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玄関に人の気配を感じて、日明天馬は自室から飛び出し廊下を駆けた。 月の冴え渡る閑静な高級住宅街。住人の殆どがもう眠っているだろう。天馬も実はかなり眠かったし、寝てても良いと言われていたのだが、無理やり我慢して本を読んで待っていた。 やはり、久しぶりに親に会うのは嬉しい。 今日は、日明家の家長 日明蘭が遠征から帰ってくる予定日だった。一月ぶりに母親に会えるのが天馬にはたまらなく嬉しかったのだ。 半分転がるように廊下を駆けた。 「お帰りなさいませっ」 人影に入ってくる気配がなかったので、天馬は靴脱ぎ石からつっかけも履かずに下りて、鍵をはずす。 「お帰りなさいませっ」 扉を開けながら、再び元気な声で挨拶を繰り返した。少年特有の少し高く良く通る声。夜だとか、近所迷惑だとか、そういう細いことが天馬の脳裏を掠めたが、まあ言ってしまったものは仕方がない。 硝子越しでよく見えなかった人影が、姿を現す。 天馬は驚いた。 そこにいたのは、少年の考えていた相手ではなかった。 垂れ目で、ふてぶてしそうで、鬼のような気迫を背負っている白い軍服着用の軍人―――という点では予想通り。 しかし、その人物は、髪が短く切り揃えられた男だったのである。 「天馬……」 飛びつかんばかりの勢いで顔を出した少年を、困ったように見下ろしている。さっと天馬の頬が朱に染まった。 人違いだった。 気配が一人だからと、いつものように母親一人が戻ってきたものだと油断してしまった。母に懐いている様子が零武隊の隊員と思われるこの男に知れたのが、非常に恥ずかしい。十を超えたのにいまだ乳離れできていないなどと思われたらどうしよう。 「あ、も、申し訳ございません。 母……いえ、日明蘭大佐が戻ってくるとの連絡を受けていたもので。 零武隊の方ですね」 「…………いや、そうではないんだ」 「え? 零武隊の方ではないのですか?」 きょとんとした表情を浮かべる。そのまっすぐな瞳に、歯切れの悪い言葉を言った男は、うっ、と言葉を詰まらせる。 純真さはある意味武器だ。 空には月がぽっかりと浮かび、雲は一つもない。おかげで玄関の薄暗い明かりでも二人の顔は互いによく見えた。 互いに武人であることは、その動きからわかっていた。天馬は無邪気な顔を見せているが、母親でないとわかった途端から警戒の気を放っている。命を狙われることは昔から嫌というほど経験している。たとえ相手が零武隊の軍服を着ていたとしても、心を許したことはない。 「ご用件はなんでしょうか?」 相手がなかなか口を開かないので、固い口調で天馬は尋ねた。 「ああ……。 とりあえずあがって話そう」 「それは出来ません」 躊躇なく、きっぱりと言い放つ。 この時間に訪れて名乗らない不審な相手を、家に上げることは出来ない。 断られるとは思っていなくて、垂れ目が不快そうにぎょろりと動いた。 次の瞬間、いくつかの出来事が起きた。 天馬は一歩下がりながら鞘にいれたままの刀を振る。夜なので帯刀してなかったのが幸いした。 相手の男も同時に抜刀し、天馬の胴を薙ぎ払う。 だが彼の初撃は、天馬が下がったゆえに当たらない。天馬が放った一撃は、首を少し傾けるだけで避けられた。 彼は手首を返し二撃目に移ろうとする。 だが、天馬は下がったときに後ろ足にかけた重心を、再び前に戻すという一動作だけで次の攻撃に移る。少年のほうが一瞬、だが戦いの上ではとてつもなく、早い。 天馬の放った突きを、左腕で払い落としながら右手の片手だけで刀を操る。二撃目も胴狙い。が、これは少年に難なく避けられた。 少年が殺気篭った攻撃を仕掛けても、彼は必ず峰打ちで返そうとしている。それに、あくまでも返しの攻撃しか狙ってこない。近づいてこようとする気配がない。この少しのやりとりで、実力に大きな差がないとわからない相手ではないだろう。刀を構えなおしながら、天馬の中に違和感が生まれた。 その違和感が理解に変わった瞬間、一つの結論が生まれた。 「まさか、母上、ですかっ!?」 ようやく、天馬も頓悟した。 玄関口というこの限られた空間で刀を操るその技量。並みの人間ではない。 たとえ常識人がかけらも集まらないと噂される零武隊であったとしても、こんな人物がそうごろごろいるはずがない。 なんともいえない表情を浮かべながら、彼は刀を鞘に戻した。 「…………まあ、そういうことだから、上がらせてもらうぞ」 ****** 北の妖にやられた。 