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好意的に解釈すれば、天馬は慰めてくれたのだ。だが実の息子に性別を完全否定されて喜べるほど蘭も精神的に出来ているわけではない。 と、いうよりも、実の息子だから辛い。 他人に言われればそんなに気にしなかったし、慰めてくれていると評価できただろう。胸に消えない蟠りを抱えたまま、完全に失神してしまった愚息の額に置かれた手ぬぐいを替えてやる。家の一部が崩壊したとかで近円寺に文句を言われたのを黙殺し、仕方なく息子の手当てをしてもらった。蘭は放っておけと言ったが、カミヨミの婚約者ともなれば近円寺家の使用人たちはそういうわけにもいかない。そして手当てをされたならば、蘭も息子についていないわけにはいかない。 それに。 菊理に会うには、ここで待っているのが一番手っ取り早い。あの少女ならば天馬が目を覚ます前にここに来ると半ば確信していた。 「……失礼します」 ほらな。 遠慮がちに、障子の反対側から声がする。 庭に面した一室。障子を閉じているくらいの薄闇が良いだろと閉じていた。障子に映る影は、菊理のものに間違いない。 「どうぞ」 男が言うと同時に、顔を蒼褪めさせた少女がおずおずと入ってきた。蘭の顔を見ないようにして天馬に近寄る。 「菊理姫。実は頼みごとがある」 「…………零武隊のお仕事ですの? 日明大佐」 先ほどはあまりに突発的な事態で―――自室に戻ってみれば婚約者と見ず知らずの男が接吻していたのだから、これ以上ないくらい予想外だ―――わからなかったが、今は、その男の正体が婚約者の親だとわかった。 菊理はちらりと男を見た。 細い顎に肉がつき、体は脂肪の丸みが失せて、少し痩せた筋肉質な体。動くにはちょうど良い体型で、今にも躍動しそうな雰囲気を秘めている。 普段の蘭は女性にしては少しばかりごつい。体が男性に変化しその違和感が消えると、美丈夫と呼ぶに相応しい。 とても。 ―――とても、かっこいい。 少女は、婚約者に口付けしている瞬間を思い出した。 天馬は自分よりもこの男に惹かれてしまうかもしれない。心の中にもやもやしたものが生まれて、蘭の顔をまともに見れない。 「違う。個人的なものだ。 ―――先ほどはすまぬことをした」 ぷいっと、菊理は男の反対側を向いた。 不快感を露にする。 「知りませんわ」 彼は少女がこちらを見ていないのを奇貨にして、素早く、だが、とても静かに、少女の直ぐ横までにじり寄る。真横にいるのに、菊理は少しも気づいていない。 「お前に心配をかけた」 可愛い耳に、そっと囁いた。 予想外に近くに居たのに驚いて、菊理は小さく声をあげて振り返る。 あまりに近くに秀麗な顔があって、とくんと心臓が鳴る。 「許しませんっ」 気持ちの半分以上は許してしまっているのだが、こんなにも簡単に許してしまうのは悔しくて、敢てごねる。 悲しげに眉を顰めながら、少女に覆いかぶさるように顔を近づけた。 「……許してくれ」 そんな目で迫られては、突き放すことも、逃げ出すことも出来ない。 菊理は上半身だけゆっくりと男から離れる。男は誘われるままに少女を追い求める。結局は、ぺたりと横たわる少女の上に覆いかぶさるような体勢で、二人は向き合っていた。 膨れた、真っ赤な頬。 「どうせ呪が早く解きたいからでしょう。 どなたか他の方をお探し下さいませ」 意地悪なことを言うな。 笑い出したいのを堪えて、優しげに微笑んだ。 左腕に全体重をかけて、右手で菊理の髪をすく。 「呪のことはどうでもいい。 だが、お前に嫌われていては―――」 言いながら、ゆっくり顔を近づける。菊理の唇に、自分の唇を重ねるために。 呪の解き方は、勿論菊理は知っている。 彼女は顔を動かそうとはしなかった。 ―――が。 どげしっ。 横から強烈な体当たりを食らって男は少女の上から吹飛ばされた。流石にこれには天下のカミヨミも驚いた。 「大佐っ!?」 げほげほと苦しそうに咳き込む母親を、天馬は燃えるような目をして見下ろす。 正気に戻って横を見れば、菊理に男が言い寄っている。それが母親が変わった姿とはいえ、嬉しいものではない。しかも、それはとても美しい男なのだ。自分よりも遥かに。 そして、接吻をしようとし始めた。 菊理は『彼』を完全に受け入れていた。 自分もしたことはないのに。 嫉妬と怒りに身を任せれば、大の男に体当たりをしていたのである。 「……菊理の唇を、そう易々と他の男に渡すことは出来ませんっ」 滅多にない婚約者の積極的な台詞に菊理の胸が躍る。 それは美青年の相貌をみたときよりも、何倍も激しく。 咳がようやく収まり、蘭は息子を睨み上げる。鬼でも射殺さんばかりの視線だが、それと同じくらいの眼力で天馬も睨み返してきた。怯みもしなかった。 「母親の呪が解かれるのが、そこまで嫌かっ。天馬」 確かに、そうなのだ。 菊理が唇が奪われるのは嫌だが、よく考えてみればそれは呪を解くための手段。仕方がないことなのだ。そのことを理解しても、天馬は足が固まって菊理の前から動けない。 嫌だ。 ―――嫌なのだ。 息子の葛藤を読み取って、彼の表情はますます尖っていく。 ならば、実力行使しか方法がない。呪を解くためには。 一触即発。 これ以上なく場の緊張が高まった。 ―――蘭が、盛大な溜息をつくまでは。 「…………お前の目の前でしたのは私も思慮が浅かった。 それと。 姫にいつもそのくらい言ってやれ」 闘気を一瞬で霧散させて、やれやれといった表情で髪を掻き上げている。 姫、と言われて天馬は振り返った。 菊理は真っ赤に頬を染めながら俯いてしまっている。両手で顔を隠しているが、それは嬉しさからの仕草だとわからない少年ではない。 「菊理姫。迷惑をかけてすまなかった」 言うだけ言うと、蘭は颯爽と立ち上がり部屋を出てく。 二人きりきなってから、天馬は跪いて、婚約者の顔を伺った。顔を近づけると、少女の髪から芳しい香りがする。 菊理、と天馬は低い声で言った。 両手をはずし、おずおずと少年の顔をみつめる。自分が真っ赤だという自覚はあったが、天馬も真っ赤だと知ると急に嬉しくなった。 「……菊理。本当に、すまない。先ほども……呪を解くためとはいえ嫌な思いを君にさせてしまった。 ええと、それで……」 天馬は正直に気持ちを告げた。 「お義母様のためでしたのに、良かったのですか?」 「…………それでも、嫌だった」 菊理が蘭を引き合いに出して揺さぶってみても、天馬の意志は固い。 少年の心に、一つの感情が生まれていた。菊理と、もっと一緒に居たい。もっと自分の証をつけたい。 そこまで自覚すると、あまりに恥ずかしくなって顔が上げられなくなった。嗚呼、なんて浅ましいのだろう。こんな感情絶対に彼女に悟られたくはない。だから、我慢をしなければ―――。 「いいですよ、天馬様。 ……菊理は嬉しくございますから」 自分の殻に引き篭もったまま自己完結してしまいそうな天馬の背を、菊理は、とても軽やかに押した。 二人の初めての接吻はこうして行われたのだった。 |
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