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蘭は縁側に出ると、足音を極力立てないようにして駆け出した。中の二人が折角よい雰囲気になっているのだから、邪魔にならないように気配を鎮めて退散する。これ以上ここに留まるのは無粋というものだ。 愚息が菊理にいつまで経っても手を出さないのに困っていたが、今回はある意味良い切欠になったかもしれない。菊理には時間がない。ならば接吻の一つや二つ、躊躇するべきではない。 ―――親のすることか、と思うと笑い出しそうになる。 廊下をつっきて、縁側に沿って左に曲がる。そこから庭に降り立って、まっすぐ走った。母屋からは隠れた位置にあるあばら小屋。その影に、何かが蠢く。 あそこか、と狙いを定めて走ると、それに追いつくのは容易だった。 「……日明大佐やないか。 どないしはった? 体そのままっちゅうことは、姫さんとまだ喧嘩中かいな」 小屋の裏には、箒を持った泣き黒子の少年が居た。 「ふん」 今まで掃除していたといわんばかりの光景だが、蘭は一笑に伏す。 つかつかと少年のほうへ歩き出す。 まずい、と瑠璃男は判断したが遅い。 男は彼の目の前まで来て、いきなり手を伸ばした。手は勢いよく少年の横に置かれる。薄い壁が壊れないぎりぎりの力を使った。小屋と男の体にはさまれて、瑠璃男は殆ど身動きがとれない。 「お前がそんなことを訊く必要があるか?」 ぎらつく瞳で、いとも簡単に少年の体を篭絡した。 彼が縁側で覗いていたことを蘭は知っていた。部屋に出るまでは、どうせ帝月に命令されたのだろうと考えていた。好奇心一つで動く少年でないことは良く知っている。 ―――だが。 彼が逃げ出したときから、その仮定は間違っているものだとわかった。 もし主人に命令されたならば逃げ出す必要はない。覗き見していたことが知られてもかまわないのだから。 逃げ出すというのは、後ろめたい時か、その行為が知られてはならない時にする行動だ。気配の探索能力に長けている蘭を誤魔化せるとは思っていないから、後者はありえない。 つまり、瑠璃男は後ろめたいと認識していた。 ―――ならば、彼は自分の意思で事の顛末を見ていたことになる。 「瑠璃男」 「なっ……なんやっ!」 「悪いな。 少しお前の唇を借りるぞ」 男は少年が動けないよう反対の手を後頭部に回してぐわしっと掴むと、そのまま唇を重ねた。 一分後、確かに体が戻ったのを確認して顔を離す。 瑠璃男は強烈な力で締め付けられて、首をわずかに動かすこともできなかった。きつく閉じられた目から、涙のようなものが見える。手が離れたと知ると力の限り体を後ろに引いたが、そのせいでしこたま壁に身を打ち付ける。 「っぷはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーっ。 な、何するんやっ!?」 「呪いを解いた」 「馬鹿にすんなぁっ!」 「……馬鹿にはしてない。感謝するぞ、瑠璃男。 姫とは天馬の手前できなくて困っていたのだから」 瑠璃男は、自分の意思で見ていた。 好奇心で動く少年ではない。なぜなら、彼は相当病んだ精神をしており、彼の行動原理には帝月が無くてはならないのだ。 それでも、彼は見ていた。 蘭が戻るかどうか、心配だったから。 「お前が私に好意的な感情を抱いているとは知らなかった」 指摘されて、さっと朱に染まる。怒って否定するかとは思っていたが、予想外にも、少年は静かなものだった。 ……そなん、当たり前やないか。 ぼそぼそと、漏れる言葉。 「で、でも、さっきは、菊理姫やないと戻らんとかいうから……」 菊理と天馬しか愛してないのかと思った。 ―――裏切られたような痛みが、胸を走った。それを思い出して、瑠璃男は心臓の辺りを握り締める。 やっぱりそうだ。否、当然そうだ。そうあるべきだ。何を今更驚く? 日明大佐が関心あるのは実の息子とその嫁だけだ。何を期待していた? 面白くて笑いそうになる。 愛されてないのが、当然やないか。 と、無数の言葉で自分の痛みを誤魔化すために、最も心を傷つけて最も強い痛みを覚えた。 「それを言ったのは帝月だ。 近頃、お前らは反抗期だから、それもそうかと思ってな。 ……もし、戻らなかったら困るんだよ。 たかだか反抗期なんて数年なくせにな、一旦『こういうこと』が目に見えるような形となってしまうと、覚えておくと忘れないんだ。面倒なことに。 菊理と天馬なら安全圏だから選んだ。あいつらは子供だ」 風呂に一緒に入らんと言い出したのは、お前だぞ。十歳のくせに、ませたことを言うのには驚いた。 と、蘭はぶちぶちと言葉をつなげる。ちらりと視線をあげてみるが、今にも泣き出しそうな暗雲を背負ったまま、泣き黒子の少年は立ち竦んでいる。