・・・  子猫、猫の子 1  ・・・ 


 買い物メモを片手に持ちながら道を行く姿は、すっかり商店街では有名になっていた。彼女以外がすれば危なっかしいその行為も、誰も咎めたり眉をひそめたりはしない。気配がないからだ。向かってくる人も通り過ぎる人にも邪魔にならないようにかわしながら自分のペースを乱さず歩き続ける。
「おー。嵐ちゃん、今日は鶏肉はどーだい?いいの入っているよー」
「嵐ちゃん、今日も買い物かい。
 忙しいねえ」
「よう嵐ちゃん。豆腐はどうだい? 安くしておくよ」
ここそこから名前を呼ばれて、顔を上げて軽く会釈をした。この商店街に現れるようになってから数年。決まった時間に商店街を通るので、ここら辺の店主たちとはすっかり顔馴染みだ。
 だが、名前まで覚えられてしまったのには別の原因があった。
 それは先日開かれた商店街の運動会のこと。
 少女はその小柄の身から想像出来ない程の足の速さで東組を優勝に導いたのである。それも、直前までは負けていたのにアンカーになってから大逆転という、最高のお膳立てだ。一躍ヒーローになった。
 そして、さらに、付き合いからでた運動会になぜか彼女の主人が昼頃にやってきた。
 主人は体が非常に大柄の上、顔もいい。だがそれ以上に水色の髪の毛というありえないものを持っている。
 黙っていても目に付く存在だが、これが口を開くと本当に際立つのだ。

 ―――野太い声にオカマ言葉。

 それが何度も何度も「嵐ちゃん。嵐ちゃん」と連呼したので、ぎょっとした人々は主人とその女中の娘の顔をしっかり覚えてしまった。
 魚屋に一直線に向かって、そして入ってきた品物を見る。昨日の魚も安くなっていたほうに視線が取られてしまうのを、無理やり気合を入れて修正した。昨夜直々に主人に文句を言われたのだ。

「……もうちょっと、食費を使えないのかしら」

 足りませんか? と聞き返すとぶっとほほを膨らませる。
「量の問題じゃないわ。
 節約ばかりしないで贅沢に使って欲しいんだけど」
「別に無理に切り詰めた覚えはありません。
 ですが、夕飯の要望がありましたら仰ってください。前日に言ってもらえれば、できる範囲ならなんとかしますよ」
「あら、そう。
 じゃあまず明日は高級なお刺身よ」
そういえば魚は煮付け以外出したことがなかったかもしれない。
 と、その時漸く嵐も自分の節約癖を少し自覚した。
 煮付けの場合多少古くてもなんとかなる。焼き魚は秋刀魚が安かった時期しか出した覚えがない。
「お刺身ですか。考えてなかったですね……。
 散らし寿司とかはお嫌いですか?」
「大好き」
「では明日の魚の状況見て考えます」
「一円は使いなさいよ。わかったわね」
「……考えておきます」
一円。
 どこでどう使えばそんな食材が帰るのかわからないが、主人は普段買い物などしないから市井の物価など知らないのだろうと軽く片付けた。高い食材を使えというくせに、その日の夕餉(鯖の味噌煮)は美味しい美味しいといって平らげたのだから、嵐は勿体無いなという気がしてならなかったがそれは胸の奥に閉まっておいた。
 それはともかく、約束したので、一直線に魚屋にやってきた。野菜は魚によって見繕った方がいいだろうと考えながら、普段はよく見ていない店内の奥に視線を移していく。
 二十銭くらい使えばそこそこ美味しいのが出来るのではないだろうか。どうせ一人……まあ二人分くらいだし。
 一番よく売れる品物が置いてあるところから奥に行くにつれて値段が倍倍に上がっていく。
 そして、最奥。

 半身、一円の鯛が鎮座していた。

「……くっ」
 思わず、うめき声を上げながら半歩下がってしまった。
 世の中探せば高級食材というものも転がっているらしい。
「おや嵐ちゃん。この前の運動会はありがとう。お陰で東が優勝して、もう昨日まで皆浮かれっぱなしだったよ。せっかくなら打ち上げ来てくれればよかったのに。足、速いねぇ。来年もまた頼むよ。
 ……と、何かお探しかい?」
「ええと、あの、鯛……は……」
「ああ。あれね」
と、店主は前掛けで手を拭きながら言葉を切った。
「いやぁ、懐石料理屋の主人が半分使わなくなったとかでいきなり持ってきたんだ。
 本当は一円じゃ安いくらいだけど流石に高くてねぇ……。ここで置いてもらっても売れるかどうかわからないとはいったんだ。
 珍しいだろう、一円だなんて。
 もはや飾り物みたいなものさ」
「そうですね」
条件反射で返事はしたものの、少女の頭には整理しきれない情報がぐるぐると渦を描いて回っていた。

 刺身。
 一円。
 買って来い、という主の言葉。

 そして、最終的には、ここで立ち去っては負けだ―――という摩訶不思議な結論を得た。
 理屈と理由はないが、とにかくそう感じたのだ。
 運命というよりも、主人の策謀のようなものをひしひしと感じた。勿論そこまで暇ではないだろうが、なんだかあの主人ならありそうな気がする。ふてぶてしく笑う水色髪の整った顔を思い出したら急に勇気がわいてきた。

 負けだ。立ち去ったら負けだ。―――負けたくない。
 清水舞台から飛び降りるのも良いだろう、今日くらい。ここのところ生ぬるい平凡な日常が続いていた。
 否、今日こそ飛び降りるときなのだ。

「……あの、ではお願いします」
「え? 何を」
「あの鯛を」
腹を据えてしまえば、その後は悩まない。
 一瞬理解できない店主に、きっぱりと言い切った。
 店主は鯛と嵐の顔を何度も何度も見比べてその決意が固いことを確かめると、あごに手を当てて考える素振りをする。
「ええと、月末のツケにするかい? そのくらいなら待てるけれど……」
「いえ。大丈夫です。
 あの鯛をお願いしますっ」