・・・  O-Hige  ・・・ 


 「なんだこれはぁぁ―――っ」
よく晴れた午後の昼下がりのことだった。怒号が、参謀本部中を駆け巡った。隣の部屋は勿論、その声は階下の元帥の直属の部下で構成される秘書課まで伝わる。驚きのあまり、軍人たちは手を止めて顔を見合わせた。
「なんだよ? 元帥の声じゃないか?」
「ってか、上の階だろ。なんで聞こえるんだ?」
「どういう声量しておられるのやら……」
初めての経験に不安そうな表情で互いに囁きあう。元帥の部屋に行くべきか、そうでないか、判断つきかねた。だが、暫くしても断続的に大声が落ちてくるのが聞こえて、行かなくてもいいだろうと結論づけた。
 「さっき日明大佐が入っておられたから、あのならず者部隊のことだろう。
 そりゃあ叫びたくもなるさ」
「ああ。成る程な。
 あの零武隊ってか」
一人が侮蔑を込めて笑うと、いやらしい笑いが周囲に広がる。
 零武隊。
 揉め事を起こすために軍に所属しているような乱暴者の集まりで、予算を食いつぶす金食い虫だ。
 それに、元帥府に一番大量で厄介な仕事を持ってくるのは彼らだ。特にここの隊長日明蘭は、まともに期日前に書類を提出したことはないし、予算や決算に至っては文句を言うまで作ろうとしない。一応隊員の一人はそれを発見するたびに元帥府に平謝りに来るのだが、ついぞあの女に謝られた覚えは無い。
 そのくせ雄山元帥がどことなく蘭に甘いのが、部下たちにとって一番許しがたいことだった。
 確かに零武隊が訓戒や処分を受けることは他の部隊に比べれば格段に多いが、それでも不十分過ぎる。彼らの起こす揉め事はいつも生易しいものではないのだ。他の陸軍師団に行ってわざわざ傷害事件を起こしたうえ火事を起こして武器庫を焼いたり、元老院の大御所の孫娘に手を出したり、考えられない事件を平気で起こす。それらのフォローにどれだけ彼らが手を焼いたかしれない。 しかも日明蘭は、いつも揉め事を起こした首謀者を軍法会議にかけることはなく『身内処分』で済ませてしまう。処罰が緩いから風紀が乱れる―――といくら他の将軍がいっても彼女は耳を傾けようとしない。
 ここまで元帥が叱るのは初めて、にやにやと自然に笑みが浮かんだ。彼女が叱られている様を想像するだけで小気味がいい。
「多少はいい気味だな」
「ま。多少はな」
言いながらファイルの端を整える。
 と、一群の男が開きっぱなしの戸から入ってきた。
 黒の皺一つない軍服。中将の特有の腕章をつけた軍服が彼ほど似合う者はいないと評判の、日明中将だ。 お供に三人、見慣れた顔の軍人が付いている。
「日明中将。お戻りですかっ!」
受付係の新人が弾ませて声をあげた。
「うん。
 ……これを元帥府の方々で召し上がって欲しいので渡しにきたんだ」
いいながら、手にある菓子折りを渡した。のし梅、という包み紙を見て、彼は思わず受け取りながら声を漏らした。御一新の後から発売され、非常に人気がある水戸の名産だ。長方形の短冊形のお菓子で、梅汁と水あめをあわせたものを寒天状に固め、それを竹の葉で挟む。上流階級で評判のお菓子として最近流行りだした新聞に取り上げられていた。
 日明とその部下は、合わせて十箱以上持っていた。新人一人に任せるわけにはいかないので、次々に秘書課の者も席をたって彼らの元に行く。
「どうなさったんですか?」
「護衛の方が病気になって、予定繰り上げて戻ってきたんだ。
 相変わらず護衛中のお土産が多くてさ……。いくら断ってもききやしないからお裾分けに来たよ。他の師団には黙っておいて」
わかりました、と頷く。
 日明は部隊の到着を伝えに元帥府に来たのだが、先客がいた。秘書たちは日明と部下に席を勧め、お茶を出す。のし梅を開けようとしたが彼らは丁寧に断った。三日前嫌というほど食べたのだ。
 お茶を飲んで、一息。
「……なんか凄いね。ここまで聞こえてきているよ」
唐突に中将が言ったのに、誰もがその内容を理解した。
「全くです」
「驚きました。あの……元帥が」
「まあ気持ちは理解できます。また零武隊がとんでもないことをしたのでしょう」
「揉め事を起こすための部隊ですからね」
一人が口火を切ると、次々に零武隊への文句が漏れる。日明はお茶を飲みながら適当な相槌を打った。この聞き上手なのが、部下だけではなく多くの軍人から慕われる点だ。 彼が蘭の夫と分かっているのについ言ってしまうし、言えるような雰囲気をつくってくれる。
「馬鹿も―――んっ!」
 そこにまた一つ、大きな雷が落ちた。
 ぷっと誰かが笑うと、部屋中全員つられて大笑いだ。その一瞬の隙に、日明が心配そうな顔を浮かべるのだが、それに気づいたものは誰もいなかった。



