三人宴編   
11/10/2006


 暑い夏の闇の中、満開の桜の木の下で。


 二三十畳程の広々とした桟敷のど真ん中に、太い桜が時期も空間も超越して一本聳え立っている。老木ながらもその花は見事の一言に尽きる。空気そのものの存在許容量を超えてしまうような満開の花。妖艶で、健気で、惑わせる花弁の間を、蛍が自由気侭に飛び交っていた。
 その桟敷自体は、湖の上にふわりと浮かんでいた。湖の上を通った風は夏の夜には得難い涼しさだ。
 そこは、妖の宴。
 冷たい風に身を任せて、桜の散る様を見上げながら杯を傾けていれば、その夢幻のような美しさに暑さも現も忘れることができるかもしれない。風がそよぐたびに湖面は波立ち、その上に花びらが落ちて複雑な波紋が広がった。その波紋と花の織り成す世界はひとつとして同じものがなく、見る者を魅了してやまない。
 妖にとっても贅沢過ぎる宴にもかかわらず、桟敷に座っていたのはたった三人だけだった。もっともその三人の顔ぶれを見れば他の妖は同席することを間違いなく拒んだだろうが。
 八俣大蛇 八雲。
 飛天夜叉王。
 そして―――今は人の身をもつ―――蘭子。
 二人の大妖に挟まれても、蘭子は気後れした様子もなく酒を飲みながら、時折桜を見上げていた。新月の真っ暗な世界に、蛍の明かりだけで見える桜は見事としか言い様がなかった。
 尤も彼女は、そんなモノに感動することは出来なかったが。
 どこからともなく聞こえる琴の一曲が終わったとき、始終つまらなそうな顔をしていた彼女はとうとう口を開いた。
「さて。
 もう茶番に付き合うのはこれでいいか?」
「あらひどいわね。
 あんたのために開いたんだからゆっくりして行きなさいよぅ」
「私のためならば私はいつ帰っても良いということになるよな?
 こんな無意味な場所に留まるつもりはない」
主に失礼な言葉であはったが、その無礼さが逆に二人には心地よくなってきていた。
 彼女は人として生まれ、人としての業を抱きながらも、自分たちと同じ香りを隠すことなく全身から立ち上らせている。
 ―――蘭子の前世は、二人は嫌というほど知っている。
 妖の身を捨てて、何度も何度も転生を繰り返す女。
 この世で八雲の最も憎む女。
「……折角遠くから桜を持ってきた俺を目の前によく言うな。夏に満開の桜なんてすげぇ風流だろが。ちったぁ楽しめっつーの」
彼女は上から降ってきた桜の花びらを手に取り、まじまじと見つめる。
 鞍馬の山から持ってきた桜。
 花見でもしてみたいな、と言ったのは飛天からだった。
 八俣の社に偶然居合わせた娘が「何ヶ月待つつもりだ? それとも無駄に禁酒宣言か」と言い返したら、二人は笑って「じゃあ酒と場所は用意してあげる」「桜は任せろ」といった。数分と経たぬうちに、彼女は此処に連れてこられていた。
 桜が咲き誇る下で蛍が飛び交う様は確かに幻想的だ。宴の趣向としては品があり、興もあった。
 そして八雲が用意した酒は、飛天ですら一口飲んだ瞬間に顔を変えるくらいの一品だった。こんな良い酒をどうやって……と呻いている様子を見て、水色頭の妖怪は小気味よさそうに高らかに笑った。
 彼女は始終面白くなさそうに手酌でがつがつ飲んだ。
「ま。
 風流かもしれんな」
「あーら、やけに素直じゃない」
「……飛天が選んだにしては、と言う前に言葉を挟むな。
 ったく。私はお前らみたいに無駄に時間を過ごせる体力馬鹿とは違うんだよ。時間は少ないからとっとと帰らせてもらうぞ」
「……あーあ。つまんないことを言うから宴が醒めちゃったじゃない。
 じゃ、それを頂戴」
ようやくか、と蘭子はため息をついた。酒気の帯びた息に自分がかなり飲んでしまったと知り、やばいなとわずかに焦る。八雲と飛天が作り出したこの空間はあまりに居心地が良すぎて危険だ。足を止まれば、それだけでもう動けなくなってしまうような疲労感が、いつも身の奥に潜んでいる。
 魂そのものが疲憊していた―――何万年も積み重なったそれ。それがわずかに顔を出し始めている。
 無造作に一冊の本を取り出して八雲に手渡す。
 それは閻魔大王からかっぱらってきた、『曰くつきの御霊』の行き先を書き記した帳面だった。どちらかといえば、それは大事な資料ではなかった。分類が出来ない御霊を書き連ねた、辞書でいえば『その他』の項目にあたるような雑多な資料に過ぎない。
 八雲はぱらぱらと捲り、それが本物か確かめた。
 決して人間の世では作れない素材、そして妖怪には気分の悪くなる匂い。

