・・・   その者、性格極悪につき  1  ・・・ 

※ 注;たまに家庭に出没する黒くて足の速い虫の話です。
その虫が好きな方も嫌いな方も不快に思われる表現が含まれているかもしれません

 「ほう。貴殿が逃げも隠れもせずに私の所に来るとは珍しいな」
第一師団司令部の一室、剣呑な瞳を持つ男の前には白い軍服を纏った女性が姿勢よく立っていた。
 口を真一文字に結び、意志の強そうな目。揉め事を起こすならまかせとけ!の零武隊を率いる日本陸軍内部最強にして最凶な女軍人、日明大佐その人である。
 彼女は額に手を当てて略礼して声を立てる。
「突然の訪問申し訳ございません。
 日本陸軍第一師団師団長黒木中将殿。
 実は折り入って話があってまいりました」
それは見本になるくらい礼儀正しい姿だった。後光すら見えるほど美しく、軍人の鑑といえる良い姿勢。
 まさか、彼女が、こんな当たり前のことが当たり前のように出来るとは思ってはいなくて。
 警戒心バリバリだった黒木中将の胸に打ち響いて、心に打ち立てていた壁が崩れ落ち、体の奥底から感動の波が広がる。人を寄せ付けない目が見開かれ、口が半開きのまま固まった。

 ……そうか。そうなのだ。
 人とは変わるものだ。どんな駄目駄目っ子な人間だって、何かの切っ掛けで悪行を悔い改めるかもしれない。
 予算と決算の言葉の意味すらわかってなかった日明大佐だって、もしかしたら、もしかしたら「おこずかい帳」気分で出納帳をつけようとする気になったのかもしれないっ!
 そのために私のところに質問に来たのかも…………
 そうだ、そうに違いない。
 ああ、なんて素晴らしい進歩だ。よかった。よかった。

 が。妄想に浸って涙を浮かべる中将には可哀想なことに、蘭が礼儀正しかったのはその一瞬だけだった。
 がつがつと大股で入ってきて、椅子に腰掛ける男の前までやってくる。その時には、とっくにいつもの傲岸不遜な態度に戻っていたのである。
 にたり、と不穏に緩む口元。
 あれ?
 と、やっとのことで、黒木も現実に目が覚めて、即座に感じる不気味な予感。だが未だに信じたいと思う気持ちが強くて、壊してしまった心の防御壁の修復が出来ない。
 気持ちの整理がつかず中途半端な顔をする上官に、蘭は一枚の紙切れを突きつけた。

