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強い風に煽られて、雲が流れた。すると、見事な富士の雄姿が青空を背景に現れて、北斎の赤富士を思い出した。勿論、凱風快晴はここからの景色ではないだろうが―――。 「……似ている」 「赤富士か」 自分でも無意識のうちに呟いた言葉を拾われて、現朗が振り返ると、後ろで寝転がっていた激が体を起こしているところだった。 二人には少し広すぎるような宿の一室。 なんと、零武隊の士官用に用意されたのは離れだったのだ。勿論他の隊員に用意された部屋もかなりの広さではあったが、やはり広大な庭に点在する別邸では贅沢さの格が違う。真と炎は洋室がある方が気に入り、いち早く奪い取ってそちらに泊まっている。 三浦から零武隊の隊員全員に贈られた休暇は、『富士の絶景を楽しみながら温泉に浸かれる別天地!』という売りの、最近出来たばかりの旅館の慰安旅行だった。 零武隊がまるまる泊まるとなれば普通の宿では一つ二つは足りないはずだが、この新設の旅館は驚くほどに巨大で、到着したときは異形のものの相手に慣れている軍人達の度肝を抜いたくらいだ。数軒分の建物を一体化させたような五階建てのビルディングの本館、山一つ分の庭、そしてその中に点在する十棟以上の離れ。 政商が持て余す財力を使って当世風を取り入れて全く新しい旅館を建てたという話が新聞に載っていたが、そこがここかと現朗は一人納得した。 中将からの説明では、この旅館建設の際、西洋の技術を使って温泉を掘り当てたとき色々軍部の関係に世話になった縁で、第三師団の一部隊を招待したのだという。 「正直、こういう裏取引的なことが一般隊員に知られるのはちょっと困るんでね。まあ、それを見越してこういう大掛かりで呼んだのだろうけど。 是非にといってくれるのを無下にすることも出来ないから、代わりに行ってきて下さいよ。 で。 その間、こちらの大佐を引き受けてあげるお礼は、奪いとった隠し金の半分なら良いでしょう」 屈託のない笑みを浮かべながらストレートに言われて、現朗と真は一瞬顔をあわせて考え込んだものの、もともと全額は取るつもりではなかったので首を縦に振った。 大佐を引き受けてもらえる。 その言葉が効いた。 ボロボロになった陸軍特秘機関研究所と同様、彼らの精神も相当ささくれ立っていたのだ。 自分が仕事をしている間に、部下が温泉と酒と料理の贅沢三昧をしたとなれば、日明大佐がどれだけ悔しがるだろうか。それを考えるだけでも二人の軍人はぞくぞくとする快感を味わった。 くるりと振り返ると、案の定、仕事をしながらもしっかり聞き耳を立ててその話を聞いた蘭は、彼らを凄まじい目で睨みつけて歯噛みしていた。悔しさと、惨めさと、怒りと、その他諸々。 その視線を受けながら哄笑して彼女を見下ろした時のことを思い出すだけで、溜飲が下がる思いだ。 「……夕飯まで寝るんじゃなかったのか?」 肌蹴た浴衣を直しながら、激は首を横に振る。 「なんか、もういいわ。 ちょっくら外出てみよっかな、折角だし。 ……にしても、早く着すぎたな。普通ほれ、こういう所は午後に着けばいいはずだろー?」 激は苦笑し、つられて現朗も笑う。 確かに、慰安旅行なのだから急ぐ必要はなかったのだが、任務の癖でつい午前中に安全確認まで終る行程を組んでしまった。 結局、到着して、一息ついて、安全確認を終えてさらに温泉を十分堪能したというのに、時計はまだ二時を少し回ったくらいだ。 「一緒に行くか?」 「ああ。 富士を別のところから眺めてみたい」 「風流だねぇ」 激は立ち上がって、座卓の足元に無造作に置かれた鞄から地図を取り出す。軍部用の詳細な一品だ。 広げて、挟んであった鉛筆と定規で良い場所を検討していると、現朗が近づいて激の肩越しに覗き込んできた。 