オマケ
 ・・・  唖然呆然1  ・・・ 

 まさか。
 と、小さく教授が呟いたのが、蘭に聞こえた。
 燦燦と太陽が振り込む昼休みの医務室。上半身裸体の彼女と丸木戸は向かい合って座っていた。朝からどことなく体調がおかしかったので、論文を読んで暇な(と見えたのは勿論彼女だけであって、実際は仕事中の)丸木戸を呼びつけ、診察を依頼したのである。
 診療はいつもの嫌味から始まった。
「鬼の霍乱ですか〜」
「無駄な前置きをしていると給料下げるぞ。
 後十五分で会議だ。さっさと済ませろ」
「はいはいはいはい。じゃ、上を脱いで下さいね」
聴診器を取りながら初めは笑っていたが、次第に、丸木戸の笑みが消えた。真剣に、注意深く耳を傾けている。
 初めて見る表情だった。破傷風で四十二度を越えていた時だって笑っていたこの男がこんな顔を出来るのかと驚く反面心配になる。
 不安が募ったところに『まさか』という一言が聞こえて、さすがに耐え切れなくなった。
「何か、問題があるのか?」
「…………」
教授は何か言いたそうに目を上げて、それから聴診器をはずした。聴診中は話さないのが鉄則だ。
 答えを期待して待っていると、無言のまま眼鏡を取り、上を向きながらぐっと目の間を押さえた。
「いや、ええとちょっと待ってくださいね。うーん。待った。待て。世界よとまれ。今のは見てなかった。そうだな、うん。そうだ。見てない。見えない。聞こえない。そうだな、俺……はい、そうです」
 なんだその反応は……
 蘭は訝る。丸木戸の許容性は異様に広く、どんな可能性も捨てない。でなければ零武隊の異常な状態についていけるわけがない。ぬらりひょんやのっぺらぼうを見てもちっとも驚かないどころか、挨拶と名刺交換までした男だ。が、その彼が目の前の状況を拒否しようと躍起になっている。
 たっぷり一分以上経ってから、眼鏡をかけ向き直った。
「結論は少し待ってください。
 もう一度聴診した後、触診と問診をお願いしますね」
言って、再び聴診器をつける。その頃には胡散臭い笑顔が戻っていた。
 あーだのうーだの意味不明に呻きながら聴診を終えると、手袋をとった。白い、引き締まった腹部に手を伸ばす。手の冷たさに体が震えるが、丸木戸は気にしない。優しく、円を描くように動かした。
 女性特有の肌理の細かい肌。筋肉と内臓、脂肪の微妙なバランスで構成された組織から、伝わる大きな二つの振動。一つは内臓の動きだ。それはいい。だが―――。
 手が離れた。
「なんだ?」
「問診」
結論を急ぐ言葉をさえぎって、上着を渡す。むすっとした顔で軍服に袖を通した。その脅しには屈しない。ペンを右手に、カルテを持ち上げ、居住まいを正した蘭に向き直った。
 誤診がまずいというよりは、むしろ、問診中に気づいてもらいたいのだ。その恐ろしい結論に。
「さてと。
 ここ最近体調の変化はありませんでしたか? 具体的にお願いしますよ」
「ない」
即答すると、がくりと丸木戸が肩を落とすのが見える。
 少しは考えろよということだろうが、蘭としては、それは丸木戸の仕事である。
 あったらとっくに言っている。
「簡単なことでいいんですよ。なんでもね。
 服がきつくなったりとか、朝がだるいとか、吐き気があるとか、食欲があるとか、体が重くなったとか……。
 なんでもいいですから」
ふむ、と蘭は口に手をあてて、二秒ほど沈黙する。
「別に」
「あるでしょっ!? ないってこたぁないでしょっ!」
 ないでしょ……って。
 不穏な空気を感じ取り、さっと丸木戸は質問を変える。こつこつとペンの後ろでカルテを叩いて仕切り直した。
「じゃ、じゃあ、そうだな。
 数ヶ月前、何か酸っぱいものとか欲しくなったり、精神的に不安定になったりしませんでしたか?」
「梅干は普段から好きだ。
 別段不安定になった覚えは無いが、それは私より君のほうが知っているのではないか?」
「そーですねー。普通に切れてましたね。普通に。別に格別にキレまくったとか、なかったですね。
 あああああ……。
 なんでだよっ。畜生。本当に何もなかったよっ」
「早く結論を言え」
「問診中です」
蹴り殺すぞ、と、蘭は口の中で聞こえるように独り言を言う。
 教授は脅しは黙殺して思いつく限りの質問をした。しかし彼の期待に反して、彼女の答えは全て予想と異なったものだ。もっと考えろ、と思ったが口に出すのは一生懸命自制した。
 いつもならばわかっていた。この上官に問診ほど無益なことはない。
 彼女は通常時でもアドレナリンの放出量の異常値をたたき出す。兆候がないなど聞いたことはないが、仕事や襲撃のせいで気づかないということはよくあるのだ。だから彼が体調を管理しているのだ。
「……もう少し御自分のことに気を配って下さい。頼みますから」
十以上の質問を繰り返した後、半泣き状態の丸木戸が呟くと、
「それは君の仕事だ」
と切り返す。反省などかけらもない。
 あーそうですね。すみませんでした。
 気持ちの入ってない言葉で淡々と返しながら考え込んだ。
 何故ここまでいってこの人は気づかないのだろうか。

 質問の意味が、理由が……わからないわけないだろう? わざとじゃないのか。わざと俺をからかっているのか?

