壮絶な力をもつ。
 毒丸は士官校出身でもないし、有力なつてが軍部にあるわけでもない。どんなに手柄をあげても、出世は限られているだろう。
『零武隊にでも行けよ。おめえなんかそこで十分だろ?』
 同じ日に入隊した男は、たいした手柄もなく―――否、毒丸の手柄を横取りして―――出世し、笑いながら自分に向けていった。出身も階級も差は無いと言って親しくしてくれて、友人だと思っていた。友人だと信じていたからこそ、その裏切りは何よりも効いた。
 ああ、てめぇの言葉どおり零武隊に行ったぜ? 上官様。
 彼の顔を思い浮かべて、自然口が引きつる。上官となった彼を殴った事件がきっかけで、零武隊に入隊したのだ。
「俺、士官校出身じゃねえし。
 現朗やおめえさんみたいなエリートとは格も質も違う」
「なんだ」
と、激が言葉をさえぎった。
「そんなことを拗ねてたのか」
むっとして、思わず振り返った。
「そんなことって。かなりデカイんですけど」
「すまん。もっとすごいこととか怒ってたら大変だなと思ってたんだ。背が低いとか、年が若いとか、小童扱いされるのがむかつくとか。
 …………。
 階級なんてなぁ、いいんだよ。二の次で。零武隊では。そのくらいお前ももうわかってやれよ。
 大佐はお前のことをかっている。それだけを信じていろ。
 階級が決めるのは、軍の中の役割だけだ。エリートではないからこそできる仕事ってのが、これから山ほど出来てくる」
信じるなんて、もう出来るか。
 喉までついたその言葉を毒丸はむりやり飲み込んだ。
「ふん。
 どーせエリートじゃなけりゃ汚い仕事もし放題ですよ」
なかなか拗ねた心の治らない後輩に、さて、なにを言ってやろうかと激は思いをめぐらせた。なんか、と言い切ってしまえるほどに、毒丸の悩みはたいしたことはないのだ。零武隊にいる限り。
 日明 蘭。彼女の下にいる限りは。
「そーさな。
 ……うちさ、働きに応じた特別給与ばかり出すだろ。あれ実は軍内部では相当言われてるんだぜ。でも、階級で払うのはおかしい、忠義の分だけ払うべきだ、っていって大佐が譲らない」
「そうなの?」
毒丸は目を見張った。
 そう考えれば、確かに零武隊に入隊して以降格段に給料が上がった。まあ体張っているのだから当然なのかとも思っていたが……。それに零武隊内部はあまり階級についてごちゃごちゃいう奴も少ないし、炎や爆をのぞけば敬称にこだわる人間も少ない。二人の場合、誰に対しても敬称を求めているところから見ると、どうやらそれは階級の問題ではないようだが。
「……来た」
激の鋭い声が飛んだ。
 振り返って、みる。白い中に何も見えない。闇ばかりだ。
 だが気を静めてみれば、その大きな闇が蠢いているのがわかる。
 あまりにも大きい。
「でけぇ」
「戦闘態勢をとれ。攻撃を始めるよう、連絡がきた。
 カウントするぞ。
 十六……十五……十四……」
カウントとともに、吹雪が、嘘のようにやんだ。闇に姿を現す巨大な熊は、鹿の死体もとによってそれを食べ始めようとしていた。その、あまりの大きさは、想像以上だ。
 愛用の鞭をしっかり握り締めて、その場で気配を殺す。最初の一撃だけは決まっていた。霊銃で撃つ。
 その混乱に乗じて、一斉攻撃だ。
 霊銃が放たれるまでは、絶対に動いてはならない。相手に気づかれてしまって困る。
「三……二……一……」
ぱんぱんっ。
 二発の銃声が起こる。
 敵は、反応がない。
 毒丸の狙いを定めた鞭が、一瞬に飛んで敵を絡めとった。

