|
||
「じゃあ、帯をお願い」 暢気に聞こえる主の声を聞きながら、嵐は背に回り、まずは新しい晴れ着を脱がせる。見た目よりもずっと軽いそれを内掛けにかけて、代わりに掛かっていた腰紐をとった。襦袢はすでに着ていた。嵐の知らない一張羅の襦袢、ということは、きっとそれもあわせて買ったのだろう。 惜しみない着物の賞賛をただの効果音とみなして、理解しないよう精神を殺しながら手際のよく手を動かした。少しでも聞いたら負けだ。脳がそれを意識すれば突っ込まずにはいられないからだ。 『主の趣味に……』と金科玉条をとりだして只管耐える。 普段は気配に敏い男だが、興奮気味でこちらの感情がまわらないのが有難い。陽気な鼻歌が、陰鬱さに負けそうな娘の耳に届いた。 腰紐をしっかり結び、打掛に置いた長物を取って主に手渡す。八俣が手を通す一方で、嵐は一瞬きょろきょろとあたりを見回した後箪笥の方へ歩き始めた。 「帯は鏡にかかっているわよ」 本気ですか。 口に出さなかったのは、奇跡だ。どうしてこんな色のとツッコまずにはいられないような色の帯は見えない訳ではなかったのだが、それを見なかったと決め込んでわざわざ箪笥へ向かったのである。 それは極めて芸術性の高い選択だった。この派手すぎる着物の派手さを生かさず殺さず品ある柄に見えるようには、この眩しい豪華絢爛の帯が必要不可欠なのだ。ただ、芸者ならば見事と評価されるかもしれないその選択だったが、残念ながら彼は警視総監だった。 ……この格好で出歩くのはいいとしても、出たらもう家に帰ってこないで頂ければいいのに。 かなり酷いことを思いながらこっそりため息をついた後で、角帯を手に取り折りながら腹部に回す。シュッ、シュッとキレの良い音が室内に響いた。 「……締めは、このくらいで宜しいでしょうか?」 「ええ」 腕に力を込めながら素早く手を動かす。背中に貝の口が出来上がる。 なかなか良く結べたな、と嵐は額をぬぐいながら思った。 「ふうん。よく結べたわね」 「ありがとうございます」 「折角だから、お昼はどこか行こうかしら。……ううん、上野なんか久々にいいわねぇ。きっとみんな驚くわぁ」 ああそういえば畳のシミにしつこいのがあったからどうしようか……などと嵐は全く別なことを考えながら、踵を返す。見なかったことにしよう、そうしよう、と彼女は自分に言い聞かせた。自分に被害が及ばなければいいのだ。なぜなら、使用人が主の趣味には口をだすべきではないのだから。 八俣は鏡で様々なポーズを取りながら、立ち去る娘に声をかけた。 「はい、じゃあ決まり。今日は仕事全部さぼっちゃっていいわ。 今から外で食べに行きましょう。 さ、出掛ける用意をして頂戴」 ずる。 すばしっこさが取り柄の彼女が、何でもないところで転びかける。 場所が悪ければ転倒していただろうが、丁度壁があった。がん、とかなり勢いよくぶつけて動けなくなる。 一緒に、出かけるんですか私が? この極めて派手で甚だ悪趣味な着物に並ぶと想像しただけで、足が竦む。おこりのように小刻みに震える体。普段そうでなくとも目立つ主である、明日の商店街の話題を掻っ攫うことは間違いない。店主たちのにやけた目つきを考えるだけで血の気が引いていくような気がする。 「どうしたの?」 主は、壁に寄り掛かったままぴくりとも動かない家政婦の異常な行動には気づいたものの、とりたてて疑問には思わない。 嵐は現実逃避したがる理性を必死に活動させた。 なんとか、なんとか言い訳はないだろうか。この問答無用の主が文句なしに納得するような。 「ええと、いきなりなのでちょっと……。仕事が途中ですから。そ、それに、今日は体調があまり優れないので……」 「なんでよぉう。 あたしがイイって言ってんだから、今日の仕事はなしよ。 外で遊べば気も晴れるわ。 そんなつれないこと言わないの。 着物は前買ったのがあるじゃない。ないならばあたしの貸してあ・げ・る。 さ、着替えて着替えて」 ―――無理だ。 瞬時に、嵐は負けを悟って俯く。 今まで、どれだけこの強引なやり口に丸め込まれただろうか。八俣が行くといったら、それは、二十四時間後には明日が訪れるように、絶対の決まりなのだ。いくら少女が口を出しても変更などありえない。 嵐の肩に、男の大きな手が触れた。慌てて首を回すと、そこにはどんな遊女でも一目で落ちると評判の緋い双眸があった。いつのまにか真後ろにいた主は、肩を抱いて、太い腕の中に少女を収めていたのだ。戸惑いの表情を浮かべる娘に、八俣はいつになく真剣な目を向ける。 「大丈夫か? 栄養のつくものを食べろと、いつもあれほど言っているだろうが」 嵐は身を強張らせる。 この口調が出たときは、危険信号だ。 嘘でもつこうものならば彼の逆鱗に触れかねない。 彼は固まっている娘の頭から、彼女によく似合う白い三角巾のはずす。癖の強い髪が現れた。 「……食べてます。大丈夫です」 一拍置いて、彼女も本心から答える。 八俣の眉根に皺が寄った。その返答がいたく気に入らないらしい。目が眇められるのに比例して、娘の心音は少しずつだが確実に早くなる。緊張と恐れ。だが、嵐は目を逸らすことなくまっすぐに見返し続けていた。 場の緊張が否応なしに高まる。 嵐の澄んだ瞳が雄弁に語る。反抗的にも。 男の喉が一往復し、目がにやりと笑った。 八俣が口を開きかける――― ―――瞬間。 「ここに居たかっ」 スパーンと小気味の良い音と共に仁王立ちする人影が現れた。 |
||
|