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太陽暦が採用されて世間に登場した日曜日、警視総監八俣八雲の自宅には二人の人間がいた。家の主たる八俣と、その家政婦である。 嵐の休日は月曜日と金曜日にして、逆に日曜日には必ず出てもらうように決められていた。 曰く、日曜日は訪問客が多い。 しかし実のところ、言われたような来客は殆どなく、休日は二人でゆったり過ごすのが日課となっていた。嵐が前日から用意しておいた来客用の茶菓子をおやつに食べる。その長閑な時間が八俣は気に入っている。 二人は縁側で碁を打っていた。 彼女はこの家に来るまで碁に興味はなかったが、主が無理矢理相手をさせてから急に嵌っている。彼に指導を受けつつ打っているが、八俣の見たところかなり筋がよい。話をきくと普段から本や新聞を読んで考えているのだという。好きこそものの、という平凡な諺を思いながら、小さな棋士の成長を楽しみにしていた。 玄関のほうから、変わった音が聞こえたような気がした。戸を叩くにしては、あまりにも弱い。しかし偶然の音にしては変な音だ。 始めは、風か何かかと思い気にとめなかった。 だが風にしては、同じことが何度も繰り返されている。嵐は顔をあげて主の表情を盗み取ると、顎に手を当ててなにやら必死に考えこんでいるようだった。打つのは自分の番なのに、おかしい。 「旦那様。 ……ええと、お客様が来てますかね?」 「来ているわ。ただ客かどうかはわからないけど」 この旦那様は家の門に人が入ると気配だけで察知できるという。 往々にして人の常識外のことをやってのける人だとは思っているが、嵐はそれについては半信半疑であった。が、わざわざ問い詰めても揶揄われるのは目に見えているので、表面上は納得したことにしている。 人がいるかどうかは勿論、その人物が男女か老人か配達員か警官かまで全て分かってしまうので、信じ難いのだ。言葉を悪くして言えば、胡散臭いのだ。自分が知らない方法で玄関の人間を見ることの出来る装置や機械の一つや二つ、仕掛けて独り笑壷に入るような主人だ。 それはともかく、彼が居ると言うのだから居るのだろう。 嵐がさっと立ち上がると、八俣は手で制止した。 「出なくていいわ。それに、嵐の手」 「客と応じるのは……仕事だと思うんですが」 「だから。客じゃないと言っているでしょう」 八俣は彼女を残して部屋を出て行く。 そこまで言われては仕方なく、嵐は再び顎に手をつきながら思考を始めた。今のところ、碁盤の上ではセキがかなり置去りにされている。どちらかが一子入れたら相手に取られてしまうため、お互い手が出せなくなっている形のはずなのに、だいたい最後には取られてしまう。多く奪ってやろうと気負ってしまうのがいけないのだとは指摘されたが、その気持ちが抑えられるならば初めから困らないと不満に思う。玄関の方からは揉めているような声は聞こえなかったので、彼女は完全に思考の渦に入り込んでしまった。 ****** 白い軍服を着ていないのは珍しいな、と八俣は来客を前にして思った。彼女は新兵の頃に着ていた緑色の軍服を着ている。 珍しいという点は一つではない。 天上天下唯我独尊を地で行く彼女が、八俣家の扉をノックして、その上手土産まで持っていたのである。せっかくの日曜日なのに、今日は雨が降るな。まあ、ここのところ関東では雨が降ってなかったので丁度良いだろうと逆に納得する。 「で。何?」 「あー……あの、な。 嵐殿の連絡先を教えて頂きたい」 「駄目」 やおらきっぱり言い切った。 零武隊の警察に押し付ける仕事だけでも頭が痛いのに、うちの可愛い清純乙女な家政婦にその毒牙がかからないようにするのは主人として当たり前の行動である。 蘭もその反応は予想していたのだろう、ずずいっと手土産を差し出した。 最近流行している西洋菓子店のチョコレートだ。この一箱でもかなりの値段だったと記憶している。値段もさることながら、入手すること自体が難しいのだという話も芋づる式に思い出した。 「つまらない物だとは思わないが……これで折れてくれ」 「こんなお菓子であたしが動くと思ったわけ?」 が、一笑に伏してとりあわない。 彼女はむっとしたことを隠しもせずに口をへの字に曲げて男を睨み付ける。 「教えろ」 交渉が出来ないとわかれば、すぐに命令に転ずる。 これが並みの人間ならばその威圧感に押されて為すがままだろうが、生憎彼は並みでもなければ人間かどうかも疑わしい。 「零武隊からの命令じゃないんでしょう? ま、たとえ軍部直々のご命令だって嫌ね」 「連絡先を言うくらい問題ないだろうがっっ!」 「ちょっと静かにして下さるぅ? あんたの家と違ってご近所がうるさいのよ。 それにどーせ嵐に厄介ごと頼むんでしょう? 天下の警視総監が、一般人の、しかもあんな可愛い子を嫌な目に巻き込む手伝いなんてできるわけないじゃない。 零武隊の面倒事ならお前の部下を使えばいいだろ。……一般人が零武隊に関わって、何か利益があるとでも思うのか? お前は」 図星を指されて、軍人の顔が奇妙に翳った。 蘭としても、このオカマで食えない警視総監に厄介ごとを押し付けるのは小気味がいいのだが、彼の付き人たる家政婦の気持ちの良い娘に面倒なことを押し付けるのは、気が引けるというのも事実だ。 自分の職務に、嵐を引き擦り込めば迷惑がかかる。 その微妙に引け腰になっている点を、八俣は見事についた。 彼女の中でぐらぐらと感情が動く。勝負あったとばかりににんまりと笑う男の目の前で、差し出したチョコレートの箱を戻し、両手に抱きしめた。 やはり、やはりまずいか。しかし今はどうしても限界なのだ……。 「やはり日明殿でしたか。 お茶を用意しましたから、上がりませんか?」 その言葉に、吃驚して、二人は同時に顔を上げた。 八俣の後ろに人影がある。 妖怪みたいな警視総監と陸軍軍人に気配を一切気づかれることなく、話の中心たる嵐がそこに居たのだ。 「嵐っ」 「嵐殿っ」 一人は怒りをこめて、一人は喜びに浮かれて彼女の名前を呼ぶ。過剰すぎる二人の反応に今度は嵐の方が驚いた。 「どうしてお茶なんか用意するのよ〜っ。 客じゃないっていったでしょうにっ!」 「ええと……なんだかお話が長くなっていたようなので。それに私の手が終わりましたから」 「優秀な家政婦じゃないか。 主人より客に対する心得がある」 蘭は嬉しそうに軍靴を脱ぎながら茶化す。 「不法侵入者に茶を出すのが客への心得かしら。 靴を履いてとっととお帰りっ」 いきなり立場が逆転して、苦虫を噛み潰したような顔をして男が吼えた。 「断る。 私は嵐殿に話があってきたのだ。彼女に招き入れられた以上、お前の指図は受けん」 |
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