・・・  試合に勝って勝負に大負け。 4  ・・・ 


 一時間経過する前に、九割方の人数が脱落していた。
 勝負にするために、わざと湯の温度を上げた。丸木戸特製の温度計は、四十一度と二度の間を行ったり来たり往復している。
 高温の湯に、しかも仕事後の疲れがある。通常に考えれば三十分入れただけでも賞賛と拍手に値するだろう。だが、その程度の実力では零武隊内部で勝利するには足りないのだ。
「……うっ」
と、軽く悲鳴を上げながらまた一人が気を失った。蘭は湯から体を出さないよう気をつけて、その男の腰を掴んで外に放り出す。重力に身を任せて弧を描く男の体を、洗い場で待機していた鉄男が上手く受け取る。脱衣所ではリタイア後動けなくなった脱水症状のひどい患者たちを、丸木戸が面倒をみていた。眼鏡の男は時折やって来て馬鹿な勝負は止めろと文句をいうが、隊員たちのブーイングにあってすごすご出て行くのを繰り返していた。
 立ち込める湯気の中、大佐と真、現朗と他数人の部下は顔色ひとつ変わっていない。
「ど、どこまで……あん、たら、人間、じゃないん、だよ…………」
悔しそうに毒丸が呟いた。顔色は悪く、目は空ろ。後五分も無理だろうな、と真は思う。炎も先ほどから口数が少ないし、激はへろへろして現朗に出てけといわれている。
「もう諦めてもいいだろが。
 お前らとて、私に勝てるとでも思っていないだろ」
蘭が心底面白くなさそうに宣った。
 その途端、好戦的な隊員たちは最後の気力を振り絞って顔を上げて睨み付ける。負けたくない、絶対この相手だけには負けたくない。どうして負けたくないのか当初の動機は殆ど忘れていたが、ここまできた以上一度くらい大佐に勝ちたいという気持ちが勝っていた。
 余力のある現朗が、口を開く。
「……勝負は勝負ですよ?」
蘭がむっと口を尖らせた。
「上官に対して風呂を譲ってやるという優しさはないのか? 一時間も入ったんだからもう十分満足しただろうがっ」
「それおっしゃるならば、大佐こそ部下にお風呂を開放してあげるという寛容なお心はないのですか?」
ちっ、と小さな舌打ちが、湯気に消されずに彼の耳まで聞こえる。
「あるか」
現朗はあえて普段絶対見せない爽快で底抜けた―――不気味といえばそうだろう―――笑顔を載せて、物柔らかに丁寧な口調で即答した。
「そうですか。では当然ながら、こちらもそのような感情は持ち合わせておりませんね」
見え透いたその挑発に乗るつもりはないが、腹にもやもやとした蟠りが感情を不快に刺激して、蘭は腰を移動させ深く浸かり直す。なんて酷い奴等なのだろう、とお前だけには言われたくないということを思い浮かべながら心中毒づいていた。
 口の前からぶくぶくと泡をだしながら、周囲の隊員の様子を伺う。毒丸と激はもう終わりだ、五分も持つまい。いや、本当はもう無理な状態なのだ。炎は努力しているようだが、あと十分で失神すると思う。
 問題は真と現朗、そして他数人の隊員。
 蘭と同じく、風呂では逆上せないという人間外の人間。湯舟の中を寝所にすることが出来る人種だ。こんな勝負など、飽きたりしない限りずっと続けられるだろう。
「ちぇ」
そうと知っていたら、勝負などしかけなかった。一旦プライドを刺激した以上、この男たちに飽きが来ることはまずない。
 意地が悪い、と思う。
 彼らは、もう温泉なんて興味はないだろう。たんに勝負に勝ちたいというだけだ。だったら譲ってくれてもいい、と蘭は自分が勝負を仕掛けたのを棚に上げて思った。
 あと何時間入っていれば勝てるのだろう……。長く入っていたほうが勝ちなんて、単純なルールにしなければ良かった。殴って蹴っての乱闘とかにすれば直ぐに温泉独り占めができたのに…………
 ―――待てよ。
