・・・  禍福糾える縄が如し  1  ・・・ 


 その日、零武隊隊長日明蘭は、クサッていた。
 彼女の周囲は見渡す限り、書類の山、山、山。机の上以外は一メートル以上の高さがあるため、風で吹き飛んでしまっては困ると窓も扉も一切閉め切られていた。
 前任者の特別注文で、陸軍特秘機関において隊長の執務室は異常に広い。開こうと思えば西洋式のダンスパーティすら可能なそこが、絨毯が僅かにしか見えないほど仕事で埋められている。今まで彼女が必死に終えた分も換算すれば、そこにあるのは零武隊全体の一ヶ月の仕事量に相当した。
 広い室内に相応しく大きい窓が備え付けられていたが、残念ながらその窓からの光の殆どを仕事の紙が遮ってしまって薄暗い。それが余計に陰鬱な気持ちにさせる。
 美味しい物を食べたい。運動不足だから物を壊したい。駄目部下どもを蹴り殺したい。菊理に会いたいっっっ!!!
 ―――悲しさと怒りと寂しさ等等感じながら、ひたすら手を動かす。この時間が長引くかと思えば、手を止めることは怖くて出来なかった。
 書類の上をたどる万年筆と紙の音だけが微かに響く。
 そんな重苦しい空気が漂う中、脳天気な声と共にゾロゾロと男達が入ってきたのは、蘭の軟禁生活が始まって四日目のことだ。
「大佐ぁぁー。入りまーす」
「失礼します」
多種多様のそかけ言葉に蘭は反応を示さず俯いたままだったが、男たちは勝手に話し始める。
「下らないことでまた毒丸が……」
「あっ! また俺だけ悪者にしよーとしやがって卑怯者っ。
 たいさーたいさぁぁ。
 地元の商工会議所からさ、防犯チラシのモデルになってくれとかきてんですけど、真ちゃん達が我儘言って話がすすまないんだよ。
 なんとかしてよ」
毒丸はいいながら、ぴょこんと机の端に飛び乗る。
 机の面積が広いから邪魔にはならないが、今の震動で字が大きく歪んだ。ピク、と女性の形良い唇の端がひきつった。
「我儘だとっ!?
 この後に及んで何を言うつもりだ。
 だいたい地元程度のことに軍人が協力してやるだと? 馬鹿も休みは休みといえ、馬鹿。
 貴様零武隊をなんだと心得ているっ」
「あれは断れといっておいただろう。
 それを、お前が気軽に返事をしてしまったせいでこんな事態になったのを分かっているのか!?」
「そうだっ! 目立ちたいとか思ってないからな俺は」
「馬鹿って言ったー! 真ちゃんが馬鹿っ。いいつけてやるー」
真と現朗がつかみかからんばかりの勢いで口泡を飛ばし、炎はさらに後ろで文句を言っている。激はさらに後ろで困った顔をして立っていた。別に彼はついてくる必要はなかったのだが、心配した鉄男からどうしてもと頼まれたのだ。
 毒丸が真と現朗を怒らせるのはいつものことだ。
 そんなに気にする必要ないのになーと大あくびをする。そして。
「……つーか、炎。
 お前、もしかして写りたいんじゃねえの?」
ちろりん、とじと目で睨む。炎はいきなり突っ込まれて、視線を明後日の方向に反らした。
「そ、そんなはず、な、な、な、な、ないっ」
激はわざわざその前にやってきて、下から親友の顔を覗き込む。にやにやとしたその悪戯っぽい笑み。
「俺はモデルしたいかもなー?」
「何っ。ずるいぞっ!」
激の言葉に、思わず過剰に反応する。
 しまった、と思ってももう遅い。
「ほら。出たいんじゃねえかー。素直に言えよー」
「ち、違っ。これはだな……」
「あははははは。いいっていいって。お前を推薦してやるよ俺は?」
などと和やかな会話が繰り広げられている後ろとは裏腹に、現朗と真の目は殺気立っていた。
 相手は毒丸。説得させるのは容易ではない。
「だってだって商品券くれるっていったんだもーん!
 祭りとか七夕とかお世話になってるからいいじゃん」
『いいわけあるか馬鹿者っっっ!』
二人が唱和し、毒丸がいやいやと手足をばたつかせる。
 横暴ーやりすぎーツリ目ー鬼畜ーと子供っぽい嫌がらせじみた言葉が、冷静さが売りの二人ですら平静を失いかける。いまだ手は出してないものの、時間の問題だ。
 口論の激しさと比例して、机の振動は大きくなる。
 あまり汚くなれば一枚まるまる書き直しだ。
 振動が酷くなり、書き続けられなくなった蘭は万年筆を持ち上げた。ペン先が、否、手が、机の振動とは無関係に僅かに震えている。
 と。
 古くなっていた万年筆の先から、ぼたりと滴が零れ落ちた。

