・・・  月日に関守りなし  2  ・・・ 


 日明大佐は自慢の黒髪を垂らしながらいつもの椅子に座って、いつもの通り仕事の山に囲まれている。目を少し伏せて万年筆を走らせる様は、一見すれば有能な女性に見える。口さえ開かなければ本性はわからない。それもいつもの通りだ。
 いつもではないのは、彼女が腰掛けている椅子。
 正確には、椅子の上。
 椅子と骨太の体が、太い鎖で雁字搦めにされている、という点だ。
 しかも斜め後ろには、金属バットを握り締めた三白眼の部下が静かに控えていた。冷たい、凍てつく殺人者の目。今は寸分も動かずに佇んでいるだけだが、殺気にも近いオーラは彼の身体に秘めた動きの可能性を暗に物語る。
 ―――三浦は、一瞬にして、頓悟した。その男の役割を。
 日明大佐が一瞬でも遊べば、その白い手が一秒でも止まれば、容赦のなくバットを唸りを上げて彼女の後頭部を叩きつけるのだろう。
 バットの跡なのか、それとも別の原因なのか、机やら棚やら多くが不思議な破壊を見せている。カーテンなどずたぼろだ。四隅は天井まで焦げた痕跡があり、その上に血の跡らしき不気味な汚れがある。奇跡的、カーテンの後ろの硝子だけが無事で、部屋の惨状が一層際立つ。この部屋は研究所のどの場所よりも酷い有様だった。
 無精ひげの生えた頬に冷や汗が落ちる。
 何が起こるかわからないのが零武隊。

 ……とは、十分わかっているつもりだったのに。なんだこのバイオレンスな仕事場は。

 二人は中将が入ってきたことはわかっているようだったが、中将という陸軍の超上官を徹底的に無視して仕事に没頭している。三浦が動けずにいると、後から金髪の軍人が足音もなく寄ってきた。
 その男が間合いに入る直前。
「…………ええと、日明大佐にちょっとお話があってきたんですけど」
三浦がくるりと首を回す。気づかれていないと思っていた青年は不意をつかれて瞬間的に目を見開いた。
 二人の間の距離は、刀が届きそうで届かない絶妙の距離。
 武人同士の探りあいの、緊迫した空気が落ちる。
 ―――が、現朗はすぐに気を収めて礼儀正しく頭を下げた。
「わざわざこの様な地までご足労おかけし、大変申し訳ございません。
 どうか、あと二十分ほど待って頂けないでしょうか? 
 日明大……馬鹿大佐の休憩時間となりますからご用件はそのときに伺わせますので」
彼は小声で告げる。
 中将の眉がぴくりと動く。彼の言葉が少し理解が出来なかったからだ。
 が、その小さな言葉にいち早く反応したのは彼ではなく、仕事に熱中しているはずの大佐の方だった。
 顔を上げ、睨んで牙を剥く。爛々と輝くその目には、餓えた狼が持つ卑しくも強烈な光。膨れ上がった殺気が部屋のすべての人間の動きを止めて振り向いた。
「現朗ぉぉっ!
 貴様、今、わざわざ言い直したなっ。
 いいだろがっ、普通に呼べばっ!
 言い直すまでそう言わなければ気がすまんのかぁぁぁぁぁぁぁ!」

