・・・  タナボタ  2  ・・・ 

 机の上には干菓子が三つだけ残っていた。
 無くなっているのは三錠、報告が正しければ三時間分。そして彼女は一時間前から来ている。
 ……まあこいつの肝臓処理能力を考えれば一時間くらいだろうな。
 計算が終わると、男は卑しい笑みを浮かべながら女の全身を舐めるように見つめた。普通に始めれば一発や二発は出来る十分な時間がある。昼休みなのだから副総監は嫌な顔はするが文句は言わないだろう。……多分。
「脱げ」
八俣は明瞭な一言で命令した。
 言われるがままに、蘭は腰の帯に手を伸ばす。がちゃん、と大きな音を立てて刀が床に転がる。続いて、白い手袋が投げ捨てられる。その上に帽子が落とされた。装飾的な上着に手をかけ、釦を上からはずしていく。

 こんなストリップショーなんて、もうマジありえねぇ……
 
 二人の逢引は、大抵、酒を飲んでそのまま蘭が気が失う直前にもつれ込む。彼女は常に受身的でしかない。
 悔しいことだがこの女は正気の状態では甘えてくれないのは勿論、正当に誘っても(抱いていいだろ。とはっきり尋ねたわけだが)刀を振り回されて追い駆けてくるので上手くいかない。ただまあ、彼の前だけでは無防備に酔っ払うのだから、蘭も八俣と寝たくないと思っているというわけではないだろう。嫌ならば酔わなければいいのだから。
 シャツの釦が全てはずされ、布地の隙間から白い肌が見えた。残りはシャツと、ズボン。いよいよ開帳だなぁ、と下卑な相槌を心の中で打つ。
 と。
 ―――女の手が止まった。
「どうした?」
反射的に八俣は尋ねる。さっきまであれだけ素直に命令を聞いていたのに、何故だかそこから動こうとはしない。シャツを持つ手がぶるぶると震えている。
 びくんびくんと間断的に肩が跳ねるのが見えて、不穏なものを感じ取った。さらに低い嗚咽のようなものが聞こえてきて、流石に男から笑みが失せる。

 ……泣いている?

 まさか、と彼が困惑するのと時同じくして、その予想を裏打ちするように低い呻き声が漏れてきた。
「うぅぅぅ……ひぃっく……えぐぅっ…………ひっく……」
シャツの端を握り締めたまま、雫が俯く顔から絨毯へと落ちる。深層意識に直接響いた命令を、懸命に拒絶している。それも泣くほどに。
 卑怯な命令をしているという自覚があるだけに、彼は狼狽えた。
「い、嫌なのかっ? どうしてっ」

言って、直ちに、後悔した。

 嗚呼、何で俺はこんなことを聞いてしまったのだろう。
 今までの行動から察するに、この薬の効き目は本物だ。
 ……つまり、嘘はつけない。蘭の心を知ってしまう。本心からの答えがわかってしまう。
 人間、知らないほうが良いことがある。真実を知るのが全ていいわけではない。積み重なった経験から彼はそれをよくわかっている。
 案の定―――予想通り―――蘭は涙を溢しながらこくこくと首を縦に振った。顔を引き攣らせている八俣の心中が、ずきっと痛む。だが、それだけには止まらない。

「………………………………怖い……から……嫌だ」

 ぐさっ。

 と。心臓を鎌で刺されたような音が聞こえた気がした。
 それは錯覚だったが、うえぇぇんと愛らしい泣き声が部屋に響くのは現実だ。

 そんなに怖いことしてたか、俺?

 その一言は、倣岸不遜な男には途轍もなく良く効いた。
 ふらふらと危うげな足元で、机に寄りかかる。眩暈。頭痛。その他諸々の症状が一瞬で同時に襲い掛かる。
 泣きたいのはこっちだと思いながら、ちらりと顔をあげた。えんえんとまだ泣いている。嘆息しながら肩を落とした。良いところまでいっていた劣情も彼女の涙のお陰ですっかり萎えてしまったのである。
 脳内で今までの秘蔵映像を必死に掘り起こした。体は慣れているから良いと思ってたんだけどなぁ……と言い訳をしてみるが、目の前で泣いている事実は不動のものだ。
 怖いのか、そうか、怖かったのか俺。誘ってもあんなに拒絶してたのは俺のせいか。異形のモノを始末して、部下を蹴散らして、外国の偉人でも平気で殴りかかるコイツでも、怖いものってあったのか……て、それが俺かよ。やりたい俺の何処が怖いんだ? ……つーかどこもかしこも怖いのか……。
 鬱々とした精神は坂を転がる大岩のように物凄い勢いで闇へ落ちていく。五分前までは最絶好の状況にいただけに、そのダメージは強烈だ。