 ピクククククク。

 …………一瞬、彼女が般若の様相になったことを、運悪く青年たちは気づかなかったのである。
「あれ?
 そーいやこの仕事量って多すぎない? なんか大佐やったの?」
「放っておけ。
 自業自得だ」
真は冷たく言い捨てる。現朗は嫌味たらしくチロリと女性に視線を投げ掛けてみたが、机にある書類の塔が邪魔をして蘭の顔は見えなかった。
 勿論この仕事は、零武隊の通常の仕事ではなかった。
 真と現朗が共謀して、零武隊の大佐の悪行を一切合切雄山元帥に報告した結果だった。
 元帥に怒鳴られ、三浦に嘲笑され、黒木に嫌味をいわれるという三段攻撃に流石の蘭も疲れてた。肩を落として自室に戻ってくると、この惨状。しかも二人は用意周到にも、元帥に「仕事が終わるまでは帰宅厳禁」の札を書いてもらった。カミヨミの札並みに良く効くその強烈な札は入り口の扉に貼られている。
「どうでもいいがこの件はなかったことにするぞっ!
 断りと謝罪の申し入れに行ってこい」
『ええっ!?』
毒丸と、炎の声が唱和する。
 今まで徹底的に無視していた真は、今度ばかりは見逃さないと首を回して炎に鋭い視線を突き刺す。
 わたわたと手を振って、炎は無罪をアピールする。
 すると、真もそれ以上追及するつもりはないのか、首を戻した。
「横暴だよ横暴ぉ!
 エリートたちの横暴! 皆の意見は絶対商品券だって。
 それで飲もうって話なんだからさー!  大体たった二人が一日仕事するだけで商品券もらえるなんてそう旨い話ないじゃん」
「そんな端た金に興味は無いな」
さらりと三白眼が一刀両断。
 その言葉を、さらに金髪が受け取った。
「だいたい、お前らなんか酒の味わからないんだから工業用アルコール薄めて飲めばいいじゃないか。
 生意気にも酒を飲むな」
「酷ぇぇぇ! 部下を人間とも思ってないのアンタ達っ!?
 今の発言で信用がた落ち決定。みんなに言い触らしてやる」
「初めから信用のないお前が言うな。眩暈がする」
「やればいいではないか」
書類の山から届いてきた声が、真の言葉を遮った。
 誰が言った、と五人は頭を巡らす。
 その間にもう一度彼女は口を開いた。
「商工会議所? どうせあのイマイチ目立たない張り紙だろ。軍人が映ってもさほど問題はあるまい。たまには地元にも貢献してやってもいいだろいう」
「うんうん。ソレソレ。
 ほらねー。軍人が出ても問題ないってよ。しかも商品券付きだし」
自分の援軍が大佐だといち早く気付いた毒丸は、可愛く高い声で返事をする。大佐がGOサインを出せば零武隊では決まったも同然なのだ。エリートが一丸となって反対すれば変わる可能性もないわけではないが、面白いことが毒丸同様に好きな激と目立ちたがり屋の炎はそんなには嫌がっていない。
「しかし大佐……」
現朗は眉をしかめつつ、上官との間を遮っている書類の塔を退かしながら文句を口にする。
 彼の言葉の途中で、蘭は口を挟んだ。
「脱げよ」
『は?』
五人の視線が、一点に集まる。
 その瞬間を狙って、蘭は首を上げた。
 今まで俯いて見えなかった顔が、現れる―――。

 目に隈を作り、血走った眼をぎらつかせ、健康美が損なわれ青白くなった肌。
 口を引きつらせているのは、多分、笑っているからだ。
 非常に禍々しいが、笑っているつもりなのだ。
 現朗の全身から汗が噴出す。異形のモノの始末に慣れている隊員たちは、不覚にも、その異形を超えるオゾマシイモノを見入ってしまった。

