・・・  七花八裂九死一生を得る  1  ・・・ 


 主の趣味について口を出すのは、使用人がすべきことではない。
 それは最後の一線だ。
 どんなに馴れ馴れしく話しかけられるのが日常となり、同じ席で食事をし、その家に寝泊りするようになったとしても―――現実にそうなっているのだが―――そのことだけは常に嵐は自分に言い聞かせていた。それは自分を諌めるためでもあり、また、想定外の事態が起きても無視できるための言い訳でもあった。つまり、あの主がどんな人外な行動をとっていても放っておけ、という彼女自身を守るための掟でもあるのだ。
 彼女が仕える主は、帝都の治安を一身で守る警視総監である。
 男らしい広い背中と日本人離れした長身、何より目を引くのはその水色の髪だ。深い海の色の中から鈍く光るのは、赤銅色の瞳。その視線に篭絡されればどんな女性でも堕ちると帝都では専らの噂だ。まあ、主が女遊びが派手だろうがなかろうが、そんなことは家政婦の彼女にとってどうでも良い話ではあったが。
 そんな些細なことよりも。
 ―――と、嵐はごくりと生唾を飲んで顔を下ろした。今まで現実逃避のために天井を見上げていたのである。
 目の前にはくだんの主が、鏡に向かって満面の笑みで新しい着物の試し着をしていた。
 数日前の昼、嵐が受け取った箱が、無造作に畳の上に広げられている。有名な呉服屋から大の男が二人係で丁寧に運んできた桐箱だったので、それが新しい着物だということは勿論知っていた。しかし生憎と主は忙しい時期だったため、結局今日になってようやく箱を開けることができたのである。
 だから、呼ばれた時から新しいそれの御披露目であろうことはわかっていた。普段ならばすぐ来ないと何度も喧しく呼ぶのだが、気のよくしている主人なら何も言わないだろうと踏んで掃除道具を片付けてから悠々とやって来た。予想通り一回呼ばれただけですみ、しかも掃除も最後まで終えることができた。
 主は年と身分相応の、否、それ以上の芸術性を備えている。
 その彼が新しく買った着物に、嵐も少なからず興味があった。
「あら、やっと来たの? 小さいからまたどこかに隠れちゃったかと思ったわ。
 お願い、手伝って」
鏡の前でポーズを決めて魅入っていた男は、漸く後ろにいた娘に気がつく。普段背後を取られることはまずないから、よほど浮かれているのだろう。
 上半身だけ返して振り向くと、嵐は敷居の前で立ち止まっている。
 その瞬間見えたものに、ピク、とわずかに娘の表情筋が引きつった。

 凄い……。

 …………その言葉以外、思い浮かばなかった。改めてその現実を直視すると、そのインパクトはかなり大きい。往々にして自分の理解の範囲を超えることをする主だとはわかっているのだが―――だから例の言葉を心の掟にしていたのだが―――今回はそれらも何もかも一足飛びで越えた。
「うっふっふっふ。
 どーお? 新しいの一発で気に入って買っちゃった」
いつまで経っても入ってこない家政婦を、八俣は好意的に解釈した。
 すなわち、この新しい着物に見蕩れているのだと。
「……どうと言われましても」
なんとか出せた声は、自分でも他人の声に聞こえるくらいに枯れている。
 生唾を飲みながら、視線を上下に動かす。
 奥の鏡の前にすっくと立つ男の横姿。
 逞しい骨格に目を引く水色の髪。妖しい光を湛える宝石のような瞳―――は、いい。見慣れたものだ。
 問題はその下。

 彼が自慢する、着物。

 子供の落書きのような兎の顔と小さな手がセットになって袂と裾に転々と描かれている。正直、この絵を描くために布を織ったとしたら、その時間がまるまる人生とって無駄だといっても差支えがないように嵐は思った。というか、森羅万象のこの世そのものにとっても無駄だ。金糸銀糸で彩られた豪華絢爛過ぎる衿は、ウサギとは色があっていたが着物全体の調和を完全に破壊する。そして背中には、下手とも上手ともわからないような文字で『亀』と書かれていた。あまりに無茶苦茶な着物を作った腹いせに思わず書きました、と言われるとひどく納得のいくような力強い文字だ。
 悪趣味、という一言に尽きる。
 ここまで極めれば逆に風流的になるのかもしれないが、娘にはその寛容性はなかった。悪趣味は悪趣味に過ぎないのだ。
「…………………こんな着物を売るなんて、勇気ある店ですね」
そこまで理解したときに、知らずうちに、嵐の地声が漏れる。本心の十分の一くらいを口にしただけなのだが、言った後で途方もない疲労感を覚えるのはなぜだろうか。
「そーでしょー。
 こんな素敵な着物を作ったら売れすぎて困っちゃうじゃない。
 しかもすごく安いのよ。
 ホント、細工にも手抜かりないしいい出来。赤字覚悟に決まってるわ」
家政婦との受け答えが微妙にずれていることには気づかず、八俣は声を弾ませて返答する。余程その新しい着物を気に入っているらしい。
 しかし、どこをどのように見れば良い評価を見つけることができるのか、彼女にはさっぱり理解できなかった。
 ……細工、いいんですか。へえ。いい細工なんですかソレ。
 とうっかり口を滑らさないように努力した。