・・・  月日に関守りなし  1  ・・・ 


 帝都に来るのは久しぶりだった。
 ひっきりなしに吹き付ける、痛いほど冷たい冬の風。三浦中将の頬を撫でて、木の葉と戯れてどかかへと去っていく。見れば馬車の戸を開けて控えている部下は、首を竦めて震えていた。
 一方、馬車から降り立ったばかりの軍人は、大してその寒さを感じた様子はなく、いつもどおりのつかみ所のない顔で零武隊の門を見上げた。その無精髭の顔色は悪く、目の下には薄黒い隈が浮んでいる。髪は椿の油できちんと整えているが、触覚の様だと日明大佐に評価される前髪の数本に、いつもの独特のはりがない。
「で、では、一時間後にお迎えに参ります。どうかそれまでに……」
「はいはい。りょーかい」
「中将っ!
 お願いですからキチンと仰って下さいよっ。また予算を取られたら、いくら我らが師団が明朗会計な優秀な軍人の集まりだからといって暴動がおきかねませんっ」
「わかっているよ。
 ……まあ、あの金は仕方ないといえば仕方ないんだけどね……まったく、まずい人に見つかったよ」
いきりたつ部下を片手で制しながら、三浦はこっそりため息をつく。
 目の前には独特な零のマークが付いた二本の柱。どこの軍施設とも同じつくりにも関わらず、何故かここだけ空気が濁っているような、そんな感じがする。感じがするだけではなく実際に空気自体がなんらか化学物質を取り込んで変異しているのかもしれない。十メートルも離れていない位置の建物が、霞がかってなぜか見えないにのだから。軍の闇部門、零武隊の根城、特秘機関研究所。
 そもそも、三浦は今回の帝都出張には零武隊に寄る予定はなかった。そこは、上層部が集まる増毛増髭の会や卑猥な8020運動を抑えて堂々と『関わりたくない軍部の闇』の一位を掻っ攫う。誰が好き好んで訪れるだろうか。精精、予算について文句を言いに来る黒木中将か日明大佐自身に文句を言いに来る元帥だけだ。
 入りたくないなぁ、という気持ちを抑えて三浦は通用門を押す。鍵はかかっていない。無用心だが、まあここに入る泥棒がいるはずもない。
 反射的にポケットに突っ込みたくなる衝動を抑えながら、背を伸ばして、三浦はここ数日のありえないくらいに忙しい日々をつらつらと思い出した。
 遡れば一週間前のこと。
 第三師団の予算を日明大佐が難癖をつけて掻っ攫ったとの報告が届いた。予算が増えるならば困ることは無いが、減るとなればてんやわんやの大騒ぎとなる。長たる三浦は寝ることが出来ないくらいだった。
 まあ後ろ暗いことが無いわけではないから、あの金については文句が言えないなぁ……と垂れ目をさらに垂れさせながらある程度納得というか諦めていたのだが、忙しさに死にかけた部下たちはそうは思わない。今後のことを考えて重々注意をしておいて下さいと血走った眼の部下に突付かれて、流石の面倒臭がりの彼も頷かないわけにはいかなかった。
 案内もつけずにずかずか進む。
 これまでの経験から、案内を頼むとその間に日明大佐に逃げられるということがわかった。どうやらそれは他の客人らもしているらしく、研究所内で幾人かの隊員とすれ違ったのだが誰も三浦を咎めはしない。それもどうよと内心つっこむが、ここは常識の通用しない世界だからと思い直して腹に力を込める。

 何が起こるかわからないのが零武隊、一々驚いていては身がもたない。

 色々な思いを胸に秘めて彼は足を速めた。隙間が多いのだろう、気温はおそらく殆ど外気とは変わらない。外套の下に数枚着ているというのに全身が震える。ただ、寒いどころか痛いとしか思えない突風を防げる分、屋内の方がましといえばそうだ。
 彼の予想通り、壁、柱、天井のいたるところに罅割れの跡。窓も何故だか殆どが修理中で、割れてない硝子がない。
 はて、と三浦は心中で首を傾げた。
 そういえば、こんな所に傷があっただろうか。
 この前に訪れたのは数ヶ月前。記憶は曖昧だが、明らかに雰囲気が変わっていた。
 喩えるなら、そう、この建物だけ数十年以上経ったような。建物全体が人為的に老朽化している。変わったのは建物だけではなく、すれ違う隊員たちも同様だった。狼の様に虚ろでぎらついた瞳。人生の楽しいことなど、もう何一つもないと諦めきったような黄昏た顔つきだ。
 今浦島のような、時間を遊んできたそんな違和感を覚えながら足を早めた。
 そして、到着する、目的地。樫の木の厚い扉に数箇所穴が空いていることを無視して、なんとか無事のノブに手をかける。金具は少し壊れていて、軽く回すだけで自然と扉が内側へと動く。
「日明大佐ー、失礼しますよ」
極力明るい声を取り繕って、ノックもせずに―――勿論逃げられないために―――暴君の名をほしいままにする『鬼子母神』殿の神殿へと足を踏み入れた。
 作り物の笑顔に、作り物の声。
 掴みは大事だ。苦言を呈しにきたとわかると、壁を打ち破っても逃げ出す奴だと黒木中将から聞いたことがある。
 が、今回は、逃げ出すことはなさそうだった。
 それは彼女の機嫌がよさそうとかそういうだとかそういうことではなく、状況的に、逃げることが不可能だったからだ。