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「……お前」 「よくも顔を出せたものだな、か? そう言うな。 昼は迷惑をかけた。許せ」 許せ……っておい。 頭が痛くなるような錯覚を覚えて、八俣は額に手を当てて頭を振る。 闇に浮かぶ白い姿。己の信念に殉じ、絶対不可侵の空気を纏う意志の強い表情していた。同じ格好をしているのに、昼間の取り乱したあの女とはとても同一人物とは思えない。 夜中十二時を過ぎて八俣家の玄関には最悪の訪問者がいた。仕事を携えてきた零武隊の隊長殿である。扉を開く前から、可愛い兎の寝巻き姿の男の眉間に深い皺がよっていたが、玄関まで来たのに締め出すのもどうかと思って戸を開いてしまった。 「あんたが謝るなんて珍しいこともあるじゃない」 「お前が手を出さないのも同じく珍しいだろ。 怖いといわれたくらいであんなに落ち込むとは思わなかったぞ」 「落ち込んでねえよっ! ………………えっ、て、まさか……」 蘭の言葉に、信じられないといった顔をする。彼女は少しばつが悪そうに苦笑いを浮かべた。 「部下から全て報告は聞いている。 だから、ここに来た」 わかるだろう? と、男の気を弄るように上目遣いで見上げきた。 零武隊で起きてから、丸木戸と毒丸は白服全員の前で事の顛末を報告した。蘭が八俣に愛の告白をし、怖いと泣き、抱かれて声を上げ、そして―――愛していると言われて拒絶したことまでの全てを。彼女は表情一つ変えずに全てを聞いていた。 まあ、丸木戸のとった行動も悪くは無い。彼のかけた催眠も自分の本意にそぐうことだから、困ることもないと結論付けた。 「体だけか?」 八俣は、無感情に問う。 「体だけだ。 心は、もうとっくに置いてきた」 言いながら、軍帽を脱いだ。 家の主を押しのけて、勝手の知った家にずかずかと入り込む。しゃがんで軍靴を脱ぎ始めた。既に廊下の明かりは全部消されていて、彼が持っていた燭台の揺らめく炎だけが僅かにその姿を照らしていた。 丸められた背中を、八俣を遠い目で見る。 昔の彼女はいない。 ―――いないのだ、わかってくれ、と必死に叫ぶ女。 だったら、いないと信じてやるのが自分の役目らしい。 それは酷く苦しい事だけれども、それを選んでやる以外の選択肢はない。 「……いつか」 と、徐に、立ち上がった彼女が呟いた。 「いつか、私に子が出来たら、お前が育ててくれないか? ……心無い私が育てるのは、その子にとって、哀れだろうから」 蘭は前を見たまま背を向けて言う。 哀れ、か。 その言葉を八俣は口の中で反芻して飲み込む。……甘く苦い味がした。 どうして哀れとわかるのに自分の姿は見えないのだ。お前の姿の方が、何よりも、哀れじゃないか。 返事こそしなかったが、八俣はその約束をしっかり胸に刻んでやった。 家に上がり、真っ直ぐ進んで先に行く女の肩を抱いた。緊張しているのが指の感触から伝わってくる。だが、いつまでたっても振り払ったりするような気配は無い。 ……どうやら、今夜は酔わないでも抱かせてくれるらしい。その覚悟を持ってきたようだ。これが今回の代償というわけか。 「存分に楽しませてもらおうか」 「殺す」 「……ああ、逝かせてくれよ。何度もな」 左腕でぐるりと力強く抱き込まれると、蘭は為すすべもなく男の胸に密着した。開かれた襟元から獣の匂いが蘭の鼻腔を擽る。ゆったりと波打つ心音が伝わってきて急に恥ずかしくなってきた。顔が火を噴きそうなくらいに熱い。 刀は完全に押さえられてしまったし、首を押さえられては動かすのも不自由だ。逃げ出すなんてまず不可能に近い。 わずか五分も経過しないうちに、すでに後悔が始まっていた。 そういえば教授が、酒が入れば多少男性昨日は弱まるといってなかったか? ならば、やっぱり飲まないではまずくないか? それになんか怒っているときってこいつ全体的に行動が荒くなるよな。……一日置くべきだったかも……。ていうか、やっぱ酒の後の方がいい。止めよう。そうだ、やめにしよう。 「明日出張だということを思い出したから帰る、と私が言ったらどうする?」 「動けないお前を零武隊まで運んで部下に説明するだけだが、なんだ?」 即答された。 ―――というか、無駄に男の怒りを煽ってしまったような気がしないでもない。 「………………だから怖いんだ」 ぼそっと。 彼女は思ったままを呟いた。悪意は無い。ただ正直なだけだ。 正直さは美徳だが、時として命の危険を招くことがある。 男の左手がきつく握られて、背筋が凍ったときには既に遅い。 「らぁ〜ん?」 不気味に呼ばれて振り返ると、息のかかる距離に男の顔があった。秀麗なその顔は笑っているようだが、表情筋の引き攣り方が不自然だ。嫌な予感がして、冷や汗がだらだらと流れ落ちた。なのに太い腕に阻まれて後ろに下がることすらできない。 「や、やくも?」 上ずった声で返事して、しまったと思った。 顔が近づいてきていきなり唇を奪われる。会話の途中だったがために簡単に口内に侵入してきた。両手両足をばたつかせて逃げようとするが、八俣は左手で頭を抑えて右手は蘭の腰を抱いて動きを封じた。封じながら、大きい右の掌は蘭の全身をまさぐる。彼女の動きが鈍くなった頃に、両手でいとも簡単に服を脱がせてしまう。 ……顔が離れて、男はぺろりと舌なめずりした。 「廊下じゃ寒くて悪いなぁ?」 ここでやるのかぁぁぁぁぁぁっ!? 脳の何処かはしっかりつっこんでいたが、八割はもはや男の掌だった。 先の快楽を予想した体はすでに火照り始め、全身が触れてくれと疼き始めている。熱を孕んだ体になって、もはや逃げ出すことも抵抗することも出来なくなっていた。 翌日、朝の冷たい光に目が覚めた素っ裸の蘭が一体何処にいたのか ―――それは、彼女の永遠の秘密となる。 |
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