・・・  桃1  ・・・ 


 日明家に桃が届いた。
「……山梨の、齋藤さんではないか」
蘭は箱を受けとった瞬間にその中身を思い浮かべて笑みがこぼれた。
 齋藤さんというのは、夫の知り合いだが会ったことはない。ただ、お中元にいつも桃を寄越すのでいつのまにか名前を覚えてしまったのだ。
 そう、桃は蘭の一番の好物なのである。
 八百屋の配達人がいなくなると、扉を閉めずに木箱を素手で開けた。
「おおっ」
桃、桃、桃。
 予想通りの果実が籾に包まれてつつましく鎮座している。蓋を取るだけで甘い香りが玄関中に漂って、ごくり、と唾を飲んだ。白桃はあまり取れないし運搬も難しいので滅多に見れる品ではない。早速今年の出来栄えを賞味してやろうと、蘭は二個取り出して歌を口ずさみながら居間へ向かった。
 日明は急に入った仕事で出ていた。
 その予想外の仕事が軍議で決まったとき、彼女は表情こそ変えなかったがかなりがっかりした。軍人として失格だと自分を何度も叱咤したが、感情を抑えることができなかった。
 二人は、両方の休日が三日連続で重なっていたのを利用して、新婚旅行の代わりに遠出をする予定を立てていたのである。ところがよりによってその丁度真ん中の日に、彼の仕事が入ってしまった。
「まあ。
 桃が届いたならば、行かなくてもよかったかもな」
現金な態度でむしゃむしゃと食べる。愛用の小刀(人殺兼用)で皮に切り目をつけ、その端をひっぱれば白い果肉が表れる。そこに歯をたてると同時に口の中に甘い果汁が零れ落ちてきた。
 果汁が滴る程の完熟した柔らかな果肉は、予想以上に甘かった。生涯こんなに旨い桃は食べたことがない。持ってきた二個はすぐに食べ終わってしまって、足取り軽く玄関に戻ってきた。
「本当に旨いなぁ」
箱一つあるのがわかっていると、気兼ねなく食べられるのがいいところだ。
 顔も知らぬ齋藤さんと夫とに感謝をしながら、同じように縁側で堪能した。新たに持ってきた二個もすぐに腹の中に納まってしまったので、次は三個もとってきた。



 和やかで幸せな時間が終わりを告げたのは、桃を四回目に取りに戻ってきたときのことだった。
 手を突っ込んで最後にもうひとつ食べようと探っていたが、籾殻の中からいくらやっても発見できない。おかしいな、と思い少し遠くから見ると、箱が去年のそれとは幾分形が違うように感じられた。よくよく見ると、箱がかなり小さくなっている。
 自分でも血の気が引くのがわかった。
 籾殻を無視してひっくりかえしてみると、なんと、桃がない。ひとつもない。
 青ざめながら籾殻の山を掻き分けると、封筒が一通だけ現れた。悪いとすら思わず手紙の封を切る。

  『日明様
     いつも大変お世話になっております。
     今年の、うちで取れた最高の桃をお送り致します。
     甘さは絶品です。ご賞味くださいませ。
                       齋藤』

 ……少なすぎるわっ。
 床に手紙をたたきつけると、ぺし、とメンコのようなよい音がした。
 生唾を飲んで、彼女は食べてしまった量を両手で勘定した。倍の個数は入っていると思っていたのに。いつもならばそのくらい入っていたのに。
 実際、その箱には、通年の量の半分以下しかはいっていなかった。
 しかし、今更どんなに言い訳を並べても、どうしようもない。わざとではないが、届いたお中元を全て食べてしまったのは事実だ。
 仮に、正直に言ったらどうなるだろう。

 「全部食べたって…………全部食べた?」

絶対叱られるっ!
 何度頭でシュミレーションしても浮かぶのは怒った夫の顔だけだ。
 その顔を思い出すだけで全身に震えが襲ってきて、我知らず身を両腕で抱きしめていた。
 夫が怒ると怖いのは、本能に嫌というほど刷り込まされている。子供のころからずっとずっと、親よりも兄よりも教師よりも誰よりも一番彼女を叱ってきた。彼に叱られるくらいならば、元帥や参謀本部の会議で叱られるほうが全然ましだ。殴られて話が済むなら二十回までなら殴られてもいい。
 どうにかしなければ……。
 隠せる手段はないかと必死に考える。既に、彼女の頭から正直に話して謝罪するという選択肢はない。事件を零にするのは得意中の得意だ。
「そうだ。別の桃で、補充すれば……っ!」
銀座の有名な果物屋に最後の望みをかけて、蘭は走りだした。