「……ここと、ここがいいかな。こっちは見えんだろ。観測地点としてはせいぜいこの程度か。 おい、こっから十五分くらいで、湖面に映る逆富士が楽しめそうだぜ……このまま雲がなければ、な」 「それは面白そうだ。急ぐか」 頭に道を叩き込んで、地図を閉じて鞄の中にしまう。このくらいの規模ならばわざわざ持っていく必要はない。 現朗は先に着替え始めていたので、激も遅れをとるまいと慌てて用意を始めた。 激の導き出した観測地点は、富士を観測するに最良だった。―――お陰で、他の隊員もばっちり同じ様に富士見にやって来たくらいに。 既にいた茶羅に聞くと、彼が測定器で富士の高さ割り出している十五分の間に士官は全員現れていたという。 「皆様入れ替わり立ち替わりですよ。 慰安旅行に来ているという自覚はあるんでしょうかねぇ」 肩を竦めて両手を上げる。 しかし、かく言うこの男はわざわざ任務でもないのに地形と地質調査を行っているのである。 五十歩百歩だな、と現朗は思い出しながら一人笑壷に入った。激は富士を見た後、温泉にもう一度浸かると言って出て行ってしまった。 「さて。 のんびりするか」 現朗は気づいていない。 実は、彼がこの言葉を吐いたのは、一度や二度ではないことを。 大きく伸びをして、先ほど激が横になった場所で膝を折った。目の前には、まるで山奥を思わせるような緑の深い庭。紅葉の木々と苔の生す岩とが心地のよい空間を創り出す。冷風が通るときに葉がざわめく以外、少しも音がしない。完全な静寂。 湯飲みに口をつける。少しぬるくなってはいたが味の良い茶で、体に溜っていた疲れが抜けていくような気がした。 ……が、しかし。 数分その景色を堪能したものの、突然立ち上がり、再び、部屋中をうろつき始める。 落ち着かない。 寛ごうとは思っているのに、何故か、体がそわそわしてしまう。 周辺の地脈調査も、霊障の探索も終えてしまった。山の地質調査は茶羅がやってしまって、その資料は手元にある。やるべきことは、予定通り到着一時間以内にすべてやってしまったのだ。 何かすることはないかと部屋中を探索しては、今回の旅行の目的を思い出し、またもとの位置に戻ってお茶を啜る。 そんなことを繰り返していると、遠くから近づいてい来る人影が見えた。激と毒丸、それに何故か仲居が続いており、三人。 「……あいつら」 現朗の心中に嫌な予感が過ぎる。 品の良い老女は、張り付いた笑みを浮かべて二人の同僚の後ろを陣取っている。前を行く男の足が止まると、とんとんと腰の辺りを押して進むように促していた。つまり、まあ、逃げられないようにしているのだ。 何かあったのか、と溜息をつきながら立ち上がって縁側に出た。 離れの傍まで来ると、激と毒丸は彼の名を同時に呼んで走ってきた。 「聞いてくれよーうつろー」 「そうだよ、酷いんだよ、現朗ちゃんっ」 「待て待て。 報告は、内容と言葉を整理してから、わかりやすく伝えるように心がけろといつもあれ程言って……」 「本日はお越し頂き誠にありがとう御座います。 お連れ様が過ぎた冗談をおっしゃるので、こちらへご案内いたしましたが宜しかったでしょうか」 金髪の言葉を遮って、老婆は声を張り上げた。 顔を向けると、恭しく一礼をする。 頭を下げたまま動こうとはしない。 こうされては、聞かないわけにはいかない。不満そうに頬を膨らませる激と毒丸に黙るよう手で合図をしてから口を開く。 「…………我隊員がいかがいたしましたか?」 「いえいえ、案内をしただけで御座います。どうぞごゆっくりおやすみ下さいませ。 夕食の際には案内の者が参りますので」 「だからっ、夕飯分の材料の調達は俺らがするっていってんじゃんっ! そのくらい自分で出来るってば」 毒丸が仲居に向かって声を荒げる。