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「……そういえば、魚屋の店主に名前を覚えられてしまいましたよ」 「良かったじゃない。 これからはきっと高いものばかり売りつけられるわよ」 毎日一円以上のお料理になるわー。稼がなきゃねー。 と、彼女が買えないことを分かりっていながら八雲は揶揄する。 安上がりで美味しい料理を作ってしまう技術は評価するが、時には一緒に豪華なものを食べたい、と思う。板前を呼んだり外に一緒に食べたりしてもいいのだが、それはきっと彼女が頷かないだろう。 良くも悪くも芯の通った女性なのだ。 「買いません。 それと、覚えられた理由が違います。 先日の運動会です」 「まあ、最終ランナーで逆転ゴール、優勝というのは確かに凄いわね」 「……それも違います」 呻くような声で、少女が再度否定する。 「あら。じゃあ何でかしら? 名前覚えられた理由。 不思議ね〜」 まだるっこしい主人の口調に、彼女はようやく頓悟する。 わざとだっ! わざと後から来てわざと大声で呼んだんだ。 ―――と、嵐が心の中で絶叫していることは、一メートルも離れていないところで鯛めしを美味しそうに食べている男には手に取るようにわかった。 揶揄いがいのある子よね……。 と、小骨を器用に口から出しながら思った。 「……運動会に来る予定があったんでしたら、先におっしゃって下さい」 「偶然通りがかったんだもの。 知らなかったわぁ〜。こんな小さな町の中で町営運動会が開催されていて、そこに小さなうちの可愛いお手伝いさんが参加しているなんて」 「人数あわせに呼ばれただけです」 「でも、知らなかったんですもの。 うちの可愛いお手伝いさんが、教えてくれなかったし」 言って、椀を啜る。 漬物を二三個口に頬って無言で咀嚼する。その様子を左側から伺いながら、同じように漬物をつまんだ。鯛めしの出来は確かに立派なもので、自分でも久しぶりに作った割には上手に出来たと思っている。鯛がとても大きかったので、土鍋から尻尾がはみ出していた。 ……のわりに。 どうにも、空気が重い。折角の一円の食材を前にしてこんな雰囲気になるのは、流石に耐えられなかった。 嵐はある瞬間、意を決して箸を置く。主の方へ向き直ると、彼女の行動を興味深そうに眺める男の姿がそこにあった。どうやら、相手はもっと前から彼女を見ていたらしく、嵐が何らか決心したのを見取って薄く微笑んでいる。 「誘われたのは当日の朝ですから、お知らせする暇がなかっただけです。 ……来年は旦那様もどうですか、って。お魚屋さんが」 「あら? 殊勝にも言い訳かしら。ようやく」 「言い訳のつもりはありませんが。 何がそんなに拗ねる理由なのですか?」 低い声で尋ねると、男の手がぎしっと止まる。 噴出さなかっただけ幾らかマシだ。 通常人ならばこの警視総監に対して遠慮がちに言うものだが、どうにも彼女は違う。こういうときは前置きなく、単刀直入に切り出す。 面白くない、と思っていたのは事実だ。 名前を大声で呼んだり、わざとオカマ言葉にして目立ったりしたのも、故意あっての行動だ。 だがそこまで大人気ない行動を彼女の前で取った覚えはない。 「拗ねるわけないでしょ。生意気ね」 「…………はあ」 冷たい視線を強張らせた男の顔に注ぎながら、生返事を返す。絶対信じていない。 と、その瞬間。 前触れもなにもなく、嵐の記憶回路に一本の電光が走った。 「あ。呼ばれたとき、一度無視したからですか」 嵐が魚屋の店主と話していたときに後ろから八俣に名前を呼ばれたのだが、他人の振りを決め込んだ。その後から嫌がらせをするようになったと思う。 あまりにもタイミングよく思い出したので、それをネタに文句の一つでも言ってやろうと考えていた八俣は逆に気勢を殺がれてしまう。 「主人を無視するなんてかなりいい度胸してると思わない?」 「時と場合によってはそういうこともあります」 「……可愛げないわねー。 まあ今回のことは、この美味しい鯛めしに免じて許してあげるわよ」 別に許してもらわなくてよい、と言わんばかりの冷たい視線が返ってきたので、はあとため息をついた。 嵐のいつもどおりの無表情の顔は、少し不機嫌だ。 赦してあげるといっているのだ、少しくらい感謝してほしいものである。 ―――まあ、それを求めるにはまだ幼すぎるというものか。 |
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