ぶん。

 一拍も置かず、真のパットが半回転する。
 蘭は紙一重でかわしてそのまま仕事を再開。
 仕事をしているとわかると、真はしずしずとバットを戻してまた元の姿勢に戻った。
「チッ」
横から聞こえた音に、一瞬三浦はぎょっとした。
 実は、この金髪の青年と話したのは初めてではなかった。
 彼が零武隊に入ってすぐに同じ現場で仕事をし、その有能ぶりが目に留まり、三浦はその仕事の間は手元で働いてもらっていた。その頃かなり親しくなったので、出来れば自分の下に来ないかとやんわりと言ってみたが、現朗は苦笑して首を横に振った。三浦はその後、彼が入った当初から有名な将校で、常に零武隊には勿体無い声高に囁かれ、黒木やその他の上層部から熱烈なスカウトがきても全て断っている注目の軍人であることを噂で知った。
 青年は、あの時恥ずかしそうに三浦に言った。
 どうしても、日明大佐の下にいたいのです、という揺るぎのない理由を。
 ………………そんな品行方正の誉れの高い忠誠心の塊のようなこの青年が、今、絶対、間違いなく、確実に舌打ちをした。聞き違いではない。
 よくよく見れば、その瞳にどことなく深い闇の淵が見えるのは気のせいだろうか。
 一体全体、零武隊では何が起こったのだ。
「荒んでるねぇ」
「え? どこら辺が?」
「………………。
 いやぁ。なんでもありませんよ」
無意識に無精ひげを撫でながら、引きつる唇を無理やり動かす。
「ええっと。日明大佐は、その……」
「申し訳ございません。
 今あの馬鹿大佐がなさっている書類は、元帥から直々に明日までという期限がついているので仕事を途中では止めさせるわけにはいかないのです。後二十分以内には終わらせますからどうか少しお待ちいただけないでしょうか。
 いやいや、本当の期限は一週間前だったんですけれどね。なんだか不思議と焼却炉の奥の方に置き忘れてしまったそうで、焼けた紙を再生して仕事をさせているのですが思いのほか時間がかかってしまっているんです。あははははは」
「……へぇ。そりゃ流石、日明大佐でいらっしゃる」
思わぬ光景に動揺を隠しきれない三浦は、気持ちを収めつつ生返事を返す。
「そんな、日明などという名など……。どうぞ三浦中将も馬鹿大佐と侮蔑的にお呼び下さい。
 本当、手のつけられない馬鹿さ加減で困ったものです。逃げ出すために官舎に召喚なんて……ああなんでもないです。ただまたとんでもないことを仕出かして下ったので……ふふふ」
蘭は遠くで聞こえる会話を聞きながら、悔しそうに歯軋りをした。書類の内容など欠片も頭に入っていない。逃げ出そうにも、真の釘バットは、二撃三撃はかわすことが出来てもそれ以上は困難だ。鎖で体の動きが制限されており、彼の実力は零武隊でも上位クラス。その上、誰に似たのか容赦も手加減もない。
 ここ三日間のせいで腱鞘炎とその他色々なもののために四六時中痛むのだが、それすらも忘れてしまいそうだ。今脳内の大半を占めているのは、どうやって部下に復讐してやろうか、その一点だけだった。
 これが終わったら絶対報復してやる、覚えてろよっ!
 と三流悪人並のことを考えて腹にたまった怒りを練り上げていた。
「では、応接間へどうぞ。この部屋は掃除がまだですので」
掃除ってレベルじゃないけどなぁ……。
 と、思った言葉を飲み込んで、へらりと表情を崩す。
「あ。いえいえ。
 二十分くらいならここでいいっすよ。ほら丁度、あんなところにソファもあるし。
 どーせ日明大佐の執務室のソファなんて誰も使ってないんでしょー」
「地獄の一丁目と呼ばれております」
「現朗ぉぉぉぉぉぉ―――っ!」

がず。

 一撃が見事に頭に決まり、反動で机に額を強烈に打ち付ける。再び顔を上げたとき白い額から一筋の赤い血が見えた。それを拭うよりも早く二撃目がきそうだったので、蘭はすぐに書類を取って目を落として読む……振りをする。彼女の勘は正しく、真は踏み込んですでに次の一撃を繰り出していたが、仕事をし始めたとわかるやいなやぴたりと止めた。残りの距離は、一寸もない。
「容赦ないな」
―――思わず、地の声で漏らした。
 金髪はぱちくりと不思議そうに目を瞬かせる。
「え? そうですか? あのくらい日常茶飯事ですよ」
「………………日常って」
うめくようなその言葉を金髪の隊員は聞いていたのか聞いていないのかはわからなかったが、彼は少し嬉しそうに顔を和ませると三浦をソファの元へと案内した。
 現朗としても、見知った上官に会えることは少し嬉しかった。その上官が前と少しも変わりがなくて、なんだか入隊した頃に戻ったような気さえしてくる。
「コーヒーはいかがでしょうか」
「珈琲? よく飲むよ。あれ眠気も飛ぶし、気分転換も出来ていいよね。
 うちの師団でも、設置してから全体の仕事の効率があがったんだ」
「うちもですよ」
どこでもそうなんですね、と現朗は少し驚いたようだ。
 その時、三浦は突然閃いた。
 隠し金を返してもらおうという依頼も、このとんでもない零武隊の状況も、快刀乱麻を断つ勢いで解決できる方法。そんな二兎を得るような都合の良い摩訶不思議な手段を思いついたのだ。
 かなりイレギュラーな手段ではあるが、零武隊のことならば上層部だって納得するだろう。説得させる自信はある。
 どうしたのだろう、と突然変わった中将の様子に、現朗は眉間にしわを寄せる。
「三浦中将?」
「……君達、さ、気分転換したらどうかな」
上官の言葉は彼の想定外だった。
 何を言っているのだろうと不思議がる現朗は、次の瞬間、不審な眼差しに切り替える。今まで三浦に会えた嬉しさで考えていなかったが、彼がここに来た目的は? 零武隊に何か悪いものを持ち込むのかもしれない、と警戒心を露にした。
 が、自分の思いつきに酔っている三浦は爽やかに微笑んでその視線に答えた。
「こういう心が殺伐としちゃったときには、休暇が一番だよ」