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三人分の茶はよい具合にはいっていたのだが、それを誰も飲み終えることはなかった。 蘭が靴を脱いでから十分も経たず、彼らは馬車に乗っていたのである。 進行方向向きに嵐と八俣が、反対側に蘭が座っている。少女の目は真剣そのもので、非常に話しかけづらい。馬車の中だけ気圧が五倍くらい上がったのではないかと思えるほどに重苦しい。 八俣は呼ばれたわけではなかった。しかし、軍人が用件のさわりを話しただけで家政婦が青ざめて出かけることが決定したので、止める機会を失ってそのままついてきてしまっていたのである。 「……信じられませんっ」 ぼそりと。 全身の怒りを込めた一言にびくっと軍人が震える。 だがそのくらいの反応は大袈裟すぎるというほどではなかった。雇い主も冷や汗を垂らしつつ、一応、幾度も宥めてみようと試みたが全て玉砕している。 「嵐ちゃん。そんな、怒らなくてもいいじゃない」 ちゃんづけで呼ばれると一々面白い(不貞腐れた)反応を返してくるのだが、今の彼女にそれに気を払っているゆとりはない。 主に冷たい視線を投げかけて、極力心を落ち着けながら口を開いた。 「怒ってはいませんが、信じられないといっているだけです」 「日明蘭のとる行動の大概がそうよ。今更、そんなに癪に障るかしら?」 「気に触りますよ当然。赤子が五人もいて、それを放置して出かけた? どういう神経なさっているのですかっ」 声を荒立てないよう努力はしているが、すぐにそれは水泡に帰す。自分で言っている間にヒートアップしてしまうのだ。 横に腰掛ける八俣は、まあまあと手を振った。 「でもほら、子供、寝てたんでしょ?」 ぷつん。 ―――と。彼女のどこかが切れる。どうしてこの人たちは、こんなことを軽々しく言えるのだろう。赤子というものを少しもわかっていない。 「いつ起きるかわからないでしょうっっ!」 関係のない八俣を一喝し、ふう、と大きく息をついて目を風景に向けた。 ―――こりゃ駄目だわ。 自分も目の前の軍人も頑固者であるが、この家政婦は彼らとは別ベクトルの方向で非常な頑固者なのだ。頑固にも種類がある。命令や規律を守れない犯罪者を憎む八俣、帝都を守るためには容赦しない日明蘭。 ただ、すべての頑固者に共通していえることがある。 自分の逆鱗に触れたが最後、無関係の者にまで矢鱈滅多ら怒り出す点だ。 どうやら今回の事件は、嵐を著しく刺激するものだったらしい。 何が悪かったのだろうか。 膝の上で手をきつく握り、視線を床に這わせながら蘭は必死に考える。彼女に頼もうとしてきたことは、一言で言ってしまえば、子守だった。 ****** 「子守? ですか。経験はありますよ。副業で」 「それは良かった。 実は五人の赤子を面倒を見ることになって困っているのだ。それもちょうど動き回るくらいの年頃で、正直手に余る。 少しの期間でいいからお願いし……いや、おいまだ何もそんな厄介事を言っていないぞ。だからお前が主人面して文句を言うのは間違っているんだからな。ええと……話が逸れた。 そうだ。 私に、子守の仕方、というのを教えてくれないか。出来ればすぐにでも」 「はあ。まあ夕飯後なら時間が空いておりますからよいですが。 ……もしよければ家政婦派遣から何人か呼べますよ」 「公には出来ない。部下にも言っていない」 きっぱりと言い切った。 そのとき、嵐は何かに気づいたようだ。 急に彼女の眼差しがきつくなり、表情が険しくなった。 彼女は蘭の任務をよくしっているわけではないが、とにかく秘密保持が大事な職務なのだということを聞いていた。ただの軍人とは一味違う、のだとも。 確かに、と嵐はそれを八俣から聞いたときに答えた。 