|
||
事件は信州の一角で起きた。 といっても、蓋を開けてみれば大きな事件ではなかった。 だが、大きな事件はこの問題が片付いた後に発生したのである。 信州から帝都へ戻る場合、貨物列車に隊員を詰め込んで一晩かけて移動するのが常である。しかし零武隊の帰還予定日が生憎と帝の行幸と重なってしまい、どうしても草津駅で泊まらなければならなくなってしまったのだ。 仕方なく日明大佐は草津を統治する地元の軍に連絡したところ、軍隊一小隊分の宿泊場所の確保を……と言ったららわざわざ宿一つを貸しきってくれた。 ―――つまり。 仕事帰りに温泉宿一泊という素敵なご褒美がついてしまったのだ。 ***** 立ち込める湯気が幻想的な世界を作り出す。天井は高く暗く、壁に取り付けられた蝋燭の光が淡く空間照らしていた。檜作りの大風呂からはひっきりなしににごり湯が溢れて、水音が途切れることは無い。 そんなこれ以上ないくらいに素敵な状況で、日明蘭はこれ以上ないくらいに困惑していた。 「うわぁぁぁぁぁ。 広いなー。広いなーっ。なーなーなー」 もわわんと毒丸の少し甲高い声が反響する。 「毒丸。まずは体を洗え」 今にも入ろうとした青年の腰を後ろから捕まえて洗い場へ引き摺り戻した。 「激。石鹸を貸してくれないか、忘れてきてしまったらしい」 「またか? ……ほい。でもお前、金髪で髪弱いんだから俺みたいなのが使っているのよりも、もっと良いやつじゃなきゃ駄目なんじゃないの」 「………………お前のがイイ」 煙幕の向こうから反響して聞こえる声は、非常に聞き覚えがある。 問題なのは、その声は『遠くから』聞こえるというよりは、『同じ室内の遠くから』聞こえるということだ。 その宿は温泉を売り物にしていた。 妖を片付け、あらたな封印を施したのが五時。宿に到着したのが十時半。食事は到着前に済ましていたので、全体報告が終わるとすぐに夢の温泉タイムが待っていた。隊長たる蘭ですら報告書作成などを全て放棄して、早速風呂場へ向かった。 男湯と女湯は入り口が違う。 だから、そんなことはあるまいと安心していたのだが。 「……よもや中が同じ空間とはな。 そうか、男湯と女湯を区切る敷居をわざわざ取り外したのか。男湯だけならそれの方が広いしな」 ぼそぼそと蘭は小声で自分自身に呟く。 そういえば宿の女将たちは蘭が女性であることには気づいてなかった雰囲気だ。そもそも女軍人が存在するなど、考えもしないだろう。 しかし、とにかく、本当にまずい。 昔はよく同僚たちと風呂に入ろうとしたが(元帥に止められた)、今は夫がいる。シャツだけで出歩いたことですら咎めるのに、裸体を見られたとばれたらどんなお仕置きが待っているかしれたものではない。 謝って許してくれないよなぁ。怒るよなきっと…… 今、ここからそっと出て行けば問題はない。 誰にも見られずここから立去れば良いのだ。 ―――そうすれば良いと理解しているのに、体が動かなかった。 蘭も蘭で密かに、豪華で広大な温泉にのんびり浸かることを楽しみにしていた。こんな素晴らしい機会をむざむざと捨てたくはなくて、なんとかならいだろうかと必死に悪知恵を働かせる。どうにか穏便に部下どもをこの風呂場から追い出す方法はないだろうか。 彼女が湯舟に浸かりながら悶々と考えている頃、ようやく、男湯の入り口から来た者達も湯船へ移動を始めた。 「……あっちに人がいるけど、誰だろ?」 毒丸は風呂に入って初めて、激の他に客がいることに気がついた。湯気で視界は悪いが、気配である程度は読める。ずいぶんと奥の方に一人いる。確か激と自分が一番に脱衣所に到着したと思っていたのに、と首をかしげた。 「さあ。俺が一番だと思ったのによー。体洗わないで入ったんだろどうせ。 ずりぃや」 言いながら、激は不満そうに口を尖らせる。 「いい年なんだからそんな一番風呂に拘るのやめなよー」 「三歳のころから拘っているからいいんだよっ!」 嫌な三歳児だなーと毒丸は思いながら、持ってきた黄色のアヒルをひょいひょい沈めたり出したりしている。それを見た激が横からそのアヒルを奪うと、毒丸がいきなり襲い掛かってきた。湯舟の中でじゃれあう二人に、後から入ってきた現朗は冷たい目で睨みをきかせる。決して風呂場で泳ぐなときつく言っておいたのだが、その言いつけをもはや忘れかけているようだ。 忘れたら殴ってでも躾けねば。 現朗はそう心に誓って、拳に息を吹きかけた。 激と毒丸は、普段とは違う髪形をしていた。 長髪が湯舟に浮かんでいて鬱陶しいという意見が出て、長髪隊員全員に入浴中は髪をまとめるよう紳士協定が結ばれたのである。髪の量の多い激は現朗に結ってもらい、二つのお団子姿がちょこんと乗っている。毒丸は鉄男にしてもらった結果お下げを垂らしていた。 後から入ってきた炎は真に結ってもらっているが、真の無駄な凝り性が発揮されて、二人ともいまだに湯舟の縁に座って髪と格闘している。その間に爆が入ってきた。よぉ、と激は毒丸に水をかけるのをやめて声をかけてきた。 「こーんな面白い広い風呂なのに、なんで仏頂面なんだよ。笑えっての」 「そうだ笑え! 食らえ、アヒル爆弾」 「あ。