・・・  七夕 2  ・・・ 


 新暦の七月七日。
 珍しく梅雨の切れ間で、夜空は透き通るように晴れていた。
 縁側から夜空を見ている息子に、日明蘭はどう声をかければいいのかわからなくて一人で酒を飲み続けていた。
 今年は、いろいろありすぎた。少年は青年になり、大人になり、自分の手から飛び立とうとしている。彼の透き通った瞳には、苦しみも後悔も全て飲み込んだ強さが加わった。一人で物思いにふける時間が増えた。母親として彼に教えて上げられることは、段々数少なくなっている。
 その少年―――否、もう、青年と言うべきだろう―――の視線は、夜空のどこかに焦点を結んだまま止まっていた。始めは月を眺めているのかとも思ったが、今日は新月だったと思い直す。
 夜風が冷気を運び、梅雨の気だるい暑さを吹き飛ばしてくれる。居心地の良い夜だった。酒を飲むのにこれほどいいことはない。
「……母上。
 それ以上の酒は、体に毒ですよ」
と、息子が口を開いた。静かな落ち着いた声で、無視をするにはそれを許さない強い響きがある。丁度蘭は新聞に目を落としていたので、不満そうな顔を上げると物悲しそうな青年の瞳とかち合った。
 蝋燭の明かりが、風に揺らめく。
 彼がこの目をする理由など、一つしかない。

 菊理のことか。

 新聞をとじて、蘭は杯に残っている酒を飲み干す。空になった杯を持って腕を差し出した。
「お前も飲むか?」
文句をいちいち言われるくらいならば共犯者にしてしまえ。
「いいえ。大丈夫です」
その声は、蘭の予想に反して、かなりしっかりとしたものだった。
 強い風が、わずかに開いた障子から入り込む。勢いづいていた風は悪戯にも蝋燭の火を吹き消して去っていく。真っ暗になると、後ろの夜空の明かりが部屋に入り込んだ。
 あたりの空気が急に薄ら寒いものへ変化したのは、何も風のせいだけではない。息子の気が鋭く固いものへと変わっていくのを肌が理解し、それにつられて蘭自身の動悸が昂ぶった。恐怖ではない、が、体が危機を察知して強張る。彼女の目の前で、天馬の透明の瞳が虚ろに輝いていた。
 その眼に篭絡めとられないように、蘭は自分の意識を息子から無理矢理外す。青年自身ではなく、青年を含めた全ての世界を見ようと努めた。
 すると、当然、目に入るのは、障子の狭間に広がる夜空。
 明るすぎる星の群。
 新月のおかげで糠星までもが輝く、見事な天の川が見えた。
 夜空に散りばめられた休むことを知らぬ星の輝きは、見る者の心を強制的にざわつかせる。
 七夕か、と母親は、まるで今初めて気がついたような声を上げた。
「母上は毎年必ず笹をもって帰ってきましたね」
詰るように据わった目を向けると、母は冷めた瞳で堂々と見返してくる。
「まあな。
 楽しいことをするのに、なぜ遠慮する?」
この話はもうしたくないと、蘭は新聞に視線を戻した。
 だが、そこでは天馬は引き下がらない。
 今、空を見上げているうちに、失われた最も愛しい女性の顔が思い出された。その顔を、その思い出を愛でているうちに、本当に愚にもつかないことを思いついてしまった。―――否、気づいてしまった。
 少年は自嘲的な笑みを浮かべながら、一人語りを始める。
「天の川に引き裂かれた恋人が年に一度会える、という物語を、昔の俺はなんて可哀相な恋人同士だろうと思っていました」
相手の目が険しくなったのに気づいたが、いったん口から漏れた言葉を戻すことはできない。それを語るのがどれだけ無意味であるか知っているのに、何故か、口は止まらなかった。天馬は自分の体が自分以外の意思で動かされているような不思議な気分を感じていた。
 空を見上げる。 
「愚かだな。何が可哀想だ。
 年に一度会う二人が、可哀想だ?
 どこが。
 想い続ける相手が、そこにいるのに。
 そこで生きているのに。
 そして、年に一度、会うことすらできるなんて……」

