・・・  酒宴  1  ・・・ 
 5巻28話 90頁と91頁の間

 魔王寺の昼下がり、寺の主の生臭坊主は久々に酒を味わっていた。
 いつもは四六時中傍にいた酒瓶は、飛天が取り出したときには土間の隅ですっかり土埃を被っていた。
 全ての扉を閉めきって暗くした仏堂の中央に座り、唯一外と繋がる蔀に向き合って酒を注ぐ。いくらぼろ寺といってもこの仏堂だけは一応きちんとしていて、男の後ろにはところどころ色の禿げた厨子が安置されていた。ただ、その中身はすでに酒代のために飛天が売り飛ばしていたが。
 瑠璃男たちがここに来てからというものの、あまりに彼らが気にかかって酒を楽しむ余裕がとれなかった。体の半分が酒精で出来ているとばかり思っていたのに、酒を淹れなくともきちんと動いたことに驚きだった。そして何より、あんなにも楽しみにしていた『人生の伴侶』は、今は舌に不快な痺れをもたらす、別人の顔に変わってしまっていた。
 彼らは、切符がとれなかったので明日の汽車で帝都に戻るという。そこで今日は、帝月に連れられて京の町の旨い物を買ってくると出て行った。天馬は最後まで抵抗していたようだったが最終的に首に縄をつけられてつれて行かれてしまった。
 義経の御霊も祓い清めたのはつい数時間前のことだというのに、それをけろりと忘れたように騒々しい一行だった。その賑やかな声が、今でも聞こえるような錯覚すら覚える。

 嗚呼。なんとまあ、業の深い若人なのだろう。

 彼らがこの山に居るだけで、神聖なる山の空気が、冷たく、重く、冥府のそれへと変わってしまう。三人が立ち去った途端、森中の鳥たちは喜びの声を上げて飛び回った。
 子供のような単純な思考で、子供のように無邪気に笑い、子供のような仕種をする―――そういう、当たり前のようなことをすればするほど、背負う業の深さに、やるせない怒りに全身が熱く苦しくなる。ただ彼らを遠くで見ているだけで、胸の奥底がざわざわと痛む。
 無知なる者が罪と知らずに業を深めていく。
 まったく、エグイ役目を押し付けられたものだ、と飛天は怒りを殺して笑みを作って彼らと接していた。一人になった途端、ここ数日の圧迫されていた激情が堰をきった様に噴出して飛天の中を渦巻いた。

 彼らは、自分の傍には冥府が口を開いて待っていることを気付いてるのだろうか?
 自分の負った業の深さを、本当に、理解しているのだろうか?

「……ったく」
自虐的な自問自答の輪に嵌り込んで、思考は崖を転がる石のように嫌な方向に進んでしまう。
 飛天坊は舌打ちをして首を上げた。
 見れば、快晴の青空。春の強い風が蔀をがたがたと鳴らしては過ぎ去った。風にあおられながら遊ぶ小雀たちが庭を過ぎる様が、男を楽しませる。
 小鳥の戯れる花吹雪。毎年楽しみにしているその光景は、今年もまた見事で、飛天は無理矢理唇をひきつらせて笑みを作った

 こんな日に、暗い思考は勿体無い。

 それにどうせ今更憐れんでも仕様の無いこと。自分の性格上見捨てるということが出来ないのだから、いやでも彼らの業に巻き込まれるだろう。
 その時、……そう、今度こそその時、守ってやれば良いのだ。
 この懐で育ててするりと逃げていってしまったあの少年の代わりに。兄を慕うあまりに、怨霊となって暗く冷たい冥府の底を泳いでいたあの孤独な魂の代わりに。
 あの子にも子孫を頼むと頼まれてしまったのだ。大義名分は得た。
 「あー。酒が旨ぇなー」
わざと大声をはり上げて自分の感情を吐露すると、なにやらすっきりとした心持になって、空を見たまま手元を水に徳利を傾けた。

 …………ぴちゃ

「ん?」
予想外の音に視線を手に戻すと、杯には注がれているはずの酒がない。
「んん?」
徳利を振ってみるが、中に入っている様子ではない。
 こともあろうことか、飲み会はこれからだというこの瞬間に酒がきれたのである。酒飲みの彼にしてはあってはならない失態だった。
「―――っ!
 かぁぁぁっ、こんなことだったらあの餓鬼んちょどもに酒を買ってから行かせるんだったっ!
 畜生ぉぉぉっ」
空になってしまった徳利をたたきつけるように床に戻すと、いい音がする。手加減をしたので徳利は壊れなかったが床は穴が開いた。
 魔王寺から酒屋は気が遠くなるほど遠い。普段は隣家の白羽から酒を  強奪して  献上させているのだが、この前大喧嘩をしたからそれはおそらく無理だろう。呑みすぎは体に良くないとかお前どこのおかんだみたいな台詞を吐いたので、大人気なくも「俺は好き勝手に生きるんだよ!」と大見得をきってしまった。