 と、勝負の内容を思い直しているうちに、ふと思いついた。
 湯の中で、にんまりと、口元を引き攣らせる。そうだ。そうなのだ。ルールはあまりに単純なのだ。不正を取り締まるということすら書いていない。
「……大佐? どうかなさいましたか?」
静かになった上官を不審に思った三白眼が、不思議そうな顔をむける。その問いには答えず、壊れないぎりぎりの力加減をセーブして湯船の底板を蹴った。湯から肩を出さないように、真っ直ぐ激のほうへ向かう。風呂全体に湯がうねり、毒丸がむげっと悲鳴をあげた。
 現朗はまさかこちらに来るとは思っていなくて、動けなかった。その隙に横でぐったりしている激の腰を掴んで、蘭は人質つれて湯舟の端まで逃げる。
 金髪は恋人の後を慌てて追おうとするが、湯から出ないようにして動くには大佐のように軽快には移動できない。
 端までたどり着くと、くるりと蘭は振り返った。
 その満面の笑みを見るだけで、殺意が沸いてくる。
「動くなっ!
 激の命、惜しくないはずないだろう?」
死んだ顔をした部下の顔を引き寄せて、自分の顔を近づける。接吻でもしそうな至近距離で激の顔を見ると、こいつよくここまで生きていたなと本気で褒めたくなるくらい真っ赤になっている。
 蘭はそのまま首だけを動かして横を向き、挑発的に現朗たちを見つめた。ぺちぺちと半死半生の青年の頬を叩くと、残っている部下たちが思いっきり顔を顰めているのが見える。
 今、彼女は圧倒的に有利だった。
 激を自分が本気であることを示すために使っても、人質候補にはまだ炎という男が残っているのだ。
 現朗はきまづい表情で真の方を見た。炎だけならば、真と現朗が協力すれば守ることができるだろう。激を見捨てさえすれば。
 だが、真はぎろりと一瞥しただけで、何も答えなかった。
「…………わかりました。
 炎、明日早いからもう出るぞ。勝負は負けでよい」
温泉の熱で髪と同じくらい顔を真っ赤にしている男の背を叩いて、言い聞かせる。
「お……れは、まだ……行ける……ぞ。俺……が、一番……だ」
なけなしの理性で答えているが、焦点は完全に真の頭の上あたりで結ばれている。彼の誇りともいえるふさふさした蟹型の眉毛が、ぴくぴくと死ぬ直前の魚のように間断的に動いていた。
「お前以外の隊員は全て退場した。零武隊で一番なのはお前だ。
 だから、十分だろう?」
「……一番………なんだ…な………」
真は他の隊員たちに目配せをして出るよう促す。仕方がないな、と肩を竦めて残っていた数人は立ち上がった。正直これ以上風呂に入っているのは苦痛以外の何者でもない。それが見えなくなって、真は蘭に目配せをする。蘭はぽいっと激を湯舟から捨て、それを鉄男がキャッチした。
 そこまで確認してから、真は自分が出てから炎を持ち上げる。
 その頃には、炎は重度の脱水症状のため完全に失神していたのである。


 温泉は、非常に良く効く、素晴らしい湯だった。
 零武隊隊長の思考すら曖昧にさせるほどに。
 蘭は失念していた。
 何故、自分がわざわざ勝負という回りくどい手段をとったのか。暴力的方向にいかなったのか。隊員たちを納得させるような方法を選んだのか。
 ……家には夫が待っているのだ。

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 その後遠征からそのままプチ家出に切り替えた蘭は、逃亡先の廃屋で夫に捕獲されて家へ強制連行された。
 四日間零武隊隊長は『湯あたり』のために欠席し(欠席した割には、自宅から今回の事件の報告書その他が送られてきて、普段よりも仕事が進んだ)、次に仕事場へ戻ってきたときには膨れ面のまま一言も部下と口をきかなかったのである。