俺のアヒルだ激ちゃんの馬鹿ぁっ!」 ぴょーんと湯の中から飛び出たアヒルを、ぺしっと爆は容赦なく振り払う。 「……風呂などどこでも同じだ。わざわざ玩具まで持ってきて遊ぶなんぞ、子供みたいで馬鹿らしい」 アヒルに対する暴挙は許せても、その一言は、流石に毒丸は見逃せない。 「たまに濃硫酸の仕掛けがあって煙で人が死に掛けるような風呂と、この豪勢な檜風呂のどこが同じだっつーの。 つっても、折角の温泉なのにさー、女風呂が近ければ覗きとか出来んのにつまんねーな」 『殺されるぞ』 「敵襲ごっことか言い張れば大丈夫でしょ。大佐なら」 爆と激は顔をつき合わせて、それはそうかもなと首をかしげる。 現朗は、そう言い訳したとしても結局は『敵なら容赦なく攻撃しても倫理的に構わんだろう?』とか言って殺害するのだから何も大丈夫ではないだろうな、と思ったがそれを三人に言ってやる気はない。 ようやく、炎と真が入ってきた。 炎は普段の髪型と同じだったが、針のようにとがった髪の先ひとつひとつにリボンがつけられている。二人は三人組の傍で腰を下ろした。どうだ見ろといわんばかりの誇らしげな炎の表情に、つられて激は笑ってしまう。 「可愛いじゃねえか。真はまた、よくやるなー」 「俺の美しさを最大限に引き出すにはこの程度では足りぬがまあよくやったと褒めてやってもよい」 「……お前の髪、バランスが悪いのはなんとかならんのか。左を二房ほど切ればよくなると思うのだが、どうだろうか? 帝都に戻ったら是非切ろう」 ちょきちょきと右手でジェスチャーをする。 真の本気の言葉に、高慢を絵に書いた男の顔が強張る。 炎はさり気なく爆の方へ近寄って、後ろの真から離れた。同じ無口で無表情の三白眼なのに、何故こちらはこんなに可愛いのか。永遠の謎だ。 「……え、ええとだな。 そうだ。爆、お前の分も持ってきたぞ」 「ん? 俺は長髪組に入っていないはずだが」 「そういうな。鉄男からわざわざレースのりぼんを買って来てもらったんだ。 お前ならば、似合いそうだろう?」 ほれ、と濁った湯の中から赤い大きなリボンが現れる。太さは十センチ程で、細やかなレース付だ。いったいどこの世界で生産されるのかわからないが、鉄男はそういう乙女的な物を入手する伝はそこいらのブローカーのレベルを軽く凌駕している。 爆がどう反応すべきが戸惑った、その一瞬で、炎は青年の後ろを取った。 気づいたときには、完全に後背を取られ髪を撫でられている。 白服の中でも、爆は飛びぬけて若い。将来楽しみな人材ではあるが、今のところ他の四人におちょくられっ放しなのだ。 「貴様、何をっ!?」 「さ。動くなよ、すぐに終わるからな」 炎の両腕は迷いなく動き、青年の頭の上に大きな赤いリボンを作り上げる。 飾り立てられたケーキの箱のような状態に、爆は不快とばかりに頬を膨らませたが、簡単に背後を取られたという後ろめたさがあって動けない。 「ほら。完成だ」 「おーや。案外似合ってんじゃねえか」 けっけっけ、と激が揶揄すると、直ぐに牙を剥く。 「き、き、貴様に言われる筋合いはないぞっ! お前なんか、似合ってないお団子頭じゃないかっ」 「うっせーなっ。こうでもしないと髪落ちて鬱陶しいんだよっ! つーか俺は可愛さ狙ってるわけじゃないからいいのっ」 「…………似合ってないだと? 可愛くないだと俺がやったヘアーセットが?」 湯の温度が、一方向を中心に確実に下がった。まずい、と二人が首を回すと、そこには案の定例の人物が俯いてる。僅かに体が震えているのが、水面の波紋でわかる。 激は爆を目で非難するが、爆も激を非難する。 「文句があるなら言ってみろぉぉぉ―――っ!」 ざぱぁぁぁぁんっ。 水しぶきがあがり、二人の頭は水中にあった。頭上から信じられない力がかかって、湯船の底に強制的に顔を押し付けられたのだ。 もがけどももがけども浮き上がらない。あの細腕にこんな力が籠められているなんて絶対物理的に不可能だと思うが、そういう批判を考えているうちにも酸素はどんどん失われていく。 「現朗の機嫌を損ねたらさっさと謝ればいいのに。あの二人は不幸体質だと思わないかい?」 「それを認めると、お前や大佐も同列だと思うが?」 炎と真は下らないかけあいをしていて、助けるつもりは微塵もない。こちらに被害が来なければいいのだ。 「……儂は、熊みたいで可愛いと思うのだが」 ぼそりと、大男が呟いた。ぴくんと金髪の形のよい耳が反応する。さっと手をどけると同時に、窒息寸前の二人が浮かび上がってぜぇはぁぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返す。 「可愛いと思うか?」 拗ねたような口調で、現朗は部下を上目遣いに見ながら尋ねる。鉄男は躊躇いなく首を縦に振った。 ―――その時。 二人は覚えた、共通の違和感を。それは経験から裏打ちされた予感。 この手の反応をすれば、必ず邪魔が入るはずなのに…… 『毒丸!?』 青年の不在に気づいたそのとき。 どがぁぁっっ! 湯舟の奥から殺戮が起きたようなそんな不気味な音が響いてきた。 |
||
|