・・・   その者、性格極悪につき  2  ・・・ 


 「ほほう、帰るのか。
 しかし、書類は既に受理している。すなわち、此処で帰れば、君は不正申請をしたことになるわけだ」

 ふ せ い し ん せ い ?

 蘭は自分の顔が強張っていくのを自覚する。
 一方、黒木は高らかに笑い出した。
 陸軍では最近国会からの追求が厳しいからとかなんとかという理由で、経理の管理が格段に厳しくなった。そこで、一旦申請した後にそれを取り下げて、また再び申請をする等を繰り返すと『不正申請』とされ、不正申請を出した隊は、その期は一切の申請を受け付けないとする制度が導入されたのである。
「……私を嵌めようとはいい度胸だな」
悔しがる顔を見せたくはなくて、最後の意地を張って無表情を取繕ったものの、声は僅かに震えていた。それだけでも男には十分だった。それに、普段のやり返しをするのには、これから十分な時間がある。
「口数が減らんようだな、日明大佐。
 さて、私の方はそれなりに時間がある。それなりに素敵な言い訳を聞かせ――――――――――――」
不自然に途切れる、男の言葉。
 それが本当に固まっているのだと気づくのに、たっぷり一分以上の時間を要した。
 それくらいに、彼の変化は突然すぎた。
 まるで中将の周りだけ時間が止まったかのように、地蔵と化している。勝手に動くとまた怒りそうだ、とは思ったものの、流石に一点を見つめられたまま会話していた相手が硬直するとなると、気になってしょうがない。
 もとより好奇心旺盛な蘭には耐えられなくて、五秒ほど待った後、軽く首を回して後ろを見やった。
 ……が、変わった様子はない。
 零武隊と異なりヒビ一つ入っていない白い壁。そこを這う一匹の黒褐色の昆虫。赤い絨毯。飴色の超が四つほどつくような高級な木の扉はきちんと閉じられている。修理をした様子もない。部屋の主の性格に相応しく、掃除は行き届いており清潔感が漂う。一応確認したが、天井にも異変はなかった。
「―――」
首を回せば、今だに黒木は固まったままだ。
「……中将?」
その声に、びくんっと男の肩が跳ねた。
 止まった時が一気に流れ出したように、彼は凄まじい速さで動きだす。
 一点を見つめたまま、頭は少しも動かさずに、器用に椅子を下りて、絨毯に尻餅をついて、そのままの変な姿勢で部屋の隅へ後退する。壁に背中が当たれば、ひぃと悲鳴を上げて、べたりとへばりつく。ぶるぶると震わす唇。だが視線は動かない。疑問符を大量に浮かべて、蘭は再び振り返った。黒木中将の見ている先に、一体何があるのか、を。
 だが、何もないのだ。
 当然の風景があるだけだ。
 壁、網翅目の黒色の虫、天井、絨毯、家具。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひあ、日明大佐っ! ぶ、部下をっ」
「……何か問題があるのだろうか」
「問題!?
 そこに、あ、ある、い、いるだろうがっ」

 居る。

 蘭は目を細める。
 神経を研ぎ澄まし、全ての気配を探る。
 だが、幾ら気を鎮めても霊や化け物、ましてや暗殺者等の危険な気配はない。
 黒木中将に見えて自分に見えないものが存在するわけがない、では、彼が幻覚を見ているということになるが―――
 スパイラルな疑問に嵌りかけた彼女の思考は、男の絶叫に寄って遮られた。
「来たぁぁぁぁぁぁ―――っ」
目を見開き、顎が外れんばかりに声を張り上げる。
 蘭は思わず刀を抜いた。
 