だが百戦錬磨の老婆は口元を手で覆い、柔らかな笑み浮かべて相手にしない。 「おほほほほほ。 またご冗談を」 「冗談じゃねーっての。 一山超えれば猪の一頭くらい今からでも十分狩れるよねー、激ちゃん!」 「おうよっ」 「流石、軍人様、元気の宜しいことで」 老婆は微笑んで―――だが、目は笑わずに―――現朗を見た。 これをどうにかしろ、ということだ。 やれやれ、と嘆息。だが、迷惑をかけられるのは慣れている。興奮する激と毒丸の肩に手を置き、ぐっと強く自分のほうへ引き寄せた。バランスを失った激と毒丸は、引き摺られるままに縁側に尻を着く。何をする、と現朗を見上げたが金髪は一瞥すらしない。 「わかりました。 連絡、有難う御座います」 老婆は再び深い礼をしてから、背を返して去っていった。 納得がいかないのは二人だ。 彼女が見えなくなるまで我慢をしていたものの、その姿が木陰に隠れると同時に声を張り上げた。 「何すんのっ!」 「手伝うくらいいいじゃねえかっ!」 「……いいも何も、お前達、ここに何をしに来たのか判っているのか? 静養しに来たんだろう」 あまりの正論に、二人は次の言葉が出ない。 「食事の用意も何もかも宿の者に任せればよいだろう。 温泉に浸ってゆっくりと骨休めをしろ。せっかくの休暇だぞ。わざわざ仕事をするんじゃない」 毒丸は何か言い返そうとして唇を動かすが、声にはならない。 俯いて、低く呻く。 「……だって、温泉、飽きちゃったんだもん」 「お前、普段、昼寝しにサボるそうだな。真から聞いているぞ。 昼寝でも朝寝でも夜寝でも良いから、思う存分ここで疲れをとっておけ」 「お、で、でもよ! そういやこの宿の安全性、確かめたのかっ!? 食事任せたけど、毒混ぜているかもしんねえぞっ。俺たち嫌われ者だしっっ」 「とっくに終っている」 「あー。それじゃっ、お化けとか霊とかいるんじゃないのっ。 ほら、最近建てたばかりなら山も荒れているし、心霊スポットにもってこいじゃん」 「……着くなり終えた」 食いついてくる二人を次々に一刀両断にするが、何故だか諦めようとしない。 あまりの寒さに外に居ては話しづらいので、現朗は背を返して二人に上がるように促した。彼の意を悟って毒丸と激も草履を脱いで部屋の中に入る。障子を閉めると、囲炉裏の温かさが部屋を包み込んだ。どこか元気のない二人は座卓に座り、現朗の用意したお茶を飲んで大きく溜息着いた。 「……なんか暇ぁ〜」 「……だよな〜」 「お前らな。少しは景色を楽しむなりせんか」 言いながら、手を伸ばして障子を片方を開く。陳腐だが絵になるという表現の似合う景色。 自分は違うとばかりに言い放つ友人に、激はちろりと視線をやる。 「人のこと言えないだろうが。 ―――なんでそー全部一人でやっちまってるんだよ、調査。んなもん、行く前に散々情報収集やっといたじゃねえか」 「現場についてからでないとわからないだろう。 安全確認は基本中の基本だ」 だが、ふーんと面白くなさそうに返事をするばかりで、激は納得しない。 なぜなら、二人と違って、現朗は浴衣を着ていなかった。富士を見に行った後から軍服を脱いでいないのだ。 急に、会話が途絶えた。 三人にしては、珍しく静かだ。 手持ち無沙汰な顔をして、義務のように茶を飲んで時間を潰す。目が合えば慌てて逸らし、庭を楽しんでいる振りをする。茶がなくなれば、急須をとって注いだ。 だが三人が飲めば急須は直ぐに空になる。 お茶もなくなり、耐え難い沈黙が部屋を覆った。 結局、それを破ったのは現朗だった。 「……少し早いが、夕飯の広間の方行ってみないか。暇な者も集まっているだろうし」 その案を否定する理由はなく、三人は席を立った。 |
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