 大声が聞こえなくなって暫くしてから、一人が、雄山の部屋に連絡をいれた。中将の到着を伝えると、すぐ来いと息荒い声が返ってくる。
「日明中将。今から宜しいそうです」
「ああ。ありがとう。お茶ご馳走様」
「こちらこそ。いつもありがとうございます」
お茶はすっかり冷めていた。随分長いこと待たされた気がする。時計を見れば、確かに二十分以上もすぎていた。
 廊下に出て階段を上り、雄山元帥の部屋まで続く一本道を進む。安全対策のため、彼の執務室に行くには一通りしかないよう設計されている。このままいけば、どこかで必ず蘭とすれ違える。出会ったら、一言慰めに声をかけてやろう、と思った。

 あれで蘭さんって叱られるとしょげて泣いちゃうんだよね〜。

 と、仮に他の者に聞こえていたら誰もがつっこむであろう内容を心に浮かべながら、淡く自分に泣きついてくることを期待(妄想)し足取り軽く進む。彼は自分が本気で怒ったときの怖さを過小評価しながら、妻の泣き顔を思い出して笑みをこぼした。蘭がしょげて泣くのではなく、日明が恐ろしいから泣いてしまうのだという事実は全く気づいていない。
 最後の角を曲がったとき、そこに、予定通り彼女を見つけた。
 声をかけようと思っていたのに―――

 何もせずそこに立っていた。
 口元に手を当てて、唇を引きつらせて中空に視線をさ迷わせている。
 それは、誰もが知っている。彼女が悪巧みをするときの顔だった。

 と、蘭が中将に気づいた。一瞬驚き、そして、嬉しそうに頬を緩める。それは計算高い反応だった。一つは本当に嬉しかったから。もう一つは、今の顔を隠すため。
「日明中将。
 ご帰還なさったのですね。予定より早いようですが?」
近寄って、上目遣いで見上げるその視線。
 形のいい唇が至近距離で動く。
「無事のご帰還。嬉しく存じます」
久しぶりに見た、妻の顔。無表情のようだが、笑っているようにもみえる。自分の帰りを、こんなにも嬉しそうに迎えてくれるなんて。きっと寂しかったんだ。だから、喜んでくれるんだ。
 そう思うと、あまりに可愛らしくて、あまりに嬉しくて心が躍った。自分本位の色眼鏡が入っていることに気づいていないのは幸せなことだ。そして心躍るあまり、日明は今見つけた大問題を投げた。
 多分、何もない。
 大丈夫だろう。
 うん。大丈夫だ。絶対大丈夫☆
 中将の部下は複雑な表情で彼女と上官を見ていた。彼らの記憶する限り、蘭は間違ってもこういう台詞を言う部類の人間ではない。気がきかないタイプだ。……だが、悪戯をするときだけは異常に神経が行き渡る。
「ああ。ちょっとしたトラブルが起きてね。まあ実際ゆとりある予定を組んでいたからたいしたことはないよ」
「そうですか」
二三言葉を交わして、「後で」と一言残して去っていった。
 彼らはその場を動かないで、その後姿を見送った。
 こそっと部下が覗うと、日明の目の色が変わっている。
「廊下ですれ違えるなんて、運がいいなぁ〜」
「ここ一本道の廊下ですから。
 それより、今、絶対、日明大佐が良からぬ事を考えていられたように思うのですが」
ぽわわーんとのぼせた表情で呟く上官に、即座につっこみを入れる部下。が、聞いていない。
「運命ってあるよね〜」
「いえ。だから。何か企んでるのでお止めしないと」
「今日も綺麗だな〜」
「だから……」
小脳に渾身の一撃を食らったようだ。目は虚ろに、口はだらしなく、頭は桃色一色に成り下がっている。こうなったら数日は使い物にならない。
 あーあ。
 と誰となく思って。
 彼らは、今後何か起きたとしても今の全てを見なかったことにしておこう、と心に決めたのである。