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毒丸と蘭とは、戦闘が横で開始されたことなどまるで気づいていないかのように、先ほどからずっと同じ体勢でいた。 机一つ上から極悪とか凶悪とかいう目で見下ろされて、毒丸の体は芯から凍った。蛇ににらまれた蛙、なんて可愛いものではない。 その緊張感を打ち破ったのは、女の透き通った声。 「……折角だから、お前にこの仕事を譲ってやろう。 とてもとてもやりたくて仕方がないのだが、部下の経験のために敢えて涙を飲んで譲ってやるんだ、有り難く受け取れ」 予想外の言葉に、一瞬青年はついていけない。 目を何度も瞬いて、とりあえずその言葉の意味を理解するのに頭の半分を割く。半分は、常に最高レベルの警戒体制だ。意味が判ると、彼はあわててブルブルと首を横に振った。 「い、いや。 いやいやいやいや。折角ですから、素晴らしい肉体美な大佐の方がいいかと思いますよー。うん、綺麗だし。多分。 だから、遠慮しておき……」 蘭は言い訳を紡ぐ男の顔から目をそらすことなく、軽く足を振る。 毒丸は彼女の『全て』に対し警戒していたが、防御に遅れた。 激は聞くだけで痛々しそうな攻撃に、思わず目を瞑る。大佐の蹴りは容赦なく毒丸の左耳周辺を捉えて、凄い音をたてて大の男がふっ飛んだ。 壁に当たって軽く息が止まる。そのまずるずると壁際にしゃがみこむと、目の前に立ち塞がる人影があった。痛みで動けない毒丸を見下ろしているのは勿論、彼を蹴り飛ばした張本人だ。 「……やりたいだろう?」 先ほどと変わらない透明な声。今蹴ったばかりの人間だとは到底思えない。 話し合いで解決しようとしているのに、いきなり攻撃されれば腹が立つ。 彼の鋭すぎる目が怒りでつりあがった。 「や、やりたくねぇよっ! 籤で決まったのに他の人に押しつけるなんて、軍人としてみとっもねぇっ。 何しやがるんだよ大佐ぁっ!」 本能に任せて牙を剥いた青年に、彼女が返した答えは―――。 がすっ。 一陣の風が凪いだと感じた瞬間、顔の真横の壁が、蘭の靴底で穴が開いた。 鋼鉄の仕込まれた軍靴。 ―――毒丸の海馬の底に埋めた筈の悪夢のような記憶が、堰を切ったように溢れ出す。 この靴で死を覚悟するまで嬲られたことは、一度二度の経験ではない。容赦の無い、遠慮の無い、重い一撃が雨霰のように全身に打ち込まれたあの記憶。あの激痛。そして、それを繰り出す、悪魔のように微笑む大佐の顔。 嫌だ。嫌だ。あんな思いは、もう、二度としたくない。 脳内に様々な記憶が巡って、戦慄する。 彼女は青年の表情が次第に固いものに変わっていく確かめた上で、ゆっくりと足を滑らせて、靴底でそっと毒丸の頬を撫ぜた。 びくりと、面白いように全身が痙攣する。 血の気が一気に引いて、紙のように蒼白だ。 ぶるぶると青い唇を震わせて上目遣いで彼女を見上げる。それは敵の動きを読むための士の目ではない。もはや、完全に術中に嵌っていた。 蘭はサディステックな笑みを浮かべて泰然自若としていた。その怯えた目から、彼がようやく自分の立場を思い出したことを見取った。 「やりたい、だろう?」 再三、尋ねる。 じわり。とつり目の目尻に涙が滲んだ。 「……ぅぅぅううう。 やらぁいいんだろっ! やりゃぁっ。 決まったこともまともに出来ないような年増の鬼上官のために、仕事を代わってあげますよーだっ」 これで満足か、と言わんばかりに勢いよく言い放つ。口が悪いのは最後の抵抗だ。今にも泣きだしそうな情けないその顔が、蘭の嗜虐心を擽ることを知らないで。 薄く笑いかけると、彼女は、わけがわからないというような顔で首を竦める。 「おいおい。お前、何を勘違いしている? 私はお前の経験を思って敢えて申し出てやっているんだぞ? まさか言葉遣いも知らんのか?」 いつのまにか腰帯から外していた刀の先で、ぺちぺちと青年の頬を叩いた。ひゅっ……と微かに喉が鳴った。 鞘に入っているそれは、本来、恐怖を与えるものではない。しかし、毒丸には違う。日明家では、この鞘に入った状態の刀で無抵抗になった後の夫を折檻するのを常としているのだ。 軽く頬を叩かれる、今はそれだけだ。 青年は全身に疼きを感じた。過去の痛みが滓となって身体に残っている。 何か気に食わなければ、彼女は容赦なくそれを打ち下ろすだろう。それが、どうしようもなく、途轍もなく、怖い。 泣き叫んで狂ってしまいたい恐怖心が全身を襲う。もはや、完全に刷り込まれていた。 目を見開いたまま震え上がった毒丸は、指一本も動かせなくなってしまった。 助けて……助けて。嫌だ。嫌だぁぁ――― しおらしくなった男の様子を満足げに見下ろしながら、暴力的な上官は刀をしまう。 「―――まずは、礼だろう」 いつまで経っても言葉を発しないので、それとなく言ってやると、ようやく毒丸が反応を見せる。 「あ、有り難き、お心遣い……感謝……いたします」 「お前のような貧弱で細くて見苦しい体を、帝都の方々に見せつけるのか。 鳴呼、隊長としては本当に心苦しい。貴様の不様なモノを人様の目のつくところに置くんだぞ。 わかっているんだろうな」 「は、はい」 小さな返事に不満な彼女は、思い切り同じ場所を蹴りつける。穴はさらに深くなる。怒りを敏感に感じて、毒丸は怯えで震えながら必死で考えた。 だが何を言えばいいのか、思いつくわけもない。 どうすれば彼女の怒りに触れずに、満足させることができるのか。 「わかってないようだな。 お前の、貧弱で、無様で、細くて、見苦しい体を皆様に見せることを、口に出して謝れといっているんだ」 嫌だ、と自尊心が悲鳴を上げる。 だがもう、反抗する気力は残っていなかった。あの刀を見るだけで、彼の体はすべて蘭の支配下に置かれるのだ。 すすり泣きながら、鸚鵡のように、教えられた言葉を口にする。 「……貧弱な、体を、帝都のことにお見せすることになって、しまい、申し訳ございません」 言った後に、表現しがたい苦さが全身に毒のように広がった。 屈辱感で身が焼き焦れそうだった。女の見下した目線、そして薄く笑う表情が、残っていた最後の自尊心を打ち砕く。間断的に嗚咽が漏れた。 「不様で細くて見苦しいが抜けているぞ? 初めから言い直せ」 だが女は容赦しない。 青年の唇が震える。 屈辱に満ちた言葉が漏れたのは、それから幾らも経たなかった。 ぼろぼろと涙腺が切れたように涙が頬を伝わって床に零れた。 「最初から大人しく返事をすればいいんだ、この愚図がっ」 いい終わると同時に毒丸は頬に痛みを覚える。力なく涙で濡れる男は床に倒れた。 蘭は舌打ちを捨てて、踵を返し去っていった。 |