 しかし相手の表情を伺うと、どう見てもわかってはぐらかしているようには見えない。むしろ藪医師への不平がたっぷり伝わってくる。
 しょうがない、と丸木戸は生唾を飲んで決心した。わからせるにはこのくらいはっきり言ったほうがいい。
「じゃあ……問答無用が問答無用たる所以の身も蓋ももないダイレクトな直截型で尋ねますが。尋ねちゃったりしますが。
 …………………………。
 生理は、きていますか?」
しかし、蘭は彼の想像の限界を超えていた。

「ああ。程よく」

「嘘つけぇぇぇぇ―――!」

あまりの答えに椅子を蹴って絶叫する。
 が、彼女はその顎をクリティカルヒットに蹴り上げた。
 へぶっと声をあげながら後ろにひっくり返る。慣れているのですぐに床にはいつくばったまま顔を上げた。
 皺のよった眉間、不機嫌そのものといったへの字に曲げられた口元。剣呑な空気を撒き散らしている。椅子から荒々しく立ち上がった。
「体調は悪くないんだな? それならもういい」
すくっと伸びるその足を、丸木戸は慌てて掴む。再び蹴られる恐れが高いが、今はそうする他無い。
「ち、ちょっと待って下さい。
 今までの質問から想像つくでしょっ!
 座って……座って下さいよっ」
「貴様に付き合う程暇ではない」
足に人一人つけたままでも普通に動いて、外に出ようとする。
 もう婉曲的に言っても仕方ない。

「妊娠ですっ」

 二歩目の足が出て、そのまま止まった。
 嫌な間だった。
 丸木戸は恐る恐る手を離したが、動く気配は無い。立ち上がって埃をはたいてから改めて言い直した。
「妊娠しています。
 ……専門外ですが、間違いありません。誤診はありえません。誓ってもいい」
「そ、そうか。
 あー。わかった。今度、産婦人科に行っておこう」
「いや、それが、ちょっとそうもいきません。
 胎動が随分激しい。良くて五ヶ月……ですが……多分見た感じ七ヶ月」
 自分の腹に目を移す。
 あまり変わったとは思えない。
「まずいのか? それ」
と、ごく自然に尋ねたつもりだったが、丸木戸は顎をはずすくらい驚いた。
「あ、あ、あたりまえですよっ! 下手な動きしたらマジで流産しますからっ。
 八ヶ月から生まれる可能性があるんです。奇跡ですよ、ここまで何もなかったのがっ。
 今みたいな蹴りは絶対駄目っ。刀振るのも駄目っ。重いものもったり、腹に力こめたり、とにかく激しい運動してはいけませんっ」
「君を蹴るのはさほど激しくはないのだが……」
ぶちぶち文句をたれるが教授の迫力に促されて、静かにもとの椅子に戻った。
 どちらからともなく、深いため息が漏れる。
「あー。
 そういわれれば、なんか体が重かったな。うむ。食欲があったような気もする。服も確かに少しきついかもしれない」
「普通……気づきませんか?」
「いや。成長期だと思った」
「どこまで成長するつもりですかあんた」
蘭の保健体育の知識は全くあてにならない。
 そもそも彼女や夫、その周囲に集まる人間どもは『平均値』という単語を小馬鹿にしたような数値ばかりたたき出す。あの重い刀を細腕でいとも簡単に振り回せること自体驚異なのだ。悪阻も気づかないなど聞いたことのない話だったが、蘭ならば納得してしまいそうになる。
 一方彼女は彼女で、一生懸命に生理のあった最終月を思い出そうとしていたが、無理だった。基本的に不定期な上そういうことは全く記憶に残らない。
「で? どうすればいい。後三分で会議に行く必要があるのだが」
「会議は……多分いいですが。
 会議の後すぐに病院行く手配しておきます。護衛をする隊員にはこのことを伝えておきますよ。刀を振るのだけは本当におやめ下さい」
「仕事にならんなぁ」
あんたの仕事は刀を振るんじゃなくて、守る方だろ。
 と、嫌味を言う気力もない。毎月一回の襲撃はもはや仕事の一部なのだ。
「変な仕事を押し付けられたら返事を延ばしてくださいね。
 くれぐれも無理をなさらないように」