・・・  桃2  ・・・ 


 時計の針が十二時を回る前に帰ってきたのに、家は暗く静かだった。
「あーあ。
 やっぱ不貞寝しちゃった」
困ったなーと呟きながら日明は鍵をさしこむ。これでも何とか今日中に無理して帰ってきたのだが、やはり旅行にいけなかったショックは大きいのだろう。
 妻と仕事を天秤にかければ天秤が折れる勢いで妻のほうへ傾くほどの仕事に不熱心な彼が、この仕事を請けたのには理由があった。蘭の目の前で任命されたからだ。自分との旅行のために仕事を蹴るという暴挙は彼が良くても蘭が気にするので、断るわけにはいかなかったのだ。
 ……それを見越してあそこで命令しやがったな。雄山め。
 髭と眉が印象的な老翁を思い出しながら胸中毒づく。一見清廉潔白そうな印象を与える男だが、やはり参謀という地位にあるだけのことはあって腹の中はそこそこに黒い。それは日明が他人に言えた義理ではないのだが。
 そしてもう一つ、彼には秘策があった。
 蘭が好きな桃が届くと、農園から連絡があったのだ。
 懇意にしている齋藤農園から毎年注文していて、なんと今年は、その農園で百箱もとれないという幻のセットを運良く頼むことが出来た。
 妻はそのお中元が届くのがとても楽しみで、いつも秋になると「斉藤さんはまだか?」と可愛らしく訊いてくる。幻の百箱の桃にはどんな反応をするのか、想像するだけでも口元が緩んでしまう。
 鍵をしまい、静かに扉を開けた。
 真っ暗闇の玄関に、木箱があった。
「あ。来てた」
と―――彼は―――言ったまま口が止まった。
 箱には開いた形跡がある。開いていること自体は問題ではないが、開いた箱をわざわざ玄関においておくのは非常に不自然だ。しかも箱の中には『頼んだ数の桃』がきちんと納まっている。

 あの妻が、自分の大好きな果実を目の前に一つも味見しないということがありうるだろうか。

 嫌な予感を抑えながら、一つ持ち上げた。
 夜目が利く。注意してみなくても、それが今までにないくらい低級の出来であることはすぐにわかった。籾殻で包まれているはずなのに、色々当たった形跡が残っている。
「……………………蘭さん」
ぼそり、と呟いた。
 ばん。
 どこかの雨戸が破られる音が聞こえる。
 日明は家の中を駆け上がり、僅かに聞こえる音だけで正確に場所を特定して逃亡者を追いかける。雨戸の音以外は一切しないのに、それでも彼は正確に位置がつかめた。
 蘭は自室の雨戸を蹴破って、庭の塀を一足飛びで飛び越える。数秒してまったく同じところを人影が通った。
 月の清かな夜、二つの影はどんどん間が縮まっていく。
 必死に腕を振って逃げた。
 あの膨れ上がった殺気、間違いなく小細工に気がついたものだ。
 何故気づいたのかは分からなかったが、考える前に身体が動いていた。逃げるとますます立場を悪くするのは分かっているのだが、そうといって足を止める気は起きない。

 怖い、怖い、怖いっ!

 寝巻き姿のまま髪を振り乱し、不審者そのものだ。この町は旧家の家が多いので人に会うことはなかったのが救いだった。
 帝都の地図を思い浮かべながら、足に任せるままに走った。人通りのない、そんな道だけを選んだ。
 神社の横を通り抜け、太い松ノ木を曲がり、坂を避けて左に入る―――

