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雨が降っていた。 それは夕方から降り出した、夏の風物詩だった。巨大な入道雲が雷竜を引き連れて、熱された帝都に恵みの水を与えていた。滝のような雨が屋根を叩き、道場の中は物凄い音がしてそれ以外の音は殆ど聞こえない。 「私心で動くとはな。 おぬしにとってこの老いぼれがそんなに邪魔か」 そう呟く男の目の前には、白刃が光っていた。 相手は、実力では五分五分だろう。ただし年老いた分だけ男には不利だった。 「……これは命令だ」 かっかっかっ――― と。 翁は声を上げて笑った。 「まさか。あ奴らがそんなことをするものか。首輪を付けない犬を飼うものか。 儂を殺してしまったらもうどうしようもないぞ。 お前の首輪は儂が持っているのだぞ」 「だがお前の首輪も私が持っている。 そしてその首輪でくびり殺す日が来た。 主を裏切った犬は殺すより他使い用がない」 雷鳴が轟く。 音と、湿気と、熱気が空気の飽和量を上回り、息苦しい。独白に近い小声の会話は、その空気の中に霧散してしまう。 稲妻が走った。 轟音と同時に相手は走り出し、大きく振る。男は体捌きだけでそれをかわして、そのまま相手の首を狙った。 が、その動きは読まれている。 がぎん、と刃同士が触れ合う音がして、そのまま鍔迫り合いに持ち込んだ。 顔と顔が間近にあって、殺気の滾る目と目がかち合う。 「嘘を吐くな。嘘を吐くな。 帝都が儂を、儂を殺すはずがないのだ。必要なはずなのだ。儂を捨てる筈がない。儂は、丸木戸とは違う。必要だ。必要だ―――」 老いた男の必死のかすれ声が耳にとどいた。 嗚呼。 なんて、愚かな。 時代は変わるのだ。 お前が必要になったように。 ―――お前は必要なくなるのだ。 相手は身を引いて力を逸らした。 男は刀を引いて上段に構えようとするが――― 「…………命令だ」 引いたのは、罠だった。 相手はそのまま刃を滑らせる。 刀は胸を横一文字に食い込み、そして、右に引き抜けば深く深く肉の中に入り込む。骨と骨の間を縫って入った鋼は彼の心臓をいともたやすく切り裂いた。 上から振り降りてくる最期の一撃を左腕で押しとどめる。 雷撃が地に落ちる音が、した。 心臓を切り裂いたことで噴出す血。 それにかかるまいと、蹴って男の死体を遠くへ捨てる。 「私の首に首輪をつけるのは……適任が出来たのだよ」 くすりと、唇の端が引きつった。 懐から取り出した懐紙に、刃の血をすわせた。 「……終わりましたかねぇ?」 そこに、一人の男が道場の入り口から出てきた。 黒縁眼鏡に、この暑さには暑苦しいスーツを着ている。にやけた表情は、彼のトレードマークだ。 「まあな」 丸木戸教授に、日明蘭―――零武隊隊長―――はそっけなく答える。 「はらはらしましたよぉ。殺されちゃうかなぁ、やっぱいなぁーって。だってあれでしょ、一応帝都一の使い手じゃないですか。老いたとはいえねぇ」 「見てなかったくせに、よく言う。 後始末は、出来そうか?」 「まあやってみましょう。……仕事場にお戻りになりますか?」 「いや手伝おう」 いきなり雨音が、強くなったような気がした。 ふと、蘭は外を見る。 世界はまるで灰色一色に染まっているようだった。 道場の中も、道場の外も、すべてが同じ色だ。今斬った男から漏れ出ずる血ですら、紅くはない。灰色だ。 時代は変わるのだ。 私が必要になったように、私も必要なくなるのだ。 「今、特秘機関戻れば、雨に濡れるな」 「まあねぇ。この雨じゃどんな傘も意味はないでしょう。 大佐、あんまり動かんで下さい。血が飛ばれると厄介なんでね」 丸木戸は死体の傍にかがんで、丁寧に縫合を始めている。血を噴出し続ける心臓は、だんだんと弱い動きになっていた。邪魔な血は吸出し、布で拭き、壊れた臓器は元に戻す。 そうやって『普通の死体』を作り出す。 持ってきた大量の布巾に血を吸わせて、それを次々に桶に入れていく。とかく血は跡に残る、落ち着いて、丁寧に処理することが大切だ。 だから、あれは、使えるようになってくれなければ困るのだ。 私を殺せる人間は必要なのだ。帝都には不可欠なのだ。 首輪をつけた犬でなければ、飼うことは出来ないのだから。 いつまで経っても外を見ている蘭に、違和感を覚えて教授が見上げると、彼女は動かないままどこか遠くを見ていた。人を一人斬った位で感傷に浸るような心臓は持っていないはずの蘭が、どこかおかしい。 口を軽く開き、今にも一言言いだしそうな、そんな中途半端な表情だ。 薬がいりますかね―――と、教授が口を開こうとした瞬間、雷鳴が再び二人の空間に落ちた。 私が、あれを、殺せなくしたのだ。あの愚かな、愚か過ぎる失敗のせいで。驕りがあった。慢心があった。 あれだけの天賦の才を駄目にした。御国の武器となるべき者を――― 「……母親としても、軍人としても……まったく、あれに対しては失敗だらけだ」 そうか。 と、丸木戸は心の中で嘆息する。 蘭が意識をとらわれるとしたら、そうだ、天馬君のこと以外ありえないではないか。お国への忠義がすべての基準である彼女が、唯一犯した最大の失敗だ。 人の斬れない刀など、何の役にも立たないのだ。 「やり直しはいつでも効くものですよ」 へらへらと口元を笑わせながら、丸木戸が聞こえるように言う。まさか聞かれているとは思わなくて、蘭は鋭い目をして振り返った。 「本気で言っているのか?」 内臓はすべて詰め込み、無駄な血はすべて取り除いた。教授は、胸に刻まれた一文字の傷にとりかかっている。手を止めずに口を開いた。 「……まさか。 しかし、ねえ。貴女の失敗は、そんな些細なことなんですか? ただの賄賂や小さな策謀なら犯罪にして取り締まれば良い。軍を震撼させるような歴代の事件とやらは、その者の命一つ消せばいい。彼のようにただ死んで償えばいい。 死ぬことなんて、誰にでも、出来るんですよ。 だから、その命を使えば良い。 ……しかし、ねえ、日明大佐。 天馬君を使えなくするということは、命一つで済むような、生易しい損失ではないでしょう? 帝都にとってどれだけのものか、貴女はわかっているのでしょう? 使えなくしたその罪は、貴女が死ぬ程度ではどうにもならないのでしょう? ……だったらそういう言葉で希望を持つ振りをしていても罰は当たらない。 さあ、さっさと動いてくださいよ。 そこの桶に入った手拭は後で焼却処分をします。二つ隣の部屋に手拭を大量においてますから、それを持ってきて下さい」 命で償えない損失の大きさ。 それは、丸木戸が口にすると、意味深い。そういう罪人を身内に一人抱えているのだ、彼は。 彼女は一息つくと、言われた通り道場から出て行った。 |
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