瑠璃男を安心させるためだったがあまり効果はないようだ。その頭を昔のようにゆっくり撫でてやるが、少年の顔は晴れない。 ―――そんな顔をするな。 と、言いたい言葉を飲み込む。瑠璃男にも帝月にも、天馬にも菊理にも特別扱いした覚えはない。四人とも大事な、愛しい自分の子供だ。 「だいたい、お前も考えてみろ」 少しだけ、瑠璃男の首が持ち上がる。寂しそうな表情をなんとか隠そうと頑張っている。 「あの場で、帝月とお前に命令できるか。 十にもなって友人どもの前で母親に接吻されても文句言わないのは、天馬ぐらいなものだ。お前は嫌がるだろうし、帝月も怒り狂うのが目に見ている。 気を使ってやったんだぞ」 「別に……」 気を遣わなくても、ええ。 唐突に。 蘭は瑠璃男を両腕で抱きしめた。考えもしなかった動きに、少年はばたつく。誰も見てないとわかっていても、他人の体温をこんな形で感じるのは恥ずかしくてしょうがない。 「や、やめんかっ。恥かしいっ。離さんかいっ! 子供扱いすなぁっ」 言われると、あっさり手を離す。 「……恥ずかしいだろ。一般的に。 だが、あのお子様はそれが恥かしくないようでな。 何故かわかるか?」 たははは、と瑠璃男はいつもの笑みが戻っていた。 「天馬はオカマッポで慣れてるからなー」 蘭は心から安堵する。瑠璃男は非常に強いが、精神的な面では脆すぎる。自分の真実を友人にいえないのは、彼の弱さだ。天馬を信じられない弱さ。それを自覚するまでに、もう少し強くなってもらわなければならない。 だから、今は、自分に軽口を叩くくらいが丁度良い。 「……お前には子守ばかり頼んですまんな。 さて。 体が戻ったから仕事に戻るかな」 「サボるなよ〜」 「煩い」 ******* 蘭は近円寺に挨拶せずに出て行き、路上で見つけた馬車にすぐに話をつけてそのまま警視庁へ向かわせた。 その頃には冷や汗が噴出し、一歩歩くことですらかなりやばかったのだが、堪えに堪えて警視総監に目通りする。彼女の状況を一目で見抜いた八俣は部下を呼びつけて担架を用意させた。一見大事過ぎるようだったが、当然の処置だった。蘭は担架が来ると同時に喀血し、警視庁の絨毯を赤く染めた。 八俣は緊急手術に送りだし、その後、零武隊に任務が入ったことを理由に天馬を数日近円寺邸に預けるようという手紙を、零武隊には日明大佐が呪を解くために京都へ出張したとの手紙を代筆した。手術が終わった後の彼女は、筆を持つことすらままならない程だったのである。あの状態で瑠璃男を追えたのは奇跡といって差支えない。おかげで入院が三日延びたくらいだ。 「天馬ちゃんには内緒にしてあげるから、代わりに温泉旅行ね☆」 蘭は睨み付けたまま答えない。病室には二人きりだった。 怪我人は身を起こすことが出来ず、八俣は持ってきた食事の盆をベットの上に置く。びくっと、痛そうに跳ねる。 「あっら。ごめんなさーい☆ 温泉旅行、わかったわね?」 謝っているくせに、盆をどかそうとはしない。嫌がらせだ。 「………………勝手にしろ」 八俣を彼女が頼った理由は、天馬だった。 零武隊の隊員に、天馬がまた人を傷つけたことを知られるのは拙い。 それは的確な判断だろう。あと十数年すれば、零武隊の隊長は天馬に受け継がれる。だがこの少年は、一度、致命的な失態を犯している。その記憶を零にすることは不可能にせよ、あえて堀起こさせることはしないほうがいい。 彼女の打算的な思考はすべて手にとるようにわかったが、それでも八俣は少しだけ喜びを感じていた。頼ってくれた、という一点に。 「そんなに怒るなよ。さ、口を開けろ」 寝台の横の椅子に座り、盆を膝に戻す。匙で温くなった重湯を掬った。 「わざわざ警視総監殿自らが運んでくれた飯を、その御手で一口ずつ食べさせられるのか。素晴らしい待遇だな。警察はよほど暇とみえる」 「ああ、特別だぜ」 屈辱的とばかりに、蘭が唇の端を噛み締める。このように軽口をたたくことはできても、断ったり反抗することは絶対に許されない。 少しばかりの時間が経過して、おずおずと小さな口が開かれた。 「素直でいいことだ」 と、言ってやると、憤死しそうなほど顔を赤くして射殺さんばかりの視線を送られる。 蘭は炯炯と目を光らせながら思っていた。 絶対この借りは返してやる。覚えてろ、と。 それにしても――― 菊理が絡むとどうやら息子は精神的な箍がはずれてしまうらしい。自分でなければ大事になっていただろう。 北の妖よりも、自分の息子がかなりの化物に育っていることを思い知り、こんな馬鹿げた事態は絶対に引き起こさせんと怪我人は心に誓ったのである。 |
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