 ざざざっ

 いきなり、十字路から人が飛び出してきた。月は一瞬その人物の顔を照らすと、すぐに曇ってしまう。
 日明、その人だ。
 蘭の行く先を予測して先回りをしたらしい。どうやって、などと考える間もなく、彼女は鞘から刀を抜いていた。
 八双に構え、間合いをとる。月は彼女には味方しなかった。真っ暗闇になると日明の方が何倍も有利だ。彼は完全に己の気配を操れる。気配を完全に消すことはできないが、気配を蘭の周囲一帯に充満させることはできる。
 位取りされて動けなくなる前に、心を落ち着かせなければならない。心を細くして神経を尖らせた。一方日明は、どこからでもかかってくるような、そんな重い殺気を充満させている。
 ……一撃決めれば、逃げられる。
 雲がわずかに薄くなった。
「はぁぁぁ―――っ!」
蘭が把握していたところよりも遠いところに彼はいた。刀はない。素手だ。それでも感情を緩めるような馬鹿な真似はなしない。
 上段から振り下ろすが、難なくよけられる。否、避けることを前提にした。
 狙いは二撃目―――
 手首を返して顔を狙って刀を走らせた。
 日明は跳躍して後ろに下がる。そこからは蘭は連続で切りかかった。日明が一瞬でも怯めばすぐに逃げ出すつもりだ。
 が。
 彼はある瞬間、後ろに下がらず、前に出た。
「なっ!」
上から振り下ろされる剣を半身を動かしてかわしさっと割り込む。夫の顔が目の前に迫った。
 彼はそこから大きな予備動作もなく腹にこぶしを打ち込んだ。
 軽い体はそれで一瞬中に浮かぶ。
「ぐっ」
それでも刀を手からはずさないのは、蘭がかなり鍛えられているからだ。
 ぎりぎり二本足で立っている状態で、敵をにらみつける。
 体制を立て直す前に男は足を振り上げた。
 そして。

 ばきっ

「……っ!」
その、自慢の得物を、ただの一発の蹴りで打ち砕く。
 彼女の戦闘意欲をそぐためだけに。
 蘭の顔は恐怖で固まり。
 対して、日明の顔は愉悦でゆがむ。
 折れた刀の半身は、地面に突き刺さった。
「さあ。おいで」
ぺろりと口の端をなめるのは、挑発ではなく彼が乗っている証拠だ。
 短くなった刀を投げるが、それは片手で振り払われる。一歩一歩、ゆっくりと近づいてきた。
 ……肉弾戦は不利だ
 それは痛いほどわかっているが、どうしようもない。出せる限りの力で何とかする以外手段がない。日明は蹴り技が得意だ。蹴るためには必ず呼び動作として足を上げる瞬間が必要になる。
 その間を与えないようにすれば……
 次の作戦を必死に考えていると。
 男は、折れて地面に突き刺さった刃を軽く蹴った。
 刃は一直線に彼女を襲う。男の動きばかりに集中していた蘭に、その一撃はよく効いた。
「くっ!」
全身を使ってかわす。その間に日明は一気に間合いをつけて、彼女の細い腰に右から蹴りをいれた。
 防御が遅れて、転倒しながら壁にぶち当たる。
 顔を上げたとき、もはやすべての反撃の可能性を失った。得物はない。体は痛い。目の前には彼が来ていて、彼女を見下ろしていた。 
 月が雲のわれ間から顔をのぞかせた。
 月光を背に負って、男の顔は逆光で見えない。
 逆に男からは彼女の表情の隅々がよく見えた。

「……俺から、逃げたいの?」

首を横に振る。
 それは心情とは正反対ではあったが、嘘も方便である。ここで頷きでもしたらそれこそ何をされるか分かったものではない。
 少ししてから、太い腕を伸ばした。
「ひ、ひあ……」
腕は彼女の身体に絡み、そして、ぎゅっと抱きしめる。理由が分からず蘭はそのままじっと動かなかった。
 心音が伝わってきた。
 日明の心臓は平穏そのものといった程度だ。対して蘭は、まるで早鐘のように鳴っている。
 姫抱きにされて、余計に心臓が跳ね上がった。
「……そんなに緊張しないで。いつもしているだろう?」
くすりと、間近で微笑む。彼女は眉をしかめて、照れ隠しに横を向いた。
「反省してないみたいだから、しっかり叱るからね」
びくっと緊張するのが腕から良く伝わる。
 今日は寝れないなぁーとのんきな声で呟きながら、裸足の女を抱いて来た道をゆっくり戻った。