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今日は、菊理の禊の日だった。 ここのところ立て続けに少女にヨミを頼んだので、禊を無理矢理予定に追加した。帝月は必要ないので、天馬を近円寺家に預けた後、護衛役の蘭と菊理だけでいつもの神社にやってきた。 江戸時代に建てられた神社で、さして由緒正しいわけではないが、菊理も帝月もこの社をいたく気に入っていた。この社の側にある杜がいいのだ、と二人は口を揃えていった。 神主に零武隊の名で依頼して、奥の社を貸してもらう。禊は、端的に言ってしまえば水を被って冷たい風に長時間晒される作業で、非常に体力を使う。 昼頃から始めて終わったのは結局暮色蒼然とした頃だった。 神主に丁寧に挨拶をして玉串料を奉納した後、二人は並んで裏参道を歩いた。菊理が一番好きな道だ。杜の横を通る細い暗い道で一体何がそんなにいいのか分からないが、少女は欣喜雀躍しながら疲れているのにもかかわらずぴょんぴょん石段の上を跳ねている。確かに、この道は裏参道にもかかわらずよく人が通る。 蘭と菊理を見た老婆は、親子か何かだと思ったのだろう、優しげに微笑んで頭を下げた。 ……まあ。確かにいい道かもしれん。 現金にも考えを改めている軍人の隣で、少女が急に足を止めて横を向いた。 いつの間にか、険しい表情になっている。 「どうした? 姫」 杜と参道の間には細く古びた注連縄が掛けており、空間を区切っている。少女の視線の先は、鬱蒼とした木々が闇を作っていた。何故か怖さを感じさせない、居心地の良い暗闇だ。 「……何か、良くないものを感じます。大佐、ついてきてください」 少女に言われるままに杜に入っていくと、一本の大木といくつかの石で囲まれた奇妙な空間、岩座にたどり着いた。そこだけは少し広くて、夕暮れの光を受けて赤く染まって長い影が伸びている。信心など欠片もない蘭でも、そこがどことなく禍々しい雰囲気を持つのは分かった。 刀に手を掛け、油断無く菊理を見守る。 命に代えても守るのが己の使命だ。 菊理はというと、その大木を見上げながらゆっくりその周囲を周っていた。 「きゃあっ!」 悲鳴が小さく上がったので、慌てて駆け寄った。 少女の前に、木に打ち込まれた藁で出来た人形があった。木には何十もついた刀傷。そして打ち込まれた釘の痕がたくさんある。 「……斬るか?」 刀を鞘から少し取り出すと、菊理は首を一生懸命振った。 「いえ。お払いを致します。 相当強い念です……呪い返しがくると厄介ですから」 言うが早いか指から糸を垂らし口で祝詞を呟き始める。糸は意思を持ったように、木の周りを走った。そして幾重にも人形中心にも縛り上げた。 人形は赤い糸を拒むように震えていた。肉眼でもはっきりわかるように、振動するそれから何かが溢れ出る。無理矢理たとえるならば濁った空気のようなその瘴気は、形をはっきりとしないまま菊理ににじり寄る。 ―――菊理の詔が先か、それとも…… 考えながら柄を手にかけた。居合いの構えのまま気を尖らせる。 だが蘭の心配は必要なく、ある程度少女に近づいた瘴気は霧散してしまう。それでも油断なくいつでも抜ける用意をしていた。 ぱりんっ――― 不思議な音がして、人形が木から落ちた。 糸がひき、少女の体にもどっていく。 蘭は柄から手を引いて立ち上がり、人形の元にしゃがむ。菊理の方を見ると軽く頷かれたので、その人形を拾い上げた。予想以上にそれは新しい藁人形だった。もっと古いと思っていたのに。禍々しい釘の痕がここそこに見える。 「釘は抜いたほうがいいのか?」 「どちらでも構いません。怨念も呪いも人形に収めました。 それは、神社にお納め下さいまし」 「わかった」 軍服のポケットにつっこんだ。 菊理は一人木をもう一度回っていたが、それ以外に気になるものはなく、大佐の元へ戻ってくる。 「大丈夫ですわ。ありがとうございます」 「気にするな。今日は禊をした後なのに、わざわざこのようなことはせんでも……。疲れて、いるのだろう?」 花の様に少女は微笑んで、首を横に振る。 蘭は大仰にため息をついた。 ……もう少し頼って欲しい。 血の気がなくて今にも倒れそうな軽い体を、後ろからさっと抱き上げた。 「きゃ」 華奢な体が太い腕の中で丸くなる。 「無理は許さぬ」 「た、大佐。あの、大丈夫ですから」 「……お前が無理をするのは、愚息のためか?」 さらりと言うと、少女の顔が真っ赤に染まって黙ってしまった。今夜は天馬が近円寺邸に来て夕食を一緒にすることになっている。だがこんな体調では、帰って直ぐに寝なければならない。彼と遊べない。 だから、必死に丈夫な振りをしているのだ。 「駄目だ」 姫抱きされた両腕の中で、しゅん、と目を伏せる。 「……その代わり、今日寝たら、明日は二人で好きなところに行ってこい。 護衛は離してつけてやる。帝月と瑠璃男は任せろ」 「ほ、本当ですか?」 いきなりの外出許可に、菊理の顔色が変わった。しかも婚約者と二人きりなど、願ってもない。 「私が姫に嘘をついたことはないだろう」 他の奴にならともかく、とその後の言葉は飲み込む。 「あ、あの私、銀座に行ってみたいのですけれど」 「銀座か。よし、昼は煉瓦亭はどうだ? 店主とは顔なじみだ」 「まあ」 ほわっと可愛らしい顔が綻んだ。 煉瓦亭。 フランス料理の専門店として店を開いたのだが、ポークカツレツやカキフライ、エビフライ、オムライスなど数々の新メニューを売り出し、今一番帝都で有名な料理屋である。 菊理も名前は知っていた。 「だから。 今日はよく寝なさい」 「わかり……ました……」 返事をするや否や、ふっと瞼が閉じられる。 一瞬蘭は驚いたが、暫く様子を見ていると、眠りこんだということがわかった。 貧血と疲労だろう。 ……まったく。 蘭は胸中苦笑して、少女を大事に抱え馬車に戻った。 |
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