・・・  大山鳴動鼠一匹 1  ・・・ 


 その事件は夜になって発覚した。
「……あれ?」
時計の針が十二時に重なるよりも数分前、独身寮の一室で毒丸は素っ頓狂な声を上げた。
 彼は就寝直前、枕の下から書物を取り出して読む習慣がある。……書物といえば聞こえがいいが、近頃発売したばかりの一番のお気に入りの女の子がいやらしいポーズをとった写真ばかりを集めた本、つまり猥本だ。寝る前ちょっと一運動をしようか、というまさにその時だった。
 開き癖までついた一番好みのページをみて、まず、動きが止まった。
 止まって、それからばたばたと別のページを捲る。
 最後までいくと再び一ページ目から同じ動きを繰り返す。
「嘘、嘘、嘘ォオッ!?」
本の始めから終わりまでを繰り返し繰り返し見て、そしてその事実を何度も何度も確認する。どれだけ見ても信じられないような、ありえないことが起きていたのだ。
 ただの気のせいだったらどれだけ良かっただろう。
 だが、それは、やはり、厳然たる事実だった。夢でも幻でもなかった。
 もはや一運動どころではなくて、この事実を理解するのにいっぱいいっぱいになるまで追い詰められた。
「毒丸、そろそろ寝んか」
あまりに騒々しいので、二段寝台の下に寝る鉄男が低い声で注意する。彼も青年が何をやっているのか当然知っていたが、静かなら見逃してやる優しさはある方だ。
 その声に、青年は弾かれたように飛び起きた。
 次の瞬間。

「俺の涼子ちゃんが殺されたぁぁぁ―――っ」

獣のような咆哮に鉄男が驚く間もなく。
 夜中にはた迷惑な声とともに、ズボンを腰まで下ろした半泣きの青年が上から降ってきたのである。



 えぐえぐと腹の上で泣きながら差し出された毒丸愛蔵の本を見て、鉄男はぽかんと口を開いてこれが人間業かと胸の中で幾度も考えた。異形の者の仕業なら納得もいくがこれは間違いなく人間の仕業なのだ。
 犯人は予想がつくし、その犯人は人間業でないことを往々にしてよく実行するのだが、それでも今回ばかりは度肝を抜かれる程の驚天動地の大事件だった。異形の者に慣れている零武隊の隊員でも、こんなことが現実に起こり得るなんて予想し得た者はいないだろう。誰が考えようか。
 毒丸の愛本――― 涼子の写真集 渚の彼女を捕まえて ―――は完全成人向けの一品だったはずだ。身も蓋もなく言ってしまえば夜のオカズで、男性が興奮を覚えるように撮られた写真のみを掲載し、乳房や局部が露出していた。法に抵触する一品だとかで毒丸が非合法に手に入れたのを激に自慢していたように覚えている。
 が。
 それが。

 半裸体から裸体の写真の中の女が、すべて服を着ていたのである!

 その服は上から描き足されたもので、それ自体は人間ができないことではない。しかし、それが全ての頁に渡ってなされていたならば話は別だ。その上、どんな暇人でもそんなことしないだろうが、この犯人は暇人ではないのだ。
 毒丸は寝台から降り、満月の明かりでは見にくかったので蝋燭に火を灯した。寮は十時以降は電気が流れない。そして、その灯りを床において畳の下や机の奥に隠していた他の本も取り出してみると、それらも一つも残すことなく細工がなされていた。
 大股を開く女性は野暮ったいスカートが加えられ、巨乳の女には唐牡丹の派手な着物を着せられている。どうしようもないくらい卑猥だった写真は墨で塗りつぶされて真っ黒だ。
 ……絵は自信があるとかおっしゃっていたが、確かにお上手だな。
 鉄男はとりあえず感心した。
 というか感心する以外どういう感情を上官に対して抱けばよいのかわからなかった。
「小説は重要な部分だけが全部墨で塗られてるよぉ
対して毒丸は、しくしくと泣きながら膝を抱えて丸くなっている。
 鉄男が正気に戻って見れば、どこにあったのだと聞きたくなるような量の本が床に山積されていた。その全てが書き換えられているらしい。本当に人間業ではない。
 どうやら他の部屋でも事件が発覚したようで、寮の中の気配が不気味に蠢いていた。突然のハプニングに動揺を隠し切れない隊員が出たのだろう。
 遠くから悲鳴のようなものまで聞こえたので、鉄男は寝台から降りて真っ暗な廊下に顔を出した。何も見えないが、勘の良い彼はおおかた予想をつけてひょいっと胸をそらして顔を戻す。
 不意に。

