・・・  依存症3  ・・・ 


 「丸木戸教授。研究熱心なのはいいがここのところ泊り込みだな」
戸口から一直線に、座る彼の元へ来る上官に、寝ぼけ眼の顔を上げてまじまじと見つめる。机に突っ伏していた涎を袖で拭いた。目の前には読みかけの書類が散らばって床まで落ちていた。慌てて拾い集めて机の隅にまとめる。
 高位の軍の研究者に与えられる専門の研究室。部屋は二十畳と結構あるのだが、薬品棚や大きなテーブルで埋まって、人が移動に使えるスペースはわずか部屋の四周だけだ。
 扉とは丁度点対称の位置に居た彼は、白い軍人が近づいてくるにつれて、緊張が、恐怖が、臓腑からせりあがってくるのを覚えた。猫に追い詰められた鼠のような感情。
 窮鼠は猫を噛むというのに、彼には牙はなく代わりに軽薄な作り物の笑顔しかなかった。
「あらら大佐ぁ? 不味い所見られたなぁ。
 珍しいですねここに来るのは。しかもこんな時間に。
 ていうかもう朝ぁ? あーあ眠っちゃった。学会の資料全部読めませんでしたよ。あれ? 今日は出かける仕事ありましたっけ。すみませんちょっと思い出せないんですけど。何の用です?」
立ち上がって敬礼する。
 蘭は言葉を無視して机を挟んで向かい側に立ち止まった。
 ふむ、と声にならない返事で聞き流し、腕を組み、その白い手を口元に当ててゆっくり撫でる。彼女が考え込むときによくとる動作だ。顎をさする硬い生地。ゆっくりと、ゆっくりと何度も何度もそこを往復する。
 苦しい。喉に圧迫感を覚えて彼は背を向けた。
 そしてその動きをごまかすように、後ろにあるカーテンに手をかけた。長いそれは、無理な方向に力をかけたので何かに引っかかって動かない。 教授は苛苛しながらぐっと引っ張った。
 しゃぁっ―――
 大きな音ともに。カーテンが一気にまとめて動いた。
 彼は眩しそうに目を瞑る。
 ……その行動はあまりにもおかしかった。
 なぜなら、まだ空は薄く明るくなった程度で僥倖が見えるわけでもなく、また室内は外並に寒かった。暖房器具がなければ研究室はよく冷える。その奇天烈な行動は、迷っていた彼女に最後の決断を促した。
 あまり光がないとわかると、丸木戸は二三度瞬いて息を整え、それから窓を開けた。透明で、青い、無垢のような空。星はない。
「なんだぁ。まだ夜明け前じゃないですか。今から仕事ですか? 汽車だって動いてませんよ」
 振り返ると、そこに白い手があった。
 見れば、いつの間にか彼女が側に来ていて。
 白い手が、口元を離れて、自分にさし伸ばされている。
 本能的に身を引く。が、窓枠があたった。二階のここの後ろは断崖絶壁。
 へらへらと笑みを浮かべた。なんですか、と尋ねるように。一分一秒でも場を持たせるように。笑みを。
 が、蘭はそんなものに一瞬でも気をひかれることはない。

 ばちん。

 強い音がした。蘭の手を丸木戸が思いっきりはたいたのだ。一瞬手は止まったが、下ろされはしなかった。
「あ、いやぁ。なんだろ。
 あはは。どうかしました。ちょっと驚いて……」
その白い手を更に伸ばされ、間合いを詰める。彼女は何も言わなかった。強い光を持つ目で、ずっと睨みつけているだけだった。
 彼は再び強く振り払い、同時に、身を返し、窓枠から体を出した。
 だが、それを彼女は許さない。丸木戸が窓から頭から落ちようとした瞬間、手套は背広の背中部分を掴んでいた。ぐっと力を込め引きずり投げる。窓枠を持っていた手も、床についていた足もいきなり支えを失い、一瞬の浮遊感を覚え、そのまま床に叩きつけられた。
 轟音。軽い男の体が跳ねる。実験道具のあげる最後の悲鳴。痛みで動けないところに、足で背中を押さえ、鞘を顔に突きつけた。

