・・・  七夕 1  ・・・ 


 七夕の夜に雨が降った。

 事実関係を心情をいれずに的確に表現したならば、多分そういうことになる。……のに、日明天馬は何故か納得できなかった。宿題でもなんでもないが、とりあえずもう一度考え直す。

 菊理が楽しみにしていた七夕の夜に、雨が降った。

 少し詳しい形容詞がつき、なんとなく情景が活き活きと描かれるような気がする。勿論、気のせいだ。別に雨の降った七夕の夜ではなくとも菊理は毎年七夕の日を楽しみにしているのだ。
 だから―――という訳ではないが―――少年は再び腕を組んで首を傾けた。事実をもっと的確に表す表現はないだろうか。義務や頼まれたというわけでもないのに、彼は脳神経を活発化させて真摯にその問題に取り組む。
 考えながら、とうとう、真実を認める勇気を得た。
 やはり、そう、その事実は認めるしかない。

 菊理が楽しみにしていた七夕の夜に雨が降ったので、母親の日明蘭が暴れている。

 言葉通りの情景が、今、目の前で展開されていたのである。
 息子としては恥ずかしいやら情けなくなるやらの光景で、認めた直後にそれが嘘ではないかと思ってしまう。見間違えだったらいい、という心がある。
 まずは、刀を抜き、酒を楽しむ八俣警視総監に牙を向いて怒鳴り散らしている白い軍服の女性が、母親ではないという可能性を検討してみた。声も、行動パターンも、また、軍人でかつ髪が長いという一点をとっても日明蘭を特定させる。つまり、可能性は零に近いのではなく、確実に零だ。
 次に、母親が暴れていないという可能性を検討しようとしたが、刀を振り回している時点でそれはありえないという結論に至った。
 やはり母上は暴れているのである。
 そう、改めて思って、大きくため息をついた。
「八俣ぁぁっ!
 この善き日に雨を降らせるとは何事だっ。腹を切って菊理に詫びを入れろっ」
「いきり立つのはやめなさいよ、菊理ちゃんも怯えるでしょ。
 て、いうか、どうせ新暦の七月七日なんて雨降るに決まってんじゃないのよねぇー? だったら旧暦ですればいいのに。あんな大きな笹を奪ってきて屋内で飾るなんて、勿体無い」
「あ、は、はい……」
「その短絡的思考でよくもまあ警視総監が名乗れたな。
 勿論旧暦と新暦の両方をしているに決まっているだろう? なあ、菊理」
「え。ええ」
婚約者の菊理は、マッチョと軍人に挟まれて俯きがちだ。緊張と怯えで、今自分が何を食べているのかもわかっていないに違いない。
 あの席は怖いだろう、と胸の中で合掌。
 大丈夫。母上は酔っても刀『では』人を傷つけない人だから。
 今、天馬は菊理たちがいる部屋の襖の陰に隠れて、こっそり中を伺っている。三人はその部屋の先の縁側に並んで座って、落ちる長雨を眺めながら酒と料理を堪能していた。七夕の宴を催すのは知っていたが、帝月たちに捕まって少年だけ遅れてしまったのだ。
 助けに行かなくては、と胸のどこかが叫ぶのだが足が竦んでしまって襖の影から動けない。天敵の八俣と単なる敵の母上が同時にいる席にわざわざ出向くなど、少年にとって自殺行為に等しい。
「……折角一緒に見たかったのに」
ぼそりと。
 天馬は独りごちながら彼らの背中の先に見える夜空を見た。雲が覆い、雨粒がしめやかに流れ落ちている夜闇の向こうには、星が川のようにあるのだと昔話は言う。
 天の川の両岸に住まされた恋人たちの年に一度の逢瀬。
 今日の昼に、菊理はその美しい逢瀬を自分と見たいといってくれた。
 それを聞いた瞬間あまりにこそばゆくて俯いてしまったが、とても嬉しい言葉だった。
 ごくり、と唾を飲んで再び三人の背中を見る。許婚がそこまで言ってくれたのだから、やはり出て行かないわけにはいかない。これから起こるであろう悲劇と混乱を覚悟して、天馬は一歩を踏み出した。