・・・  七花八裂九死一生を得る  3  ・・・ 


 他人の家でこれだけ傍若無人に振舞う人間は限られている。
 誰もの予想通り、廊下には真っ白な軍服を着た軍人が不機嫌そうな顔をして立っていた。
 近所で手土産を買ってうきうきしながら日明蘭は警視総監の家に殴りこみをかけた。半分は仕事、半分は遊びである。八俣の家に何故かいる嵐が彼女はいたくお気に入りなのだ。
 しかし、呼び鈴を鳴らしたのに珍しく誰も出てこない。休日は嵐殿がいるはずなのに、と思いながら、家政婦には常識人として見られたいという途轍もない野望を抱いている零武隊隊長は仕方なく五分だけは待っていた。
 ―――待っていたが、やはり誰も出てこなかったので、もう一度声をかけて直ぐに勝手に上がったのである。
「なんだよ。
 仕事か?」
首だけを返して睨み付ける。
 無礼にもぶっきらぼうな口調だ。が、乱入者もそんな些細なことを気にするような人間ではない。というよりも、今はもっと他の事が気にかかってそこまでは気が回らない。

 きょとん。

 ―――なんて、可愛らしい効果音が聞こえてくるような緊張感のない表情を蘭は浮かべた。
 二三度、ぱちくりと大きな垂れ眼を瞬かせる。
 ぐりぐりと裾で目を顔を拭き、それからもう一度『ソレ』を見た。
 そんな不思議行動をした後、ふいに、口に手を当てて小刻みに肩を震わせ始めたのである。八俣と嵐とは一瞬見合って、不思議そうに首を傾げた。
 訝しがる男が、一歩踏み出す。
 まさに、その時。
「あっははっははははははははは―――っ!」
 堪えきれず噴出した。
 呆然と立ち尽くす二人の前で、指を刺し、腿を叩きながら声を上げて笑っている。
 彼女がこんなにも清清しく笑えるものかと驚く一方で、こんな場面にそこまで笑わなくてもいいような気がする、と嵐は思った。
「なんだその不気味で悪趣味で野暮で無粋な着物はっ!?
 お前が作ったのかっ? それとも飛天が作ったのかっ?
 いつも、いつも笑えることばかりするなお前たちはっ。
 期待と予想を裏切らんっ!」
部屋を揺るがすようなその大声を聞いたとき、嵐の頭上からすっと疲労感が飛んでいった。
 足もしっかりしている。
 八俣の腕の中から逃げ出して、そっと主の表情を伺った。青筋がうっすら額の横に浮かび、ぴくぴくと小刻みに唇の端が震えている。手の中から家政婦がいなくなったことには注意を払っていない。これ幸いとばかりに嵐は部屋の隅に避難した。
 一通り配色の悪さに文句をいった後、蘭は後ろの亀の文字を見つけた。
「ぎゃははっ。
 間抜けな文字だな。ぴったりだっ。お前の文字だろ。下手だなぁ字。
 ははははは」
瞬間、八俣の一線がぶちっと切れる。
「買ったに決まってんだろっ!?
 正絹の一級品だっ」
「騙されるか。
 そんなもの出しただけで、店の沽券にかかわるわ」
「芸術性のない筋肉達磨が沽券なんて難しい単語使ってんじゃねえよ」
「筋肉達磨はお前の方だろうが。しかも芸術性はおろか色彩感覚までないとみえるっっ!
 正絹なくせに、その衿の馬鹿みたいな色使いは何だ?
 普通もっと抑えた色にしなければ、バランスが悪い上に汚れが目立つ。そんな当たり前のこともできぬ店ならば、沽券も何もないだろうな」
「うっせえなっ。
 その程度同にでもなるだろうがっ」
壮絶な舌戦が繰り広げられていた。幼馴染ではあるが、蘭の歯にものを着せぬ言い様は無礼を通り越して殺意を覚える。この部屋に嵐がいなければ、確実に八俣は銃を引き抜いていただろう。
 嵐は出るに出られず、部屋の隅で静かにその様子を眺めていた。
 横紙破りな人間は一人いると困るが、二人いるとそれなりに楽しいかもしれない、と暢気にも新しい発見を考える。
 彼女の眼にも、主の分が悪さはありありとわかった。口喧嘩は内容の正当性云々よりも、熱くなったほうが負けなのだ。蘭は心から嬉しそうに、音吐朗々と着物の細部から全体に向けて文句をつけた上に、小さな傷を針小棒大に騒ぎた立てた。八俣の嫌味は効いていないどころか、彼女に余計な反論の手口を与えるに過ぎない。曇りのない、晴天のような笑顔で痛罵し続ける。
 ぎりぎりとかみ締める奥歯がら不快な音がたつ。
 そろそろかな、と嵐は思った。

 だんっ。

 ―――と八俣は、相手の言葉の切れた一瞬を床を踏み鳴らす。冗談ではなく、家そのものが揺れる。がしゃんと家のどこかで物が壊れる音。予想していた嵐はなんともなかったが。
「今から嵐と上野に出掛けるところなんだよ。
 とっとと帰れっ! 用は明日にでも聞いてやる。
 いい加減にしねえと、不法侵入で逮捕するぞっっ!」
人でも丸呑みにしそうな気迫を背負って、そう言い捨てた。