・・・  タナボタ  1  ・・・ 

 連絡も予約も無く、いきなり名前を呼ぶのも憚れるような明治維新の大立て者が警視庁に来たので、警視総監八俣八雲はその相手をしなければならなかった。相手が相手なので途中で退席することも出来ず、もちろん部下が入ってくることも出来ず、彼は延々三時間老人の小言と文句とに付合う羽目に陥った。少なからず恩もあるし、何より影響力があるので無碍に扱えない。張り付いた笑みを乗せながらただその言葉を右から左に聞き流した。
 彼の持ってきた問題は、本当に些細なことだ。本当に。昼の仕事の前に少し手を回せば何とかなるだろう。
 八俣は処理すると確約すると、相手は気をよくして出て行った。忙しい最中だと文句の一つもいってやりたかったが、それを飲み込んで見送ってやった。三時間堪えたその努力を水泡に帰してしまうのはつまらないし、それに、嫌味を飲み込んで死んだ人間の話は聞いたことはないからだ。
 午前中が丸々潰れてしまったことに途方も無い疲労感を覚えながら、八俣は肩に手を置いて揉みながら廊下を歩く。
 気づけば応接室の外では昼休みになっていたようで、廊下を多くの人間が行き来している。扉のない部屋からは弁当のおいしそうな香りが漂ってきて胃袋を刺激した。
「もー、どーして年とるとああ僻みっぽくなるのかしら。
 あたしも気をつけなきゃいけないわー。お洒落と男に興味が無くなったら終わりよね。ほーんと……」
「あ、総監っ」
角を曲がったとき、真後ろから声を掛けられた。八俣は足を止めて首を回すと、予想通り副総監がそこに立って居る。いつ見ても面白味のない、生真面目な顔だと思う。特徴は無特徴というような、十人並みの顔。その上に、まるで性格を反映したかのようなきっちりと七三分けした髪の毛が乗っかっている。まだこの髪形をしているということは、まだ誰も本人に似合って無いことを伝えてないに違いない。
 しかし、顔に似合わず―――と評価するのは本当に失礼だが―――この警視庁で自分の次に出来る男だと八俣は認識しているし、それは間違ったものではない。
 彼の顔がわずかに翳っているを見て取って、八俣は首をかしげた。彼を悩ませるような仕事を置いていった覚えは無い。となると、自分が居ない間に何か事件でも起きたのだろうか。
 疑問はすぐに解けた。
「今、部屋に零武隊の日明大佐をお通ししております。
 実は一時間前に来ていたのですが、お話を止めるわけにはいかなかったので待っていただいたのですが……」
副総監の言葉に八俣の片目が少し眇められる。
 日明大佐という一言に長髪の豪胆に笑う女性の顔を思い出し、さらに彼の脳裏に思い出したくも無い無数の記憶が一瞬で過ぎる。
 基本的に零武隊が関わってくると良いことは無い。仕事は増えるわ、残業が続いて肌が荒れるわ、部下に負傷者は出るわ、一般市民からの苦情は嵐のようになるわ、疫病神以外の何者でもないのだ。
 しかも、軍の重鎮すら黙らせる存在である以上無視をして通ることが出来ない。ちなみに前の総監は白い軍服を見るだけで胃痛を起こす不思議な病気にかかったという。

 ……にしても、あの女がよくもまあ一時間以上も人を待っていたもんだ。

 別なところに驚きを覚えながら八俣は口を開いた。
「あーあ、また面倒な事件かしら。嫌になるわねぇ」
副総監も同じ気持ちなのだろう、彼も目を伏せて反論しない。
「柊翁が持ってきた話は今日中に片付けるから気にしなくていいわ。午前中の仕事、まかせちゃったわね。
 ああ、そうそう。今朝持ってきてくれた押収した薬の件だけど、あれ外国製じゃない、この国で作ったものよ。精製技術がかなり高いから、専門家に違いないわ。技術関係から洗ってみようと思うの。
 干菓子に催眠剤を盛り込むなんて……どこの馬鹿かしらねぇ。
 広まったら厄介だから、明後日までにはなんとか専門の対応組織を組んで予算を用意する。
 作戦について検討したいから、資料集めておいてちょーだい」
「判りました」
彼は言いながら一礼すると、背を返して去っていく。
 その背を見送った後、大きく伸びをして自室へと急いだ。


 *****

 扉を開くと、白い軍服が目に飛び込んでいた。
 十二時になったばかりの光が窓から差し込んできて、逆光で白い姿が浮かび上がる。八俣専用の重厚な樫の机の前に、彼女はすっくと立って待っていた。
 警視総監の執務室はこの官舎の中で一番費用がかかっており、赤い絨毯も壁の織物も日本で最高の代物だ。そしてその部屋の雰囲気を損なわない机と椅子のセットは、わざわざ前の警視総監が京都の職人に頼み込んで設えさせたものだという。
「待たせたな」
なんと声をかければよいか思い浮かばず、とりあえずそう言いながら入ってきた。嫌味も罵倒も覚悟していたが、珍しく零武隊隊長は何も言わない。ただその姿勢のままぴくりとも動かないのだ。
 一時間も待って、そして、文句も無い。ただ只管、蘭は中空の一点を見ているようだった。
 言葉に出来ない違和感を覚えて、八俣は足を速めた。
 と、気がついた。
 彼女の足元、赤い床の上に、数枚の紙が散乱していることに。
 ―――それは、蘭が零武隊から持ってきた書類に間違いない。
 少し焦りを感じながら、手を伸ばして肩を掴む。彼女の務めは、この国のあってはならない異形のモノの始末。異形のモノは常識で測れる代物ではない。いきなり取り憑かれたりすることもないわけではないのだ。
「どうしたっ? 蘭っ」
強い力で握り締めたというのに、反応は薄い。いつもなら馬鹿力と怒鳴り返してもおかしくは無いのに。
 彼女の自慢の黒い髪が、さらりと動く。
 珍しく緩慢な動作で、蘭はゆっくりと首を回した。
 白い顔が現れたとき八俣に衝撃が走った。
 いつも数人斬ってきたような―――彼女の場合、本当に斬ってきた後なのかもしれないが―――鋭い眼光が濁っており、蕩けるように目じりが下がっいる。口は閉じられているが、いつもの意志の強そうな雰囲気は無い。ただ漫然と閉じているだけだ。そして、振り返りはしたものの彼を見ている様子は無く、どこか宙に焦点を結んでいた。
 考え事をしているとか、上の空とかいった雰囲気ではない。
 八俣が首をそらすと、予想通り、机の上にあったはずのものが減っていた。