 壁、網翅目の黒色の虫、天井、絨毯、家具。

 やはり、何もない。
 変わったといえば虫がかさかさと近づいたくらいだ。

「あ―――ま―――めぇぇぇぇ―――っっっ!」

「は?」

 蘭は目を点にしてくるりと振り返った。
 見れば男はまだ悲鳴の続きの真っ最中。
 その視線の先をじっくり辿ってみると、確かに、彼の叫んだ異名を持つ虫に辿りつく。確かあまめは鹿児島弁だったな、とそういえば、黒木中将は薩摩閥か、とそこまで思考が巡る。
 蘭は己の髪を数本摘むと、軽く引張って根元から引き抜く。
 ゆらり、と、体の軸を倒した。滑らかな動きで足を踏み出す。目標は今は絨毯の上をてくてくと歩んでいる例の虫。足音もたてずに目的地点まで着くと、走るのと同様の素早い動きで踏み潰す。虫が逃げに打つ瞬間を与えないほど、その動きは流暢だった。
「えい」
「ひあきたいさぁぁぁあぁぁぁぁぁ―――」
 黒木がまたも不思議な悲鳴を上げている。
 それを爽やかに無視して、蘭はひょいと靴を持ち上げた。
 しゃがんで、そして、引き抜いた髪で虫の足を縛りあげる。ついついと引張って上手く結べたことを確認すると、立ち上がった。
 くるり、と首を回し。
 にこっ、と愛らしく微笑み。
 なんと、それを持ったまま上官の下へぱたぱたと駆け寄ってきたのである。
 まるで獲物を飼い主に自慢する猟犬のように、目はキラキラと輝いている。黒木が再度悲鳴を上げたことは書くまでもない。
 尻餅のまま錯乱する上官に、持ってきた獲物を自慢げに差し出した。
「黒木中将っ」
「ひぎゃぁぁぁぁぁっ!」
ぺろん、と男の前にその虫が吊るされたまま落ちてきた。
 驚いたことに、その虫は完全に無傷だった。
 彼女は力を調整してショック状態にしただけだったのだ。
 正気に戻った虫がジタバタと動き、それは細い一本の毛でつながれている。
 逃げようにも部屋の隅。壁が邪魔して思うように動けない。それでも出来る限り虫から離れようと必死だ。
 蘭は、男が半泣きで慌てふためく様がとにかく面白くて、ひょいひょいと毛を動かして虫を操った。
「さて。
 ……貴殿に私は追加予算の説明をなさらねばならぬわけだが」
「い、いや、も、もうかまわんっ」
「そうはいかん。
 不正申請になっては困るからなぁー」
活きの良いその虫は、足ではどうにもならんと羽を動かす。だがそれは細いが強い髪に拒まれて自由に飛べない。
 近くなったり遠ざかったりと不規則な動きになったので、黒木は無意識のうちに息を止めていた。もはや脳内は真っ白だ。
 油でてかった頭。
 ぴくぴくと蠢く触覚。
 それが、目と鼻の先に迫る。
「わかったっっっ!
 気にするなっ! ちゃんと元帥府に話は通すっ! 通してやるっ」
「そうか。
 貴殿にもやっと零武隊の存在意義がわかっていただけたようで助かる」
嬉しさを隠さず顔に出して、蘭は虫を引き上げた。
 そのまま移動して、元の位置へ戻る。
 勿論手にはまだ例の虫が居る。
 その笑顔に殺意を覚えながらも、黒木は命令に従わざるをえなかった。ここでアレを解放されたら、一匹居れば三十匹なのだ。白紙を取り出して、震える手で元帥府に出すための書類を作成して署名をし、判子を押す。蘭は極当然といったようにそれをとり上げた。
「協力感謝する」
「もう来るなぁぁっっ!」
久々の完全勝利に心の底から爽やかな蘭は、珍しく扉を蹴破らずに静かに部屋を出ていき、廊下で虫を逃して待たせている馬車へと向かった。

     *****

 部下の開ける小さな戸を潜ると、先に仕事を終えていた丸木戸が座って今得たばかりの資料に目を通していた。
 彼女の様子から上手く行ったことを察した教授は、めくる手を止めてにやりと微笑む。
「どれだけ分捕りましたか?」
「……頂いたのだ。
 見ろ。予定金額全額達成したぞ」
「ほう、あの黒木中将から!」
やりますねー、と感嘆の声。
 狭い椅子に座って、蘭は軍帽を被りなおした。貰った大事な書類は丸木戸に手渡すと、教授は再び驚きの声を上げた。鋭く手綱が空を切る音がして、馬車がゆっくりと動き始める。
 教授がふと目を挙げると、珍しく爽やかな表情をしている彼女がそこにいる。軍帽を脱ぎ、子供のころから変わらない真っ直ぐで透き通る目を輝かせて待っている。丸木戸が、こちらに気づくのを。
「なあ、丸木戸君。
 とっても良いことを思いついたんだ」
軍人としての命令ならば、こんな思わせぶりなことは言わない。
 つまり、個人的な頼み。
 すなわち、イタズラのお誘い。
「それは、楽しいんですかね?」
同じく悪戯好きの幼馴染は、眼鏡をきらめかせて質問する。
 ははははは、とやおら高笑いを上げた。
「勿論だ。
 楽しませてやるぞ、存分に」
「では断る理由はありませんよ。
 ……なんなりと」

     *****

 蘭の悪戯が菊理にバレ、少女の怒りの恐ろしさのあまりに慌てふためいた軍人が証拠隠滅―――すなわち、繁殖力・生命力・脚力・その他諸々の素敵要素をパワーアップを重ねた品種改良済みの黒い虫を、帝都中にばら撒いたわけだが―――を図った。
 今まで然程害虫的扱いではなかったこの虫が、嫌悪感を引き起こすモノの代名詞とまで進化した影には軍が絡んでいたのかどうか―――。
 ―――ゼロになってしまった歴史である以上、今は、知る術はない。
 めでたしめでたし。