「せっかく軍人が出るんだ。
 モデルに相応しいように、脱げ」

 当然だろ。と言わんばかりで投げつけられる言葉に、誰が反論できようか。
 顔面蒼白になった男達は気迫に押されて全員一歩引いていた。
 蘭は、クサッていたのだ。
 広大すぎる部屋を埋め尽くす書類の山脈。
 手元の書類はインク溜まりがいくつも出来ていて、もはや見るには堪え難い。いつ終わるかしれない仕事に囲まれて、薄暗い部屋に閉じ込められたままもう四日が経過していた。
 少し正常な判断が出来なくても仕方がないというものだ。
「この件は真と毒丸の二人に任せる。
 くくくく。貴様らが好きに選べ。楽しみにしているからな。
 …そうそう。近頃、写真とかいう機械はかなり鮮明に写してくれるらしい。見苦しいものを作ったら被写体責任者諸共叩っ斬てやるから、心して作れよ」
殺人予告を終えて、蘭は再び下を向き書類に戻る。
 インク染みでどうしようもなくなったそれを片手で握りつぶし、ぐりぐりとこね回して、最終的には親指と人差し指とで米粒大にしてしまう。物理的にありえない圧力を目の当たりにして、全員の背筋に冷たいものが走った。
 長くいたら危険だ、絶対危険だ!
 目の前の男たちが戦々恐々としているなど知らず、蘭は新しい紙を引き出しから一枚出しながらはあぁと重い息をついた。
 五人には、それは、死刑宣告のように思えた。
『し、失礼しましたぁ!』
敬礼するや否や、五人は我先にと死に物狂いで命をつなぐ扉へ向かってダッシュし出て行ったのである。

 *******


 只のモデルなら立候補しようと思っていた隊員は幾人もいたが、裸体モデルとなると立候補は一人も出なかった。見苦しいものが出来たら大佐に殺されるのは目に見えている、一体誰が好き好んで死地に向かうだろうか。
 真と毒丸は小さな机を囲んで議論を重ねていたが、当然ながら良い案はでなかった。
「だーかーらー。籤だと変な奴に当たったらどうすんだよっ!? 脱いでもOKな顔ってったら現朗ちゃんとかじゃないと絶対無理だっつうの。
 大佐に俺たちも殺される」
「しかし指名となると、乱闘沙汰は必至だぞ。籤ならば当たった奴を問答無用で説得できるだろうが。
 裸体モデルという話は全員に伝わっている。せめてあの情報が伝わっていなかったらなんとか騙せたものを……」
「あーあ。零武隊の奴等ってどうしてこうも我儘な奴ばっかなんだろーね。みんな犠牲精神ってものがないよ! 育てた親の顔がみたいっつーの」
「………………お前がいうと眩暈を覚えるからやめてくれ。
 ええと、モデルの人数は何人だったか?」
「二人」
二人。
 面倒だから、いっそのこと顔のそこそこ整っている弱い奴をひっ捕まえて問答無用でモデルで送り込んでしまおうか。
 毒丸はそんなことを考えながら鉄男がいれてくれたお茶を口に付けた。
 甘く旨味が深い。その愛情の籠った栄養剤が悪戯に長けている毒丸脳に素敵電流を流す。そしてぴこりーんと素敵発想が閃いた。
 ―――嗚呼、なんで今まで思いつかなかったのだろう。そうだ、それでいいではないか。それで全ては上手く解決する。
 かたん。と茶たくに湯飲みを戻すと同時に。
「―――ねえ真ちゃん。  うふふふふ。クジでいいよ。うん、クジにしちゃおう」
毒丸は手のひらを返して賛成した。真は年下の豹変ぶりについていけず一瞬目を見張る。―――が、すぐにこの男の真意を理解した。
 普段ならば、この三白眼は、厄介になりそうな種は理由も問わず踏みつぶしている。それが零武隊を平穏にするために必要なことなのだ。
 だが。
 正直、この下らない話はさっさと片付けたい。
「そうだな。もういいか、クジで」
「うんうん。クジがいいんだよ」
「……現朗と激、だろ?」
「決まってんじゃん。あの二人以外誰にしろと?」
わずかな不穏な種で終わるならよいとに決めて、二人はすぐにクジ作成に取り掛かったのである。