 ―――間違いねえ。

 この一冊のために、傍若無人でもっとも憎むべき女のために宴を催したのだ。
 霊界と妖怪は敵対関係にある。どんな妖でも手に入れることの出来なかったそれを、彼女はたった一週間で持ってきた。
 普通じゃないとは思っていたが、想像以上の働きだ。
 八雲は本を懐に入れると、満足げな表情で静かに酒を飲み始める。
「食い殺さんのか?」
蘭子はちょっと驚いたように目を瞠って尋ねてた。
 この女が、驚くなんて。
 そちらの方が二人の妖にとって驚きだった。
「妖らしくない。私は目に付いたものは全て食っていたぞ」
「……おめえは悪食だったもんな」
流石にそれはやりすぎだろ、と飛天がうめく様につっこむ。食うなとは思わないが、食材は厳重に選ぶのが普通だ。食あたりが怖いではないか。
「やめとくわ。
 あんた、旨くなさそうだし。
 それにどうせ何かしてるんでしょー?」
「まあな。
 私が死ねばその冊子の所在が閻魔に知られるように仕掛けておいた、と、それだけの話だ」
淡々と脅迫する。
 にやり、と飛天と八雲は口元を引きつらせた。
 この程度で脅迫になると思っているとは、愚かな。
 この機に少しばかり揶揄してやろう、とむくむくと悪戯心が沸き起こる。
「あら☆
 地獄に気に入られたら困っちゃう。酷い仕掛けねぇ」
「ぎゃはははは。
 面白くもねえ糞みたいな冗談だろが。
 地獄ごときてめぇが気にするかっつーの…………。知らねえのか、凶星一匹で地獄を造れるんだぜ?」
「そーね。地獄に案内されたいから食べちゃおうかしら。今すぐ」
女のシナを作って言う八雲に、即座に飛天のツッコミがきまる。少しは怯えるだろうと、二人は考えていた。
 が。
 はあ、と彼女は嘆息をついただけだった。
「…………終わる前に口を挟むな。
 ついでにお前の探し人の名前も向こうにバレるようにしておいた。私を殺したらその尋ね人が霊界から一切の資料がなくなる、というわけだな。それに括りの術者も過去消しに加わると色々厄介になるだろう」
『何ぃぃッ!?』
「人が妖と対等に取引できるわけないだろうが。
 二重三重に手を打っていて当然だろ」
何を驚くとばかりに、蘭子はうんざりとした顔つきで八雲を見た。真っ黒な瞳。―――そのくらいで驚かれると困るのだが、と目が雄弁に語っていた。
 ―――成る程、まだ仕掛けがあるのか。
 八雲は生唾を飲んで、気を入れなおす。自分が思っていた以上にこの女は普通じゃない。
 ……侮っていたのはどうやら自分の方だったらしい。
「本当に食えねえ奴だなお前」
「無駄に不老不死だから、妖が間抜け過ぎるのさ」
八雲と飛天の赤い隻眼が光った。
 人ごときに馬鹿にされた怒りが、肌から直接伝わってくる。
 普通の妖ならそれだけで狂ってしまう眼光を、彼女は二人分くらっていても全く平然としていた。手酌でなみなみと杯に注ぎ、ごくりと一気に飲み干す。恐怖を覚えることなどない。そもそも感情も理性もなければ、気が狂うこともない。
 ぺろり。
 と、飛天は舌なめずりをした。感情を沈めるために。
「どうやら人の姿はお気に入りみたいだな」
「……ククク。
 違うな。これが私の本当だ。そもそも妖だったことが間違いだったのさ。
 なぜこの世に妖と人がいるのかわかるか?」
いいや、と飛天は首を振る。
「妖は人に成るのだよ。
 生まれ変わるとか、そんなレベルの話じゃない。妖がまるまる人に代わるのだ。老いて、病で苦しみ、死ぬことができるその身になるんだ」
力強く言い切って、彼女は再び酒を呷る。
 二人はわけがわからないと顔を見合わせてから、とりあえず爆笑した。意味不明というレベルではない。どうしてそんな馬鹿らしい思想が思いつくのだ。
 蘭子は目を閉じて、口元で笑いながら二人の笑い声を心地よく聞いていた。
 彼らに理解も納得も求めてはいないのだ。
 冗談と笑われようと嘘と罵られようと構いやしない。
 飛天と八雲は笑いながら同じことを思っていた。哀れだと思っていた。
 その可能性に縋っているから、人の身で転生を繰り返していたのか。
 仏の眷属から身を隠すために人になっているとは聞いていたが、それでは理解出来ない。強い方が逃げられるし、隠れることも出来るのだ。確かに最強の一角と呼ばれる妖が出来ないことがあると認めるのには、それは良い理由だ。
「……まあ、そもそもあんたを殺すつもりはないんだけどね。
 あんたがどう死んで行くのか、とてもとても面白そうなんだもの。
 酒の肴にはぴったりだと思わない?」
「興味はないな。
 酒に肴はいらん」
さらりと長い髪をかきあげた。
 杯を取り、仰いですべてを飲み干す。とろんとした眼つきで中空を見つめていた彼女の周りに、蛍が浮かぶ。柔らかな光がまっすぐな顔を照らしていた。
 妖を裏切った眷属の一員になった。
 だがその眷属すら捨てて人になった。
 人を呪ってまで地獄を騒がす事件を起こし。
 人の味方となる妖たちを裏切って自分のために動かし。 
 閻魔大王から人を殺す妖のために物を盗む。