「予算が足りぬ。
 というわけで、おくれ」

彼女の言葉を理解するのに、数秒の時間が必要だった。
 むしろ数秒で理解できたというほうが、奇跡的といえるかもしれない。
 常軌と常識を逸した日明蘭大佐の性格を知っていなければこうはいかない。
「馬鹿者ぉ―――っ!?
 常識的に考えて軍の予算を、おくれで渡せるわけないだろうがっ!」
「では、くれ」
「なお渡せるかぁぁっ!」
どうしてそう考え方が出来るのか激しく疑問を覚えるが、相手が日明大佐だと思うと納得してしまいそうになる。
 額に血管を浮かべる中将を見て、蘭はせせら笑った。
「……生意気な口をきくものだな。
 知っているぞ。第一師団の隠し金は最近五万円を超えたらしいじゃないか。だったら一万くらい零武隊がくすねても問題あるまい。
 とっとと銀行頭取に振込むよう命令しろ。ん? 口座番号ならわかっているぞ? 零武隊に秘密ができると思うなよ」
「隠し金ではなく正当な補助費だっっ! このたわけ者がっ。
 隠しているのではなく第一師団で預かっているだけだっ。正当かつ問題ないものに決まっているだろうがっっ。
 何を言い出しているんだお前はっ」
叫び終わって、肩で荒く息をつく。
 あまりにもとんでもない内容に、怒りが沸点を飛び越えてその先の限界値にいったような気がする。血が滾って沸騰したように全身が熱い。……これで倒れたら労災がおりるのだろうか。
 が、一方の部下は少しも気に病む様子はなく、それどころか、面白くなさそうな表情をして舌打ちしていた。取り出したのと同様の素早さで紙をしまいこむ。情報違いだとしたらこれを黒木中将に見せるのは色々とまずい。
 つまらん、とふてぶてしい心情を目が語る。
「情報違いか」
「何しに来たんだっ!? 上官を脅しに来たのかっ!?」
「いや。
 銃が半分ほど壊れたから新調の予算を奪い……じゃない、願いに来たのだが。
 中将が怯え狼狽する様子を見たくて……いやいや、中将が快く返答出来るような面白い情報を掴んだので、意気揚々と乗り込んできたのだが。
 ―――見込み違いだった」
「待てい」
本音と建前が入り混じったその言葉、聞き逃すわけにはいかない。
 踵を返して部屋を出ようとする彼女の肩を素早く思い切り掴む。一応、仮にも第一師団の頭を張っているだけのことはあって、なかなかの握力。鬱陶しいという感情を隠さず顔に載せて蘭は振り返った。
「なんだ。
 認めてくれるのか?」
「お前達のような予算食い潰し虫のならず者部隊に追加予算を認めてやるくらいだったら第一師団の夕飯にすき焼きを毎週出すわっ! 出してやるわぁぁっ」
「そうか。ならば、こちらの用件は以上だ」
「こちらは積もる話があるのだっ! それに上官が許可してないのに帰ろうとするとは何事だ貴様っ。それ相応の態度というものがあるだろうが、態度というものがっ。そこになおれっ!
 それに三年前からいっているように使途不明金が多すぎるし、四年前の交通費の件も納得いく説明が出来ていないぞっ。だいたい零武隊は無駄が多すぎるのだっ。何故もう半分も銃が壊れてしまうっ!? 銃は全てお国の宝、陛下のものなるぞっ。それを……
 ……だぁぁぁ、まだ話は終わってないのに帰ろうとするなぁぁぁっ!
 とにかく帰るなっ」
どうやら話し合うべき点は一切ないらしい、と、理解した軍人は躊躇無く足を再び動かす。納得がいかないのは上官のことなど知ったことではない。
 蘭の襟首を掴んで引張るには引張っているのだが、本当に人間なのかが不安に成る程の力で引き摺られる。机を乗り越え、絨毯の上をずるずると。まるで暴れ馬。大の男が全体重をかけているというのに、暴れ馬はそのまま扉までたどり着いてしまった。
 ノブを回す音を聞いて、黒木もとうとう諦める。
 ―――力で彼女に勝つのは無理だ、ということを。
「えええいっ! 
 わかった、わかったから! 幾らほど必要なのだっ」
と、持ち出したのは後の切り札。
 蘭の足がようやく止まった。くるりと回る首。長髪から漏れるにやついた表情に、殺意と眩暈を覚えながら黒木は手を放した。
「話の飲み込みが良くて助かるな」
「……一辺本気で再教育してこい、その性格」
やれやれと嘆息しながら元の椅子に戻ると、静かに彼女もついてきた。椅子の横に佇んで、黒木が落ち着く間もなく先ほどとは違う書類を差し出した。
 男の鋭い目がざっと書類の上を滑る。
 理由はいつもどおり『最高機密』の赤字の判が押されているだけだ。忌々しいがこのとんでもない書類がまかり通ってしまうのが零武隊というところなのだ。
 愛用の小筆を取り上げて、さらさらと署名し最後に判を押す。インクが乾けば完成。蘭は満面の笑みのまま出来たばかりの許可書に手を伸ばす、が、予想外に空を切った。
「…………おい」
低い声と虎をも射殺すような眼力で脅しをかける。
 が、相手は眼鏡を軽くかけなおして殺気こもる視線を一蹴した。
「……元帥府から言われていているのだ。
 期間中に新たに予算を追加した場合には、きちんと納得のいく説明しろとな。
 一応軽く質問させてもらうぞ。かまわんな?」
さてどうするかな―――と蘭は腕を組んで算段する。
 丁寧なノックがされて、一人の男が入ってきた。余程緊急の要件なのか、客人を無視して部下は一直線で黒木の机に向かい、一礼して持って来た書類の束を置いた。蘭が来る数分前に急いでもってこいと命令したものだ。
 部下の強張った表情から、怒鳴ったのが相当効いたな、と内心苦笑しながらも、いい機会だと思った。
 そう、素敵なタイミングだ。
 これ以上ないくらいに。
「……これを、至急元帥府に渡してきてくれ」
滅多に聞かせない猫撫で声。てっきり叱られると思っていた彼は、目を白黒させたものの、すぐに良い返事をして紙を受け取って出て行く。
 これでもう完璧だ。細工は流々、と呟きながら内心赤い舌をぺろりと出す。
「さて、日明大佐。
 尋ねたいことはたぁぁぁぁぁ〜っぷりあるのだよ」
右の一番したの引き出しを開き、そこにある書類を次々につかみ出しては山に積みにする。一瞬蘭はその書類に興味を覚えたが、その冒頭の文字を見て直ぐに失せた。
 極秘、と赤い文字の下、零武隊ニ関スル苦情報告 明治四十年度版。
 御一新以来どれだけの事件を闇に葬り去ったか知れない零武隊に対して、苦情など馬鹿らしくて聞いていられるか、と、彼女がうんざりと思っていると、その思考は黒木が立てた強い音によって遮られた。どうやら、最後の書類を勢い良く机に置いた音らしい。
「……君の言い訳が楽しみだな」
にんまり、と細い顎の男が薄く笑う。
 その不気味な雰囲気に、蘭もようやく気がついた。
 いつの間にか黒木は調子を取り戻している。
「わかっていると思うが、表の部隊には答えられん質問は拒否させて頂くぞ」
腕を組みつつ、慎重に答える。
「十分承知している。
 では、まずこの会計書類だが。
 ―――十四月というのはなんだ?」
「間違えた」
「間違えたで済むかぁぁぁぁあああ―――っ」
「じゃあ極秘内容だ」
「じゃあってなんだじゃあってのは!
 この字、この帳簿はお前がつけたものだろうっ。現朗隊員の字ならばわかっているんだから…………って拗ねた態度をしても何にも出んぞっ!」
「……小言を聞く時間はないのだが?」
怒声で痛めた耳を塞ぎつつ、蘭は踵を返そうとする。
 が、それは次の黒木の言葉で遮られた。