・・・  桃3  ・・・ 


 日曜日は、秋なのに良く晴れてどこの家でも洗濯物がひらめいていた。
「おーっす」
「こんにちわー」
そして、日明家の前には、洗濯と秋晴れという清清しいイメージからは非常に遠いようなむさい男が二人も並んで立っていた。
 一人は黒い着流しを、もう一人は青い着流しを着ている。飛天坊、八俣八雲といい、日明の古くからの親友だ。
 飛天坊が珍しく京都から東京に出ているときいて、日明が無料酒を遠慮なく振舞うと二人を誘ったのである。彼としては、旅行が潰れたので代わりに遠慮なく妻を飲ませてやろうというつもりだった。
「酒だけは酒蔵並みに置いてあるのよねー」
「日明は蘭を甘やかすのだけは得意だからなー」
ぼそぼそと会話する。この家の主人の地獄耳っぷりはいやと知っている二人だ。聞かれて困る会話はとりあえずしない。
 聞こえる声で挨拶をしたのに、なかなか経っても扉は開かなかった。
 二人は顔を見合わせて、それから飛天が手をかける。
 鍵はされていない。誰もいない部屋に向かって挨拶をすると二人は靴と下駄を脱いで上がった。日明の家は昔からよく来ている。妻の部屋(寝室含む)にさえ入らなければ彼は怒ることはない。
 居間にも、誰もいなかった。
「おーい。日明ー 暴力大好きじゃじゃ馬娘ー」
飛天が野太い声を上げてみるが家の中には、気配がない。
「鬼子母神ー 悪魔ー 怪力女ー」
止める間もなく、だんだん男の言葉がひどくなっていく。普段ならばじゃじゃ馬くらいで家の主とじゃじゃ馬娘当人は登場するのだが。これだけ蘭の讒謗をしても現れないということは、本当に出かけている可能性が高い。
 ふーむ、と八俣は顎に手をあてて考えた。
「買い物かしらね……
 …………
 …………え?」
と、彼の声はそこで止まった。偶然―――いや、もはや必然か―――とうとう彼はそれを見つけたのだ。飛天もほぼ時を同じくして気がついた。
 たわわに実った大きな柿の木。
 その、太い幹の横に見慣れた者が見慣れた風景で居た。
 見慣れた、というより、懐かしいというべきか。
『…………蘭』
あまりの懐かしさに、図らずして二人の声が唱和したくらいだ。
 長髪の女性は恨みがましい目でじっと居間に居る二人を睨んでいる。
 彼女は柿の木の横で、桶を二つ持ち、一つを頭に乗せて無言で立っていた。
 実は桶の中には鉛の玉と水が入っておりかなりの重さになっている。首には二本の荒縄がかかっており、一本は『反省中』とかかれた木製の立て札とつながり、もう一本は柿の木の幹に括られていた。
 蘭の、反省スタイルだ。
 ……十年以上も前に日明と、飛天、八俣が三人で考案し、我侭で悪戯大好きの少女をこれで何度も反省させ更生させたのだ。
 二人は備え付けの下駄をはいてそこへ近寄る。
 蘭の瞳が益々険しくなった。泣いた跡がしっかり残っている赤い頬を膨らませて何かいいたそうだ。
 が、頭の上に桶があるせいでこの体勢では何もいえない。
「この年になっても反省たぁ、お前も成長がねーなー」
あきれた表情で見下ろされると、相手が彼なだけにひどく自尊心が傷つく。
 八俣と飛天は、さてどうしてやろうかと腕を組んで見つめていると、渦中の人物が庭の隅の戸からやってきた。
「あ。二人来てたのー?
 ごめんごめん。ちょっと呼ばれてさ」
玄関から直接来たのだろう、手には貰ってきた酒瓶がそのままあった。
「久しぶりだな。で。また何やらかしたんだこいつ?」
挨拶もそこそこに飛天は蘭をちらりと見る。
「せっかく桃を一箱取り寄せていたのに、自分だけで食べちゃったんだよ。皆で食べようと思ってたのにさ。滅多に手に入らない、良い品だったのにさ」
「桃? 俺は酒のほうが好きだぜ」
「それって、こいつのために用意してたやつでしょ? 別にいいじゃない」
それもそうだけどさー
 口を尖らせて日明がぼやく。
「食べたこと隠そうとするわ、新しい桃買ってきてごまかすわ、注意してやろうと思ったら雨戸蹴って逃げ出すわ。
 ばれなきゃいいって根性がいけないと思うんだよね。素直に言えば少しは大目に見ても良いんだけど」
成る程、蘭の目の下には隈が見える。深夜になって彼とやりあったのだろう。

『……お前が怖いから仕方がねーだろが』

二人は再び、唱和する。
 はいはい、といって日明は荷物を縁側に置きに行く。友人二人はどことなく蘭に甘い―――と、彼は思っているが、それはひどい誤解だ。
 日明はもどってきて、蘭の目の前に立った。
「反省した?」
彼女はゆっくり瞬きをする。
 それは、肯定の合図だ。
 頭の桶とり水を周りに捨てる。それから両腕の桶もとって同じことをした。ごろんごろんと鉛を一つの桶に入れると底が抜けるので一つ一つ丁寧に縁側へ運んだ。飛天は後ろに回って首から縄を外し、八俣は柿の木から縄を解いた。
 両腕が自由になると、蘭はごしごしと目の周りを拭く。拭きながら、また嗚咽が漏れてきた。
 こんな恥ずかしいところを、この二人に見られた。それが悔しい。おそらく意地悪な夫のことだ。わざと二人を呼んだのだ(正解)。
 いくらお仕置きとはいえ、たかだか桃を食べてしまったくらいでそこまで酷いことをしなくてもいいではないか。
 それに…………一緒に桃を食べたいから新しく買ってきたのだ。別に隠そうと思ってやったことではない。隠せたらいいなとも思ったが、隠せなかったら言うつもりだった。でも少し怖くて、言いそびれてしまっただけだ。
 軽く事実を修正しながら考えていくと、日明がまるで、無法のわからず屋の暴力亭主に思えてくる(正解)。考えが悪い方悪い方へ転がってしまって、涙が止まらなかった。
「ん……っぐす……」
「お風呂入っているから、泥を落としておいで」
日明が背中を叩いてあやしてやるが、彼女の興奮は収まりそうにない。
「おーい日明蘭。
 旨い鯖寿司買ってきてやったぞ」
「そして。鯖寿司にあうようなおかずも見繕ってきたわよ。
 さっさと涙拭いてきてお昼にしましょ」
ぽんぽん、と二人は彼女の背中を叩き、それから家へ戻っていく。
 ぐずぐずと鼻をすすり、蘭は顔をあげた。その目は涙で真っ赤だが、いつもの光が戻っている。
 夫を押しのけると、家に入っていってしまった。
 日明は一人になって柿を見上げる。
 一旦心を落ち着けて、そして、家の中へ静かに戻ってくる。
 またかよ。と、思いながら二人はうんざりとしてその顔を見上げた。笑顔、そして、一応殺気はない。……一応。

「お前ら蘭さんに気があるかよ?」

 彼の目が開眼した。
 据わった目で睨まれた二人は。
『あるわけねーだろが』
とりあえず恒例の毎度のやり取りをしてから、三人は酒を酌み交わした。