 ―――すべては、己のために。

 目的のために何度も死んで何度も生まれ変わる。一つの生で生き続ける八雲には理解を超えた行動だった。
「ホント、あんたって何者なのかしら」
そんな言葉が八雲の口をついて出た。
 蘭子は堪えきれず、けらけらと乾いた笑い声を上げる。
「私は私だ。それ以外の回答があるか」
ああなんて、彼女らしい返答だろう。
 娘。
 遠い昔、この女が妖だった頃に喪われた女の娘。それを探すために、彼女は走り続けていた。九百九十九人がどうなろうとは知ったことではなかった。いわれるがままに仏の眷属に成り、そして裏切った。世界の端から端まで走り回った。行ける所を全て行ったら、行けないところへ。冥界、極楽、地獄、未来。
 喪った娘を追いかけて追いかけて追いかけ続ける。

 ただひたすら、彼女は真っ直ぐだ。

「うふふふ。そうね。御免なさい」
「お前こそ。
 まだ捨てられた男が忘れられないとみえる。
 過去の幻影を見続けているんだろう? 昔の姿をそのまま作り上げようとしているんだろう? 今生き続ける男には興味がないんだろう?
 …………馬鹿め。いい加減に忘れてしまえ。時間は戻らん」
「馬鹿なんて、最高の褒め言葉」
しれっといって、八雲は薄く笑いながら酒を飲む。図星を指されたのに、何故だか彼女が相手だと小気味がよくて怒りが湧かない。
 羅刹を復活させることだけが、彼が望んでいることだ。
 冥界の資料もただ彼の魂の欠片を探すためのものだ。こんな細い手掛かりですら頼らなければならないなんて、蘭は自分の盗んだものを見ながら馬鹿とだと笑った。
 今でも不動明王そのものは生き続けている。
 だが、八雲が欲しいのは何千年も前に失われた男の姿だけだ。『今』など、不要で、意味のないものだった。
 それを作り上げるために待って待って待ち続ける。

 全てが渦を描くように、彼は歪んでいる。

 飛天は杯に注ぐのが面倒になって、銚子をひっくり返して呑んでいた。あまりにも旨い酒で、自分の意思で止めることができないのだ。
 因縁の二人だから巻き添えを食わないようにはじめのうちは注意していたが、おそらくもう刃を交えることはないだろうと飛天は思った。
 互いに酒を酌み交わしながら、心は此処に無いのだから。二人とも遠く昔に心を奪われたままだ。怒りも、憎しみも、喜びも、感動も何もかも置きっ放しで。
「……オメエらはあれだ、似たもの同士だな。
 追い縋る影を見続けるせいで、今の周囲にいる奴は少しも興味がねえ。月を見ながら走って、脚元にはとんと無頓着だ。
 残酷だねぇ」
「おいおい。ふざけるならもっとマシな言葉を選べ。
 ……お前こそ、どうなんだ飛天夜叉王。残酷とはよく言うじゃないか」
「そうよねぇ。あんなにも簡単に、次々に手元に子供を置いて、それを大事に大事に育てて、去ったらすぐに新しい次の子供を持ってくる。
 あたしには出来ないわよ。
 残酷なんてアンタだけには言われる筋合いはないわ」
くくくく、と低い声で大天狗が哂う。

「俺ぁ、何より俺が好きなんだよ」

文句があるか? と男の目が輝いた。
 彼は、魂も、心も、体も記憶も何一つ失わずに何千年以上の時を過ごしていた。唯一失ったのは目だけだ。それ以来失うのが怖くなって、誰にも何も与えないで生きて続けてきたからだ。
 彼は心の一欠けらも与えずに愛する術を得てしまった。与えないからいくらでも育てられる。いくらでも。次々に。
 空を仰ぎ見る。
 その顔に鞍馬の桜の花びらがひらりひらりと落ちた。
 ―――それは思い出の桜。しかし、ただの桜だ。
 蛍の光で、彼の笑みが闇の中に浮かんだ。愛を弄ぶ愚者の顔。

 真っ直ぐに歪んでいる男の顔だった。



活動的な馬鹿より恐ろしいものはない
Johann Wolfgang von Goethe




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