「……君ならばそれはそれはさぞ上質な薬を使っているのだろう。
 臭い。とても臭い。部屋の空気、君自身から立ち上るその匂いは私も知っているぞ。
 何故、そんなものに手を出したのだ。君は。
 それがどういうことか、わかっていないとは言わせない」

「えいやなんのことかさっぱりですが。
 暴力反対ですよぉ。あなた方と違って鍛えられてないんです。骨折れちゃったら大変なんですから。ひどいなぁ」
「言いたいことはそれだけか?」
「……え。いや、まあそうだな。要件がないならもう出て行って下さいよ。大佐とは無関係のことですから」
「部下が薬物中毒になって、関係ないとはいえないな」
はっ、と蘭が鼻で笑う。丸木戸は普段より低い声でうめいた。
「関係ないな。
 いい機会だ。俺は辞めさせてもらいますよ。それで関係ないですね。仕事のつながりも消えたらあんたに命令される覚えはない。無関係な男が薬に嵌ったら警察でも通報致しますか? 日明蘭大佐」
「御託はいい。
 何処にもっているのか素直に話してもらおう」
床の汚れが口に入って気持ちが悪いが、後ろから壮絶な力で押さえ込まれていて体を起こすことができない。ばたばたと手足でもがくと、二度も三度も背中を鞘で強く打たれて息が止まった。動かなくなった一瞬を狙って蘭は彼の上に馬乗りになる。抵抗する度に丸木戸は海老のように跳ねた。
 悲鳴が、口から漏れていた。獣の咆哮に近い、人の声とは思えぬ、あの声がまさか自分の身から聞こえようとは。亡者が鬼に向かうときに最後に上げるあの声が。
 冷静な頭の一部が恍惚とする。
 この声。亡者が無価値な存在そのものをかけて鬼に向かうときの声。鬼に屠られるのを期待してあげるその声。
 混沌とした感傷に浸っているうちに強烈な痛みが腕を走った。両腕を後ろで縛り上げられたのだろう。肩から走る激痛。涙が溢れてきた。
 亡者。
 涙が。咆哮が。声が。溢れてとまらない。
 そうか、俺は亡者だったのだ。

 ああ。それならば。
 亡者がその声をあげたならば。
 鬼は屠る。

 期待に体が震えた。自分が屠られる存在だと漸くわかった。それは嬉しいことだった。亡者。亡者。なんてことだろう。あんなに鬼の側にいて、自分のことが全く気づかなかったとは。 喉が詰まる思いがして当然だ。あれは、俺の一つなんだ。生まれてくる日々の死体は、俺の一部で、だから何も感じなくても当然なのだ。
   ……だが。望みの手はいつまでたってもこなかった。剣を抜く音も、喉に手をつけようともしなかった。彼が抵抗しなくなると、後ろ手の結び目を確認して蘭は立ち上がった。
 背中から体重が消えて、彼は迷った。困惑した。

 何故だ。何故殺さない。いつもはあっさりと殺しているのに。殺しているのに。
 鬼が。なあ、亡者がここにいるのだ。

 悲痛な心を乗せて、再び叫ぶ。先ほどよりも数倍激しく体を動かし、腹の奥から声を震わせた。喉が枯れて、音のないものになった。音がなくても必死に呼んだ。鬼をよんだ。白い鬼の手を。

 何故だ。何故。何故。
 困るのだ。困る。困る。そんなのは、困る。

 首に。白い、堅い手が触れた。
 ぴくん、と丸木戸の体が少し震えてとまった。手が、細い喉をつつみ、そして、力がこもった。

 そうだ。そうやって、躊躇いなく、澱みなく、事も無げに首の部分を……