 もしかしたら、少しは残ってないかな……

 ちろり、と期待に孕んだ目で置いた瓶を見た。なんとなく、太っ腹なような、そんな気がする。気のせいだが。おそるおそる飛天は再び徳利に手を伸ばし、意を決して口の真上でひっくり返した。
 あんぐりと大きく口を開いて数秒。
 そして一分。
 それでも諦めきれず、心の中で10秒数える。
 だが涙ぐましい努力は天に通じず、望みのものはやはり落ちてこなかった。
「うぅぅぅぅーっ! くそっ。
 どういう構造してんだよっ!
 この徳利はっ!」
諦めたその瞬間。
 ぴちゃ。
 ―――見事、脳天に一滴落ちてくる。

 ぶち

「この野郎ぉぉぉぉぉぉ―――っ!」
「あーら。
 ご機嫌じゃない、生臭坊主。
 あんたって本当に部屋に篭って飲むの好きねぇー」
声とともに後ろの戸が開かれた。
 立っている大男の手には、酒瓶がある。しかもあの固苦しい警視総監の服ではなく、体にぴたりと収まった着流しを着ていた。控えめの藍の色。それが水色の髪とよく似合う。
 首を回し、飛天はにいっと口を引きつらせた。
「遅ぇじゃねえか」
「そう? 酒瓶相手に激怒する坊主なんて帝都のどこ探したって見つからないわよ。面白いものが見れたわ。
 で。
 肴は?」
「花吹雪。これ以上旨いものはそうないだろう?」
「―――ったく、この貧乏人め」
口ではそういったものの、八雲は気分良さそうな顔をして男の隣に腰を下ろす。胡坐をかいて、手持ちの杯と彼の杯に、持ってきた酒を注ぐ。
 隻眼の男たちは、各々の杯を差し上げ触れ合わせたりした。カチリ、と小さな音。二人とも杯を仰いで一気に飲み干した。
「……ほぉ。旨ぇじゃねえか」
「まあね。帝都でも品薄なのよ」
「すっかり都がお気に入りのようだなぁ」
「人の間は、居座れば楽しいものよ」

『それは、お前の方が、知っているんじゃないのか?』

 八雲の低い、低い、声ならざる音が飛天の心を振るわせる。ただの人ならば眩暈を覚えるような錯覚に囚われたかもしれない、それくらいに、強く深い音だ。久しぶりに感じる悪友の『音』に酒で火照った体がざわめいた。
「久しぶりに見たわねぇ。あのカミヨミの祓い。
 ―――全く、本当に……エグイわ」
冗談めいて、その実真実を吐露した言葉に、黒髪はゆっくりと頷いた。
「ああ……。
 あれは、痛いな。
 あの魂の断末魔は、いつ耳にしても苦しくて哀れだ。カミヨミのガキを殴り倒したくなる衝動に駆られる。
 わかっているんだがな。
 それが最後の清めの手段だ、っつうことは」

 想いに囚われるのが人だろう。
 想いを抱くのが、人じゃないか。
 そういうものじゃないか。
 ―――なのに、あんなにも厳しく……

 瞼の裏に浮かぶのは、最後に見た義経の幼い顔。
 強い風が蔀戸から入って堂内を面白いように駆け抜けていった。それが飛天の髪を擽り、寒さを覚えて鳥肌が立つ。だがその寒さとは裏腹に、心は煮えたぎるような熱い感情が渦巻いて居た。
 あの無邪気で一途で真っ直ぐな子が、このような罪を犯すと知っていたら自分は山から下ろしただろうか?
 結果的には、義経は執念を祓われて理性を取り戻した。だから自分のことを思い出してくれた。
 ―――しかし、それでもあの所業は酷だ、と飛天は思う。
 喩えるならば、夕飯をつまみ食いをした子供を顔が動かないくらい殴りつけるようなものなのだ。冥府から引きずり出されて、あの醜悪な姿でこの世に戻される。しかも、ただ、斬られるためだけに。
 その屈辱、その痛み、その恐怖―――その上あの残酷な執行人は己の所業の非道さを知らないことに、怒り以上に悲しみが込み上がってくる。

 想いを抱くのが、人じゃないか。

 ひらりと。
 ―――花びらが風に煽られて舞い込んできた。風は暖かな気温を連れてきた。風向きが変わったのか八雲の青い髪もそよぐ。
 白い桜は日の当たる蔀戸の下に溜まるが、決して暗がりに座る男たちのもとまでは届かない。 
「お前の縁者だったか」
おもむろに、八雲は尋ねた。
 大男は返答せずに、ただ杯を呷るばかりだ。だがそれこそ何よりの肯定だろう。
「ま。別に、それが納得できないとか、どうこうしたいとかそういうわけじゃないんだがな……。
 ……人ってのは、脆いから嫌になる」
独りごちた呟きは暗い堂内に落ちていつまでも消えない。
 まるで慰めるように、花弁が舞い降りて鎮座する。暖かな春の世界から、おいで、おいでと手を差し伸ばす花たちを飛天は寂しそうに眉をしかめながらも拒絶した。堂の暗がりの中で窓を開いて傍観することだけを選んだのは、自分なのだ。堂から出て行ってしまった花の生に手を出してはならない。たとえ夏が来て花が散り、冬になってその身が枯れ落ちることがあっても。