「ケイコちゃんがぁぁぁぁ―――っ。
 ケイコちゃんがぁぁぁぁ―――っ」
「貴様ぁぁっ。
 まだ処分をしないで隠していたなぁぁぁっ」
「うるせぇぇぇっ! 俺の心の友なんだよっ」
「心の友だとぉぉぉぉ―――っ!?
 俺を弄んだこと、死ぬまで後悔させてやるわっっ」

目と鼻の先を一陣の風が駆け抜ける。
 それが通り抜けた後は、また同じような闇が広がっていた。
 あれが何かはあまり考えたくなかったが、この廊下を足音ひとつ無く駆け抜ける技量を持つ人間は限られている。小声ではあったが声もよく聞こえた。
「南……」
一人の男の運命をとりあえずお地蔵様に祈っておいたが、神仏の力を借りてもあの男―――激―――が無事に陽の目を迎えられる可能性は低いだろう。
 金髪の上司の顔を瞼の裏に思い浮かべた。
 頭脳明晰、部下への思い遣りもあり、零武隊きってのまともな人間として高く評価されているのだが、なぜか恋愛に関しては他の隊員以上に常人離れなことを実施する。
 天は二物を与えずというが、これだけ極端なのも珍しい。
 鉄男にもわかっていた。すべてが現朗だけの所為ではなく、激も問題があるということを。
 彼は、自分の価値をまったく理解できていない。
 誰彼構わず愛想を振りまき、面倒見がよく、頼れる兄貴肌で、誰に対しても全身全霊で向き合ってくれる。人殺しを生業としながらどこか安らぎに飢えた隊員たちにとって、彼の温かさは麻薬以上にきつい毒だ。一旦覚えれば、それがない瞬間の寂しさは想像を絶するくらいに苦しい。ずっと抱き留めていたくなる。その両腕と両足を切り落として、全部の感情を自分だけに向けさせたくなる。
 ……などと虎視眈々と狙われているのに、この状況を本人が全く気づいていないようでは、現朗は始終気が気でないだろう。
 廊下に明かりがついた。
 誰かが電気を寮内に通したのだ。
 明るくなって見ると、いくつかの部屋の扉が開いて同じように同僚が顔をのぞかせていた。気配を殺していたのでこんな至近距離でも気づかなかったが。
 目が合って、そして互いに苦笑する。
「お前の部屋でも、か?」
隣室の男が鉄男に声をかけたので、ゆっくり首肯した。
「ああ。毒丸が、今、泣いておる」
「あいつ若いからなー。生死に関わる大問題なんだろ。
 しっかし先ほどの現朗殿と激殿はすごいな。明日激殿が無事に生きていればいいんだが……。
 ……と、おい。
 真殿が来たぜ」
遠くから駆け足でやってくる白い軍服が見えた。真は廊下に数人が顔を出しているのを見て、鉄男のすぐそばまで来て足を止める。
「先ほどより、この独身寮に賊が忍び込んだ形跡が発見された。
 現在、被害状況はわからない。
 各自自室の被害を把握した後、十五分後一階食堂に集まれ」
音吐朗々と声を響かせて命令した。
『はっ』
全員は一斉に敬礼し、直ぐにおのおのの部屋に引き返した。