 多分ここで好きにやったらもっと避けられるんだろうなぁ……。
 どうせ、怖いわけだし。

 視線をやると、佇んだままぐすぐす鼻を鳴らしている女性がいる。何がそんなに悲しいのか。床に視線を這わせながら、ぼりぼりと髪をかいた。

 ……慰めてやるか。犯らないで。

 非常に情けないいじけた精神の所産だったが、とにかく、彼にしては珍しくまともで人格者な結論に至ったのである。
「蘭、おいで」
八俣が両手を広げると、彼女は躊躇なくその胸に飛び込んでくる。ひしっとシャツに縋り付いて濡れた顔を擦り付けてきた。女を太い腕の中に閉じ込めてやると、余計に声を上げて激しく泣く。
 只管に、慟哭していた。し続けていた。
 泣く行為自体に没頭して、もはや泣き始めた理由を忘れたのだろう。膨れ上がった苦悩が涙と共に零れ落ち崩壊していく快感。何が辛いというわけではない。唯唯、物悲しいのだ。何かが胸を締め付けるのだ。
 泣くな、といえば止めるだろうとわかっていたが彼は言わないでやった。
 どうして無理し続けているのだ、この身で。
 異形の者『始末』を押し付けられて、周囲からは疎んじられて、一人で全ての恨みを受けて。強い人であることは知っている―――が―――弱さを捨ててまで強くなった人間はろくな死に方が出来ないものだ。
 自分でも知らぬうちに、彼は黒く艶やかなその髪を優しく優しく撫でていた。
 この哀れな女のためにしてあげられることが、果たしてどれだけあるのか? 八俣はそんな物思いに囚われながら腕の中の彼女を慰め続けた。

 *****

 嗚咽の間隔が空くようになり、興奮が収まったころを見計らって彼が口を開いた。
「お前、俺に抱かれるの嫌なのか?」
気にしてない。どうでもいい、些細なことだ。ぜんぜん気にしてないが、一応聞いておきたい今後の参考のために、と脳内で百万言の言い訳を並べ連ねて質問する。正直な心臓がどきどきばくばくしているが、八俣はそれは室温があがったせいに違いないと思い込んで無視をした。
 赤子のように真っ赤な顔と男の強張った笑顔がかちあう。
 蘭は低い唸り声を上げているだけで、何も答えない。
 今まで即答していたのを考えれば不自然な反応だった。催眠剤の使用中は深層意識に直接語りかけるから、考える暇は無いはずだ。彼は聞こえなかったという可能性を考慮して、改めて問いただした。
「―――男に抱かれるのは、嫌か?」
すると、すぐに頷かれる。
 ……嫌なのかやっぱり。
 ちょっとは予想していた返答に、貧血に似た感覚が再び頭を襲って再び落込みそうになる。
 が。
「俺に抱かれるの、嫌なのか?」
ある一つの疑問―――または、最後に残された唯一の可能性―――を打ち消すために、八俣は同じ問いを繰り返した。敢えて当初したものと全く言葉を変えない。
 ―――すると。
 なんと、彼女は、始めの反応と同様に返答はしないではないか。
 蘭は、今まで、肯定には即答する。だが、否定の時は―――。
 思わず、八俣はきつくきつく彼女を抱きしめていた。胸の中で蘭が身悶えるので慌てて少し緩めてやるが、感情が体を突き動かして上手くいかない。
「俺なら、嫌じゃないんだな。抱かれるのは。俺だけは……そうだろ?」
二つの答えから導かれた結論を彼は自信を持って口にすると、腕の中の女性は必死に首を縦に振って肯定している。
 目に見えないで伝わる気持ちもあるが、やはり、想いが形になって伝わるときの喜びは何にも代えがたい。胸の辺りがじんわりと温かくなる。
 競り上がった感情に、その言葉は自然に口をついて出た。

「蘭、愛しているよ」