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「へーい。大佐ぁー」 挨拶ともなんともつかない声をあげながら、眠たそうな目をしながら一人の男が入ってきた。特徴的な逆毛頭、とろんとした垂れ目、ボタンがひとつも留められていない軍服。最もエリートに相応しくないエリート、なんちゃって高給取り、士官候補生(偽)などと有難くない評価をほしいままにする男、激である。 現在、朝七時半。さほど早いわけではないが、寝起きの悪い彼にとってこの時間帯は苦手だ。普段の出仕時間よりも一時間以上も早く呼び出され、テンションは非常に低くかった。 「すまんな」 調書から顔を上げて、先に待っていた蘭が全くすまないとは思っていない口調で返答する。 だらけた動きで机までやって来る男に彼女はぽいっとファイルを投げ渡した。軽々とそれを片手で受け止める。 「なんすか……?」 しぱしぱと目を瞬かせてそれを見た。 『横浜区中華街暴行事件』 ―――ファイルの表紙の文字を見た瞬間、内臓に氷を詰め込まれるような衝撃が走る。 もはや、逆毛の軽い頭は完全に醒めきっていた。 「昨夜憲兵からいきなりきた報告書だ。 ……わかるか?」 「ええっと。 その、事件の内容は、そのぉ……」 「六月七日、午後十時頃、横浜区中華街の一角で軍人同士の諍いがあったらしい。 一人は白い軍服を着て髪が逆立っていたそうだ。五人の海軍二等卒に暴行を加えて気絶させた、と書いてある。 海軍と揉められると厄介でな。一応向こうも気を使っていただいて、わざわざ憲兵から仕事を回してきた」 「で、でも。刀抜いたりとかしてないですし、ちょろっと言い争いになった程度ですよぉ〜。 そんなぁ〜 事件ってほどじゃないしぃ〜」 猫なで声を出してみるが、上官の表情は固い。 「ほお。言い争いで気絶する、とでも?」 次の瞬間、鋭すぎる眼光が彼の心臓を貫いた。 ―――言い訳はまずい。殺られる。 一人悟りを開き、激はしょぼんと肩を落とした。またも減給決定だ。 「……理由を聞かないわけではないが、いつものとおり報告書で提出しろ。処分は追って知らせる。今日の仕事前にはあげてもらうぞ。わかったな」 「はい」 彼女は再び投げて寄越す。軍専用の報告書用紙……封を切っていないから百枚ある。 それを受け取って、激は重い重い溜息をついた。これで書くと気分が落ち込んで文字が下手になるような気がする。……もっとファンシーで楽しくなるような紙にすればいいのに。 そんなわけのわからないことに文句をつけながら、激はゆっくりと踵を返した。彼の周りだけ重力が十倍にもなったように重い足取りだ。 が。 「そこで書け」 立ち行く彼に、上官が恐ろしい言葉をかけた。 そこ、というのは、目の前の客用のソファだろう。 準備よく数枚の白紙とペンがセットにおいてあるではないか。 「……たまにはお前の仕事振りを見るのも一興だ」 げぇ、と素直な呻き声が聞える。彼は何度も振り返って蘭に合図を送っているようだったが、それは一切無視をして彼女は自分の仕事に取り掛かった。 取り付く島もないと悟ると、仕方なくソファに腰を下ろした。 ***** 十五分がこんなに長いものだと、激ははじめて知った。 ちらりと視線を上げれば、昨日きた報告書に全て目を通し、判子をおし、さらにファイルや文字の訂正、新たな指示を出す準備をしている―――てきぱきと働く上官の姿がある。こちらを見る気配は無い。 …………無い、のだが。 あまり長く見ちゃ駄目だっ! 本能が何か警告するので、慌てて顔を下ろした。……何か、何となくだが、不穏な空気が漂っている。 蘭はおもむろに立ち上がって、部屋から出て行った。 「ふぅ〜。怖ぇ。 すげぇ気が落ち着かない……。なんでだ?」 報告書を書くのは苦手中の苦手だったが。 だったのだが。 もう喧嘩の報告書は慣れた。むしろプロだ。一年に百件、つまり三日に一枚書いていた時期を通してわかったことがある。ある程度のきちんとさえしていれば誰も読まない、ということだ。 「でも、あいつら本当に海軍だったんだなぁ」 五日前の夜。 横浜中華街で部隊が解散となった後、一人で夕飯を食べて戻ってきた。普通なら夕飯は独身寮で食べるのだが、中華街の拉麺というのがいたく美味いという話をきいて一人で店に入ったのである。 なかなか興味深い味だった。 そしてその帰り道、いきなり五人の男にからまれたのだ。からまれた、というのは少し不正確かもしれない。 「なんつうか……おかしいんだよな」 激がなにを言ったわけでもなく、急に五人は激の前に立ちはだかった。 「零武隊だなっ、貴様!」 と、一人が言いながら詰め寄ってきたので、いつもの調子でのらりくらりとかわしている間に暴行沙汰になったのだ。確かに白い制服は零武隊特有だからわかるかもしれないが、それでも陸軍の軍服を海軍が知っていたことが気になる。 しかも、一人激が打ち倒すと、すぐに尻尾を巻いて逃げたのだ。 海軍をなめるな、と言い捨てて。 あれだけ啖呵切って登場した割りにはあっけない幕切れだ。だからすっかり忘れていたのだ。まさか相手が本当に軍隊に報告するとは思っていなかった。だいたい、零武隊がいくら軍隊内で嫌われているとしても、悪いのは相手ということになるだろう。 「書けそうか?」 蘭が戻ってきた。 手には、二杯カップがある。 「す、すみません」 「珈琲だが、何も入れていないぞ。これで少し眠気を飛ばせ」 一杯を激の横に置くと、もう一杯を飲みながら机に戻る。 電話がけたたましく鳴った。蘭は不機嫌な顔をして受話器に手を伸ばす。 「はい?」 朝早くから忙しいんだな、大佐。 上官はまだ八時前なのに随分仕事が多いようだ。軍に近い独身寮とは違って、蘭は家から通っている。食事もとっていないだろう。 苦い珈琲なのに少し甘いような気がした。 ……俺も、頑張らなきゃ悪ぃなぁ、と少し反省する。 「……わかりました」 険しい顔で受話器を置くと、すまなさそうに激をみた。 「八時前から忙しいですね」 「緊急だ。 私は丸木戸教授をたたき起こしてそのまま名古屋の方へ飛ぶ」 口早に言いながら椅子に掛けてある上着を取る。上から釦一つ一つを丁寧に留めていった。 「隊員には自主訓練にするよう伝えてくれ。 それと、現朗と二人で私の代理をお願いしたい。現朗なら他の隊の隊長クラスにも顔がきくし、お前が協力してやれば代理がつとまるだろう」 「俺たちが、ですか?」 机の上にある種々の書類を引き出しにしまって、鍵をかける。 激は不安そうに尋ねた。 「実は中将組が用件があるといって、十一時からここで会う約束になっているのだ。断りの電話を入れる時間がない」 「わかり……ました」 激の前に、蘭は鍵を置いた。 いつものように軍帽をかぶり、きりりとした表情だ。 「任せたぞ」 そして規則正しい足音を立てながら部屋を出て行く。部屋の主の慌しい退場を、ぽかんとした表情を見送った。 |
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