 押収した薬―――干菓子型の催眠剤が、半分の数になっていたのだ。

「……お前、ここにあった菓子食ったのかよ……」
尋ねたというより口から漏れた言葉に、こくんと蘭が素直に首を縦に振る。
 菓子状にしているがかなり強力なタイプで、これだけの量を一気に摂取したら弱い人間ではバッドトリップでは済まなかっただろう。彼女の体質が薬と相性が良かったことは、不幸中の幸いだったといえよう。
 何はともあれ。
 今、この強暴で兇暴な女は、完全にトリップしてしまっているらしい。
「催眠剤って……まあ、催眠剤なんだよなぁ。
 一個で一時間つうから、三時間分かぁ」
顎に手を置きながら資料の数字を思い出して気を落ち着かせる。そうせずにはいられないくらい、男の精神は異常な興奮を見せていた。鼻息が荒くなっているのに自分では気づきもしない。
 催・眠・剤。
 服用者は、意思をなくし、命令どおりに動いてしまう、催眠をかかりやすくする薬。麻薬の一種だが、麻薬よりも調合が難しいためあまり見かけない。警視庁でも摘発しなければならない量が出回ったのは初めてのことだ。
 棚から牡丹餅が落ちてきたような幸運に、如実に信じられないという思いのほうが強かった。
「両手を挙げろ」
と、彼が言うと。
 蘭は胡乱な目をしたままさっと手を上げる。
「下ろせ」
上げたときと同様の素早さで、手は下げられた。
 言われたことを忠実に実行する女に、ますます男の脈は激しくなる。なんとかいつもの表情を保っていたが、口元は知らずうちに緩んでしまった。

 ええと、だ。つまり……つまり、色々出来るってこと……だよな。

 目の前の人形のようになった女性の頬に、そっと手を置いた。
 確認のためだ、と心の裏にそっと言い訳をしながら口を開く。
「……接吻、してくれるか?」
蘭は顎を上げた。
 男の大きな肩に手をかけて、ぐっと背を伸ばして顔を近づける。爪先立ちをしても届かない距離を、八俣が膝をかがめて埋めてやった。すると、蘭は躊躇うことなく向かってきた。
 柔らかな唇が自分の口に接触する。
 もはや本能の域で素早く八俣が舌を滑り込ませると、いつものように噛みついたりせずに、なんと舌を絡めようとしてくるではないか。たどたどしい動きが余計に、必死さが伝わってきて男の本能を刺激した。
 色気のないのになんか感動的だよなぁ……―――と自嘲しながら込み上げる嬉しさを噛み締める。努力しないと、涙が出そうだ。
 かつて、一度だって、この恋人がこんなにも素直に自分のために動いてくれたことがあっただろうか?
 ―――ない。
 虚しいことに、脊髄反射の速度で答えは出る。
 傲慢と言うべきか、我侭と言ってしまったほうが正確か。そもそも愛し合っているという自覚がこの女には無いのだ。欠片も無いのだ。
 どころか、「……すまん、今日は気の迷いだった」と寝た後に堂々ときっぱりと言い切る真にいやぁぁ〜な性格をしている。八俣は恋人だと思っているし、恋人がすべき行動を全てしているのにも関わらず、蘭自身はそれを頑なに認めようとはしない。何度褥を共にしてもその態度は変わらなかった。
 蘭の息が上がり、膝を曲げる姿勢がつらくなってきたので八俣は首を離した。女の頬は赤く上気し、目が潤んでいる。
 ダイレクトに男の欲望を刺激する顔をして、とろんとした瞳をこちらに向けてきた。意識的に誘っているならば最高の顔だ。
 通常、日明大佐が来ると部下は絶対に部屋に入って来ない。どころか、何かあったときの巻添えを恐れて廊下すら来ないようになる。
 ごくり、と男の太い喉仏が一回往復した。
 卑怯だよな、ときちんと自覚している。
 だが、彼はその言葉をどうしても彼女から聞きたい。その欲求は身を焦がして精神を焼き尽くし、堪えられない域に達している。
「俺のことをどう思っているか、言え」
「……警視総監。オカマ。煩い。声が大きい。鬱陶しい。顔はいい。体はいい。強い。頼りになる。仕事が出来る男。時々迷惑だが……」
ゆっくりと首を横に振る。そんな言葉を聴きたいのではない。
 どうしようもない衝動に押されて、彼はもっと直接的な言葉を選んだ。
「お前は、俺のことが好きか?
 愛しいと思っているか?
 ―――愛しているのか?」
彼女は躊躇いなく首を縦に振る。
「……言ってくれ」
掠れた低い声で、蘭の耳元で囁いた。
 こくり、と彼女は再び頷いて―――

「八雲、愛している」