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夢を、見ているのだろうか。 薄暗い闇の中、体は自由に動かない。 いや、自由に動く。動いているのに、どこか感覚が麻痺していて、別人の手が目の前を動いているような気がする。月はない。薄暗い。これが夢ならばいい。だが、そうではないと往年の感覚が鋭く警鐘を鳴らしている。 ここはどこだろう。 そして、今、目の前で動いているのは本当に自分の腕なのか? その手は顔を触る。そして、他の手は胸を触る。横たわりながら足が縺れる。 手が、それに触れた。 ……ぶちっ。 「ぐあぁぁぁっ!」 蛙をひき潰したような声をあげながら悪夢から一気に目が覚めた。 「教授。君は剥製は趣味だったか?」 「いえ。趣味はホルマリン漬けです。 剥製は時間食うし、別に哺乳類は好きじゃないんで」 二つの試験管を持ち、ゆっくりと試薬を移し変えながら丸木戸は淡々と答えた。無色透明の薬は混ざり合うと白濁に濁る。最後の一滴まで丁寧に入れて、右手の試験管を軽く振った。その沈殿物が必要なのだ。 空になった試験管を戻し、振り返る。そこには手持ち無沙汰顔で座っていたはずの蘭が、椅子を勝手に並べていた。 「……何してるんですか」 並べ終わると、その上に仰向けで横たわる。 「眠くなってきたから、休憩を取ろうと思ってな」 「ここで?」 「ああ」 この部屋は丸木戸教授の研究室。死体の寝る場所はあっても、生きている動物が横たわるのは真っ平御免だ。しかもそれが口うるさい横暴上官となればなおのこと出て行ってほしい。 「あの〜大佐ぁ〜。一応これでも今日は貴女が押し付けてくださった大量の不明物質の鑑定に忙しいんですけどね? しかも証拠鑑定もうざいほどあるし。本当に証拠鑑定がこんなに必要なんですか?」 「ああ。三日で頼むぞ。 だが、それよりも前に剥製を頼む。出来上がったら見せてくれ。 ……君は髪の毛を上手く残すとしたら、どうする?」 さりげなく期限が一日伸びて、丸木戸は思わず試験管を落としそうになった。振っていたそれを試験管立てにおいた。 「髪の毛? 量が少ないならば、試験管に窒素と一緒に入れて密封すれば持ちますよ」 「それでは楽しくないのだ。 そのままの形が欲しい」 ……楽しくない? その一言に違和感を覚える。 楽しい方がいいということは―――仕事ではないようだ。 しかもわざわざ急ぐべき仕事を蹴ってまで優先させようとしている。 「天日に乾燥させたりしておけばそのままでもいいんでしょうが、コーティング吹き付けておきますよ。虫がつかないように。 それにコーティングの種類を使えば、さらさらのままでも、好きな形に固めるのでも、好きに保存することができますから」 蘭は軍帽をとった。そして、帽子の裏から紙に包まれたそれをそっと取り出す。 彼女にしては珍しく、慎重に机においた。 震える指先で、紙を一枚一枚開く。その動作が気になって、体が傾いて自然と覗き込んでいた。 紙が全て開かれたとき、現れたのは白い毛の塊。 「―――それ」 と、丸木戸が声を上げると同時に蘭はすぐその言葉尻を奪う。 「近所に住む猫の毛だ」 「いや、それ違うでしょ。それ」 「猫の毛だ」 有無を言わせない口調だった。 彼はゆっくりと唾を飲む。どう見ても、その二つの白い毛の固まりには見覚えがある。 本来ならば根元を失った毛は塊の状態になるはずはないのだが、その毛は油がたっぷり塗ってあったのできちんと元の形状を保っていた。 椿の油がてかっている。 雄山元帥の鼻下の髭。 老人の顔とワンセットに思い出された。 ……間違うはずもない。 にやり、と丸木戸が口元を引きつらせた。彼もこういう悪戯は嫌いではない。むしろ、一緒に計画できなかったことが悔しいくらいだ。 「そりゃお可愛そうに。 猫はどんな顔になっておりました?」 「うむ。間の抜けた面になっていてそれなりに笑えたぞ。 魚拓でもとってやろうかと思ったのだが、墨汁を忘れた上にすぐに起きてな。腐っても鯛、ということか」 言いながらポケットから試薬瓶を取り出す。丸木戸特製の睡眠薬で、霧状にして散布して使うことが出来る優れものだ。 昨夜、雄山の部屋の天井に忍び込み静かにこの薬を流し込んだ。念には念をいれなければならない、一応、こんな爺でも剣を持たせると厄介な相手だ。十分煙を吸った頃部屋に下り立ち、そして、自慢していた髭を引きちぎった。 驚いたことに、その瞬間、あれだけ薬を嗅いでいたのに雄山は起き上がった。動きは緩慢だったし、蘭と判別した様子はなかった。 戦利品を抱えて慌てて家に戻ったのだが――― 「折角ですからその形のまま残るようにコーティングしときましょう。 椿の油が塗ってあれば、虫の餌食になっちゃいますからね」 「出来上がったら見せろよ。 とりあえず私は昨日寝ていないから寝るぞ」 蘭は即席寝台の方に戻って、宣言どおり数分後には寝息を立てていた。 |
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