と、蘭は酒を呑みながら悔しそうにつぶやいた。妖自体は倒したのだが、それの最後に放った呪(しゅ)にかかったのだ。幸い直前に気づいたので、その呪にかかったのは彼女だけで済んだのだという。 八百屋が好意でくれたキュウリを、丸のままぼりっと齧る。 「髪は落ちて、体はこれだ」 特徴的な垂れ目に髪がかかり、忌々しそうに髪をかきあげる。普段からよくする仕草だが、今は髪が短いのであまり様にはならない。まるで稚児のような切りそろえられた髪型だったが、似合っていないのかと問えばそうではなかった。 通った鼻筋、薄い唇、凶暴な光を宿す瞳。常に獲物を狙っているような空腹の虎を思わせる、ぎらついた光。その危険な香りが彼に壮絶な色気を添える。 蘭の前では正座しながら、息子がきょろきょろと不審そうに彼女を眺めていた。刀を手放さないのを、あえて咎めはしない。静かに母親の話の一部始終を聞いていた。 「その、北の妖というのは」 「文献に一応あった奴だが、あんな呪ができるとは知らなかった。北の方のは文献が少なくて厄介なんだ。何せ大陸から渡ってくるやつもいる。 しかも今回のはなかなかに見事な妖でな。 一度見たらあの奇妙さは忘れられん」 「奇妙、とは、何ですかっ?」 少年の目が好奇心で光った。 ふふふ、と酒に口をつけていた男は口角を引きつらせる。 「羽がないのに、飛ぶのだ」 「ええっ!」 予想通りの息子の驚く様子が楽しくて、ぐいっと飲み干す。 「……まあ、羽がなくても物は浮くぞ。そこらへんは一度丸木戸や猪三郎に聞いてみるがいい。 だが、こいつは物理的ではない力で浮いていた。多分、地力の一種だと思う。浮くというよりは、地面と反発しているようなものだ。常に大きな跳躍をしているので止まっている瞬間がない上、強風が吹けばすぐに吹き飛ぶくらい軽い。全部捕まえるのが非常に難しかった。 一箇所に追い詰めて倒したと思って、そうだな……一刻くらい過ぎたときに呪が来た」 ぴょん、ぴょん、とまるで蛙が飛び跳ねるような様だった。 それも、小指より小さな青蛙が動くのに似ていた。牛十頭分を丸めた塊くらいの大きさがなければ可愛いものだったろう。 あまりにも軽やかに着地し、軽やかに飛び跳ねる。問題は肌の質で、強酸と同じ成分があり、それが跳ねるとあたり一面に酸の雨が降る。 様々な記憶がさっと過ぎった。 たいした奴ではなかったが、止めを刺したと思い遺骸の処理をしていた時。その遺骸が急に発光し始めたのだ。部下たちだけは守れたが――― 「ずいぶん時間差がありますね」 顎に手を当てながら天馬は自分の記憶を探る。どの文献にも見た事はない。 「ああ。 こんなのは初めてだ」 「では。それは、治るのですか?」 「わからん。教授はわざわざ匙を現地で購入して、目の前で投げたから腹が立って蹴り黙らせたけどな。 治らなかったらこのままだ」 そうですか。 と、少年は落ち着きを払った声で応じた。 考え込むポーズのまま、思慮深げに―――。 「それはちょっと困りますね」 正直に思ったままを口にする。 仕事の関係では特に困る点はないだろう。むしろ女性という方が珍しいくらいだ。そして生活の関係ではそれ以上に困らないだろう。ご近所で彼女を女性と知っている人間はそう多くないことを、天馬は知っている。 この賢しい少年は思っていた。解かなくて良い誤解はそのままにしておいたほうがいい、と。相手は勝手に納得し勝手に結論付けて行動してくれる。 自分の親の性別が男か女か。それは解かなくて良い誤解の一つだ。 ……待てよ。もしかしたら困ることはないかもしれない。という結論にも至りかけたが、天馬はそれでも少し困るなと判断した。 「困るが……………… …………………… …………………… …………………… …………ちょっと?」 しかし、正直さが常に美徳であるとは限らない。 不快そうに睨まれて、まずいと悟った天馬は慌てて手を振りながら訂正を加えた。 「い、いえ。とても困ります」 何故焦る。 と、蘭は息子の服を掴んで揺さ振って問い詰めたい気持ちをこらえながらきゅうりを頬張る。この時間まで起きていたのは、自分に会いたかったからだろう。その純粋な気持ちに免じて少しの失態は見逃してもいい。 「明日、カミヨミに相談しに行くつもりだ。 お前も一緒に行くか?」 婚約者の顔を思い浮かべて、少年は純粋な笑みを浮かべた。 「お願いします」 眠くても起きていてよかったな、と天馬は心から思った。 |
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