・・・  タナボタ  3  ・・・ 

 地を揺るがすような悲鳴が上がった。
 何が起きたのか理解するよりも早く、恐ろしい力で八俣は突き飛ばされる。
 その力も行動も全く予期していなかったがために、彼は後ろの机にしこたま腰を打ち付け、痛みで一瞬息が止まった。
 空気を割るように、扉が蹴破られた。
 軍人が二人、次々に飛び込んで来る。正確に言えば一人は軍人ではなく教授なのだが、教鞭を振るうよりも長く死体と接しているからそこいらの軍人よりも手に負えない男だ。決められたような迷いの無い動きで、二人は蘭に襲い掛かる。―――階級を絶対視する軍に属しながらも、上官に襲い掛かるのに躊躇いが無い。
 前を走っていた毒丸は、肩を振り上げて鞭を鋭く走らせた。
 髪を振り乱して叫ぶ上官の身に巻き付く黒い皮の蛇。捕えられて激しく床に叩きつけられる。軽く床を引きずられて八俣から引き離された。
 蘭は激しく身を振って抵抗するが、薬の入っている体では何の意味も成さない。毒丸は数メートル離れたところで鞭をぴんと引っ張った。絨毯の上で体の自由を取られて蠢く女の上に、丸木戸はどすんと跨った。
 獣のように咆哮しながら首を振り、黒い髪が舞う。丸木戸は左腕を噛ませながら全身の力で蘭の顔を押さえつけると、持っていた注射器を素早く首筋の静脈に打ち込んだ。
「貴女、自分が誰だかわかっているんですか?
 わかっているんでしょう?
 国の厄介事を全て引き受ける零武隊を率いる、日明大佐じゃないですか。
 その刀で、もう何人斬り殺したんですか?
 どれだけの死体を歴史から葬り去ったんですか?
 修羅道を真っ直ぐ歩んでいる貴女が、今更人に好かれたいなんて、おぞましい。八俣警視総監まで引き摺り込んじゃいけない。貴女が彼に愛されるはずが無い……そうでしょう?」
強い言葉とは裏腹に、言い含めるような優しい声で、耳元で囁く。
 彼女は暴れるのを止め、放心したように床に横たわる。丸木戸は体を起こして首を解放し、宜しい、と満足げに呟いた。

 こいつ、何を言っている?

 警視総監の背筋に悪寒が走ったが、それを意地でも顔には出さない。
 丸木戸が慣れた調子で暗示を掛けていくのを見て、彼の中で一つの疑問がゆっくりと溶解していくのを感じた。

 蘭が、頑なに自分との関係を認めない、その理由を。

 ちょこちょことこちらへ向かってくる軍人がいる。どうやら彼は鞭を放棄したらしい。いつものとおり生意気な笑みを浮かべているが、目が笑っていない。
「お邪魔してすみませんねー」
「……全くよぉ。
 男と女がせっかく良いところだったのに無粋にも程があるんじゃない?」
髪をかきあげながら言い返す。
「うーん、別にイイトコロだったら俺たちも無視するんだけどさ。大佐が八俣さんと仕事時間中に挿れられちゃおうが喘がされようが別にどうでもいいし。大佐だって俺たちが外で聞いているって知ってるだろうし。
 ―――でもさ。

 体あげてんだから、体だけで満足してよ。

 心まで奪おうなんて虫が良すぎ」
毒丸の目の奥にある不気味な光が収束して八俣を穿つ。
 青年は怒っているのだろう、おそらく、それも強烈に。
 奥では、深層意識に都合の良いことを刷り込み終えた教授が、雁字搦めになった蘭を立たせている。
 危なげな足元に、思わず八俣は一歩出た。
 が。
「……大佐はあげない」
大男の一動作に反応して、即座に眼前の軍人が小刀を抜く。
 通せんぼ、といったことか。
 刃物を出せば危険が増すというのに。八俣は出した足を戻して悠々と机によりかかりながら、三人をゆっくり傍観することに決めた。この場で蘭を取り戻したとしても、得なことはなにも無いだろう。このまま押し付けられるはずだった仕事と共に部下たちに持って帰ってもらったほうが良い。
 ……どこか割り切れない感情を必死に抑えて、八俣は余裕の表情を浮かべた。
 丸木戸は扉のところで一旦振り返って警視総監を見やると、少しだけ笑って会釈をしてから蘭を連れて去っていってしまう。毒丸も小刀を構えたまま後退して、最後には「失礼しましたぁ〜」と暢気な捨て台詞を吐いて出て行った。
 机の上にある使い古したカップは、朝注いだ珈琲がそのまま入っていた。不安定な形をしているが、窓から入る日差しの陰影を受けて見る者を楽しませる。装飾が多かったが、どこもまだ欠けてはいない。
 半分になった薬を横にどかして、それに手を伸ばす。
 昔、蘭と自分がまだ同じ道場にいた頃、横浜の土産だと彼女がくれた品だ。
 横浜の古物商で、身振り手振りで一時間以上も粘って半額にさせたと自慢げに語った。おそらく彼女のことだから、商談が楽しくて買った品には興味が無かったのだろう。だいたい、大和魂の固まりの彼女がこの西洋カップの使い方をしっていたのかどうかすら怪しい。蘭は八俣に差し出したとき、カップを逆さまにして手渡したのだから。……懐かしい記憶だ。
 冷たくなった液体を流し込んで八俣は気を落ち着けた。
「……まあ、仕事を押し付けれなかったら良かったのかしら」
ふう、と息を吐いて天井を仰いだ。真後ろにある大窓から見える、午後の日差し。そろそろ休み時間は終わりのようだ。

 手の中で、砕ける音がした。

 みるみるうちに彼の手袋は茶色に染まり、破片は床に散らばる。八俣は何も無かったように手袋をとって捨てると、手袋の上から破片を踏みつけた。
 新しい手袋をとりに部屋を出たとき、丁度副総監とすれ違った。彼の手には頼んだ資料が揃えられていた。
 八俣が再び戻ってきたときには絨毯の上にあったはずの残骸は全て無くなっていた。