 俺が彼らに同情するなんて、全く哂い話にもならない。

母親の右手が、後ろへ引かれる。
 彼の目にはゆっくりに見えたが、それは凄い速さだった。予想通り、その手は天馬の頬に当たって夜闇を切り裂く音がした。首を振って勢いは殺いだものの、鼓膜が痛が頭全体の痛みとして残る。残響音が直に脳の中で響いているようだ。天馬は無意識に殴られた頬に手を添えた。
「当たり前だ。お前の思い出はただの悲劇だ」
淡々とした口調で言い捨てて、蘭は再び新聞を読み始める。
 天馬は苦しみを人に話して、苦しみを分かち合うような、ましてや、同情を誘うような真似をする者ではない。

 息子は、母親という存在に珍しく甘えているのだ。

 同情か、慰めか、そんな優しい言葉を無意識に渇望している。それが蘭には手にとるようにわかる。昔、自分も同じように親に強請る無様な真似をしたから。胸に苦い思い出が広がった。
 杯に注ぐの面倒になって、一升瓶に口をつけて飲んだ。意思というよりは義務のように。あれほど煩かった注意が今度ばかりは飛んでこない。
 精神的な痛みで耐えられないらば肉体的な痛みで誤魔化すしかないではないか。愚かな。胸にしこりのようなものを感じて、なんとも座りの悪い空気の中、彼女は息子を毒づく。
「……だが、それは、お前が馬鹿でいられるくらい幸せだったということでいいだろう?」
甘言で説得を試みるが、案の定渋い顔をしたまま動かない。そういう話で落ち着く人間ではないことは彼女が一番よく理解していた。
「母上は、何故、何も感じていないのですか?」
と。彼は頬を触ったまま低い声で尋ねた。
「……そんなわけあるか」
「あります」
きっぱりと断言された。
 澄んだ眼はまっすぐに蘭を見ていて、彼女も、その目を見てしまっていた。手にある酒瓶に口をつけて飲もうとするが、生憎酒は切れている。ちっ、と舌打ちして瓶を横においた。徹底的に無視されているのに、天馬は絶対に母親から目をそらそうとしなかった。
「……私たちは、時間は少ないんだ。
 だから、戸惑っている余裕なんてない。迷っているうちに死ぬのは真っ平だ。そうだろう?」
母親は何をいっているのだろう、と天馬は不思議そうな顔になる。星の光を受けた蘭の瞳がわずかに輝く。
「お前が、もし、自分を、愚かだと笑いたくないならば……。そういうことに囚われたくないというなら、助言くらいはしてやれる。

 七夕など、初めからそんな行事はなかった無かった。
 何もかも無かった。
 だから、お前は愚かでもなんでも無い。

 そう考えれば、どうだ、気が晴れるだろう?」
星の光を背に受けた少年のその顔が、みるみるうちに怒りに変わる。
 いきなり彼女の胸倉を掴んで、押し倒した。馬乗りの状態で顔と顔とを近づけて食って掛かる。
「貴女は、なかったことにするおつもりですかっ!
 毎年笹を用意して、雨にならぬよう願掛けをして、彼女呼んで、願い事を書かせて、一緒に食事をして、話して、八俣さんを呼んで―――
 その、すべての時間を、無かったことにしてしまうのですかっ!?」
だが、母親は極めていつも通りの顔をしたまま、答える。
「天馬。勘違いするな。もしもの話だ。お前が逃げたければ、その逃げに入ってもいいと言っただけだ。
 手を放せ」
少年は、しかし、言葉に逆らって手の力を緩めない。蘭の見る目の前で、じわじわと涙が溢れていく。
「……そんなこと、させません。
 私は菊理の夫です。
 彼女と過ごした時間を、一片たりとも、幻などにさせるものかっっ!」
血を吐くように投げつけられる言葉を、彼女は無表情のまま受け止めた。白く柔らかな頬に、ぽたりぽたりと涙のつぶてが落ちる。
「放せ」
「……嫌、です…………。
 俺は、貴女が逃げるのを、許しません」
 ―――何故、お前は気づくんだ。
 例え話にしたのだから、それを信じればいいのだ。いつもの通り、そこは素直でいいではないか。
 菊理という名を聞くだけで、焦燥感にも似た痛みが、混乱が、全身を巡る。意識が混濁し、思考に異常をきたしそうになる。なのに、その痛みを感じながらも表情は少しも変化しない。
 バラバラになってしまった体と心の関係を、今更、気づかせないで欲しい。
 錯乱したくないし、その異常も知りたくないからそう決めたのに。

 蘭にとって天馬は、もはや薬ではなかった。ただの毒だ。

「お前の許しなど誰が乞うか」
酒の力を借りて、蘭は最後の意地を紡ぐ。

「許さないと言っているんですっ!」

 だが、息子は容赦なくそれを一刀両断した。