『あの方の動きはよく殺している人のですものね』 彼はなぜだかその答えにひどく満足したようだった。 とにかく、その存在自体をも機密の軍隊の隊長格だという。その人間が部下にも秘密で子守を引き受けた。 八俣ならばこれだけの情報を得て導き出す結論はこんなものだ。 蘭が部下にいえない事情で起こした事件で、何人かが幼児化したな、と。 だが嵐は同じ情報を得て全く別のことを引き出した。 では、今。その五人の子供は誰が面倒を見ているのだ? 「日明殿。その子たちは今どうしていますか?」 お茶を差し出しつつ、極めて冷静を装いながらたずねる。 蘭は一言礼を言ってお茶に口をつけた。 「寝てる。だからそっと置いて来た」 それを聞いたとたん、少女はいきなり行動を起こした。お茶を運んできたその盆に、全員分の茶を戻し始めた。あまりの手際のよさに二人もわけがわからない。湯飲みをのせた盆を持ったまま器用にすっくと立ち上がる。 「日明殿。すぐに出ます。外で待っていてください。 旦那様、今日は休暇を頂きます。すみません。 ―――いいですか。たとえ寝ていたとしても、赤子を放って外に出て行ってはなりません。 とっととそこに連れてって行って下さい」 最後の恫喝は、低くさほど大きな声ではなかったにもかかわらず八俣と蘭の二人の動きを一瞬止めた。年下のこの少女に口にするにはかなり無礼なものなのに、逆らい難い。 こうして三人は馬車に飛び乗り、三十分と経たず陸軍特秘機関研究所に到着した。蘭は通用門の大仰な錠を持っていた小さな鍵で開けると、中へ二人を招きいれる。入り口のところに普段いる見張りの兵士はいなかった。 「あんたが正門を蹴破って不法侵入しない姿を見ると、違和感感じるわ」 入って一メートルもしないところで、蘭が足を止めた。 振り返って、困ったなという表情で二人を見る。そういえば、今日は丁度よい案内役がいない。となると、この二人を官舎に入れるのには『自分が通る道』を使わなければならない。 「部下の訓練のために地雷を置いてあるからな。 ……嵐殿。官舎では、壁などに不用意に触らないようにお願いする」 「わかりました」 地雷なんて冗談のようだが、冗談ではないと判断した。信じやすいのではなく、この女軍人がわざわざ冗談を楽しむような性格ではないからだ。 蘭は顎に手をつき、しばらくの間じろじろと家政婦を見る。 仕方ない。やはり、この方法しかない。 「動かないでもらえるか」 優しい声が聞こえると同時に、少女の体が持ち上がった。女性とは思えない太い腕にしっかりと抱きかかえられて、怖いことはなかった。人肌の温度につつまれて、むしろ心地がよい。左腕が触る柔らな弾力はこの軍人が女性であることを改めて思い知らせてくれる。 嵐は少し予想がついていたので、動じることはなかった。 だが、主の方は違った。 ひきききっと唇が引き攣り、文句を言いたそうなのを必死で堪えている。 蘭も八俣の顔に青筋が浮かぶが面白くてたまらなかったが、今ここで言い争いをすると胸の中の女性が怖いのでやめた。 「……始めて来た方は危険だから仕方ないだろう。 お前は私の後について来い」 言うが早いか、長い髪をたなびかせて蘭は駆け出した。 八俣も一歩遅れでついていく。 嵐は、後ろを見た。今通っていった道の中空を、何かがよぎっている。時折小さな爆発もしている。 これ、洒落にならない怪我をするんじゃないかな。 ……特殊だとはきいていたが、わずかに少女の予想を超えていた。 そんな意識に囚われている彼女は、次の瞬間もっと困惑することになる。 研究所入り口まで続く一直線の桜並木で助走をつけて、二人は、躊躇なく二階の窓から飛びこんだのだ。 |
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