 ―――が。

「ぐあぁぁぁっ!」
悲鳴を上げたのは、毒丸のほうだった。鞭を通じて、手が凍っている。恐ろしい冷気が体を駆け抜けた。激は毒丸の得物をすばやく切断した。
「こいつに触るなっ!凍るぞぉっ! 毒丸が鞭を通じて手を凍らせたぁっ」
叫びながら彼を掬い上げて逃げ出す。
 悲鳴を聞きつけた敵は、こちらに方向を定めてきたのだ。恐ろしい早さだ。時速百キロを超えて、一直線に向かってくる。
 彼の声は周りに通じ、遠隔攻撃が後ろから続く。手で持てるサイズの大砲が数発命中すると、さすがに敵も方向を転換した。
「毒丸。いいか、旗のところでいろ。
 仕事が片付いたらお前を運ぶっ。わかったなっ!」
がくがくと首を振る。旗は、わずかだが見えた。必死の攻防が続いているのだろう、闇に幾度も明かりがともり、そして消える。
 悲鳴も聞こえた。咆哮も聞こえた。だが毒丸はそんなことを考えず一心不乱にわずかに見えた旗を目指して全身を引きずっていた。
 腐臭。熊の腐臭は恐ろしく強い。間違いなくそれは屍だ。
 蘭は状況判断しながら次々に作戦を練り上げ、そして同時に、新たな情報が加わる度に次々と作戦が敗れていくことに絶望を覚えた。
 霊銃が効かないのは、おそらく熊の厚い毛皮と肉のせいだろう。体の中に核があり、それに冥府の力が宿っている。核を壊すには、まず奴の動きを止めて、それから死体の毛皮と肉ごと切り捨てる必要がある。
 だが、冷気が奴を覆っている。
 触れることはおろか、武器を伝わってこちらまで凍ってしまう。遠隔攻撃しかないが、大砲は次を撃つのに時間がかかる上、弾も限りがある。しかも大砲の威力も十分ではない。せいぜい足止め程度にしかなっていない。……否、足止め程度にもなっていない。
 熊の身体能力は恐ろしい。速度は並みの足では逃げられるものではない。一発同時に撃って、次に撃つまでの間の時間稼ぎをしないと一人ずつやられてしまう。
 撤退することを念頭になんとか時間を稼ごうと考える。現状の武器では、この相手に致命傷を与えることは不可能だ。
 大砲を持たせたのは、現朗、激、鈴木の三人。狙われるのは確実に彼らだろう。橇から武器を拾い上げた。火炎放射器。
 鈴木を狙って一直線に走った熊に、蘭は横から思い切り最大級で火を放つ。火だけでは、ほとんど効き目がないが、脚を止めた。こちら向く、その巨大な顔。常人なら竦んでしまうだろうが、彼女は冷静に攻撃目標を瞳に切り替えた。
 新たに火が横から加わった。弾込めをしながら、現朗が火炎放射器も使い始めたのだ。
 その火の中、炎が敵に切り込もうとしているのが見えた。
「凍るぞっ!」
蘭が叫ぶ。
 だが、部下は動きを止めることなく、そのまま斬りつける。業火の中で、悲鳴が上がった。

 ―――妖の、悲鳴だ。

 壮絶な悲鳴は大地を揺るがし、どこかで雪崩を起こす。
 振り払った手に当たって、炎が雪の中に倒れ落ちた。
 そこに弾が三発続けてあたる。火を流し続けていたところにあたって、小規模の爆発が起こる。蘭は爆風を片腕で防ぎながら冷静に事態を判断した。
 ……火の中で与えた攻撃ならば、こちらは凍らない。
 大きく今までの情報に、修正を加える。
 だが、煙の中から現れたそれに、さらに新たな修正を加えなければならなかった。
 ……凍れる屍は、いくら壊れてもくっついて再び動き出す。
 大きく離れて間合いを取る。自分が囮になる一番の距離で、相手をぐっと見据えていた。敵は確かに炎の一撃と、さらに二発の弾の攻撃にはダメージをうけていた。顔には大きく切れた一線、そして、体にはヒビが走っている。だが全ての傷は、凍ってくっついてしまっていた。
「不死身、というわけか。ありがちな」
苦笑交じりにつぶやいて、相手を睨みつける。
   火炎放射器の火があがった。後ろから、激と現朗が火を放ちながら同時に攻撃をしたようだ。それを恐ろしい速さで避ける。そして、一直線に鈴木のほうへ向かった。彼も大砲で迎撃したが、今度はスピードは収まらない。蘭は刀を投げつけるが、それは空を切った。
 兵隊の体が放り飛ばされて、頭上を飛んでいくのが……わかった。
 火炎放射器を握り締め、蘭は鈴木のほうへ向かう。五十メートルくらい先のところだと、大体見当をつけながら。
 はたして、そこにあった。
 近くの林の中に落ちていた彼は、予想通り、事切れていた。
 全身打撲。
 彼女は腰から小刀を取り出すと、まず首を切り落とし、四肢を切り離した。首も四肢も四方に投げ捨てる。
 振り返ってみれば、奴が、こちらに近づいているのがわかる。
 それだけ確認して、足を起こして走り出す。大きく迂回して、転がっている隊員を集めた。息があるかを瞬間で判断して、炎を担ぐ。同時に、現朗と激の場所を確認した。まず肩に乗った男を橇におき、次に二人を持って橇にいれ、そして旗のあるところまでひいて毒丸を回収する。
 ……音だけでわかる。後ろで、なにが起こっているのか。
 悲しくはない。
 だが、競り上がってくる来る感情に、自然に言葉が漏れていた。
「全ての道はお前によって作られた。
 お前が御国の未来を切り開いた。
 だから無駄に死んだ者はいない」
弔いの言葉など言うと、遺体の男が知ったら、死んでなお笑うかもしれない。
 そう思うと、さらに言いたくなる。
 弔いなど言うか。誰が、お前たちに言うか。
「私が、無駄になどさせはしない。
 ……だから、待っていろ。そこで待っていろ」
 私がお前に言うのは、絶対に命令だけだ。
 奴からはなれると、吹雪が始まった。彼女は重さを感じさせない動きで、四人の隊員を乗せた橇を引いて歩き続けた。