・・・  毒と薬 1  ・・・ 


 暗闇の中、少年の見開かれた双眸が月明かりを受けて輝いていた。
 母親譲りの大きくな瞳。小さな窓から差し込む光に、薄ぼんやりと浮かび上がる小さな船室。その壁をただひたすら凝視している。
 眠くないわけではなかった。
 その証拠に、彼の目の下には隈が浮んでいる。柔らかな綿で作られた寝台は、この世にこんなものが存在するかと思うくらい心地よいぬくもりを少年に与えた。大きくてゆったりとした波の揺れ、そして、身を包むような低音のエンジン音。
 だが、まるで母の腕の中でつつまれたような状況にもかかわらず、毒丸の心臓は全力疾走した後のように踊り狂っている。
 原因は、音だ。
 それは船の心臓たるエンジンのそれではなく、全く別種の、奇妙な、胸騒ぎを起こす不吉な音。
 毒丸が布団に潜って一時間ほどしてから、断続的に隣室から聞こえてくるのだ。
 大雑把に言えば破壊音で、今夜はすでに十回目を数える。単に壁を強く叩いたようなものもあれば、金属同士がぶつかりあうものもある。何かが壊れた音もあったし、ただ物が落ちただけのようなものもあった。
 しかもこれは今日に限ったことではなかった。船に乗ってから毎晩聞こえてくるのだ。

 ドォ―――ンっ

 十一回目。
 びくりと揺れる小さな肩。
 痩せこけた頬からは慣れぬ旅の疲労がにじみ出て、彼のとげとげしい印象をさらに悪くしていた。
 好奇心が押さえきれなくなって、とうとう、毒丸は半身を上げた。
 船室の小さな空間は、大人には狭いが少年にはほど良い大きさだ。何故か起きているのがばれるのは怖くて、息を静めて気配を薄くする。そろそろと寝台を下りて、今まで見つめていた壁にそっと耳をつけた。
 目を瞑り、深く息を吐く。
 鉄製の壁からは、船の生き物のような震動音が直に伝わってきた。その音が面白くて、今日の午後はずっと聞いていた。
 毒丸が気になってしょうがなかった理由はもう一つあった。
 その音の聞こえる部屋にいるのは、この大きな寝台を丸々貸してくれた部屋の主なのだ。毒丸が、この行き先も全く知らぬ旅で、唯一頼りにしている人だ。
 初めて会ったときは、鬼だと思った。薄笑いを浮かべながら刀で仲間の首を刎ねた。血のついた剥き出しの刀を持ったまま見下ろされたとき、体の底から恐怖が湧き起こった。人じゃない。そう本能で理解した。
 だが、今は、違う。海のような慈悲深さと包容力、そして純粋な力と真っ直ぐな信念。守ってくれる背中と抱きしめてくれる腕。殺しに来た少年に、躊躇いなく、その両方を同時に差し出してくれた。父親も母親も知らぬ毒丸にとってそれ以上嬉しいものはなかった。
 ただ彼女の傍に居て、彼女のために役に立ちたいと望んだ。見知らぬ地であろうとついて行きたいと決心した。それを告げたとき、彼女は笑って喜んでくれた。
 一つを思い出せば芋づる式に様々な記憶が蘇っては消える。嬉しかったり、楽しかったりするものだばかりだ。異国の、しかも正体不明の少年など喜ばれるはずもなく、彼女が護衛している男や他の軍人は露骨に嫌な顔した。しかし周囲の反応など一切気にせず、嬉しそうに四六時中傍に置いてくれた。
 ただ、寝るときを除いて。
 寝る前になると、彼女は自分の部屋を毒丸に貸し与えたままどこかへ行ってしまう。寝台が足りないわけではないのに。

「……当然じゃないか」

毒丸は、掠れた声で呟いて、そして小さく自嘲する。
 そう、当たり前のことだ。
 つい一週間前、自分は彼女を殺そうとしたばかりなのだから。寝るなんて無防備な状態を見せられるはずがないだろう。
 今のままで、十分じゃないか。忘れるな、殺そうとしたんだ。あの人を殺そうとしたんだ。だから、十分だ。―――声ならぬ声で何度も言い聞かせて己をなだめる。我侭を言いたい自分を抑える。初めて与えられた愛情の嬉しさに、自分でも嫌になるほど、貪欲になってしまうのだ。
 でも、貪欲になって、嫌われたくない。
 捨てられたくない。
 ―――もう、あの人に捨てられたら、どうしていいのかわからない。
 呪文の様に繰言を紡ぐ。十二回目の轟音が響いたのは、まさにその瞬間だった。
 思わず、毒丸は耳を離した。
 それは、あまりにも大きな音。残響が痛みに変わって体内を駆け巡る。気づけば足が動いていた。
 廊下へ出て、隣の部屋の扉を死に物狂いで叩きつける。暗い廊下に響く鈍い音。鉄の硬い板が、骨に当たり痛みが走るが毒丸は力を緩めなかった。ノブを掴んでも、錠が下りているのだろう、動かない。
 それが余計に少年の心を焦らせる。
「……たいさっ。
 大佐っ、大佐っ、大佐ぁぁぁぁ」
ガシャっ。
 鍵が外れた音、続いて、鉄の扉が内側へ開いた。
 長髪の女性が立っている。
「どうした、怖い夢でも見たか?」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、少年を廊下へ押し出すように足を進めた。
 だが、聡い少年は気づいてしまう。
 彼女が籠もっていた部屋の様子が、あまりに異常なことに。
 しまった、と蘭が思ったときには遅かった。身軽い少年は、押し出す動きを避けてするりと部屋の中へ入ってしまう。きょろきょろと不思議そうに見回す子供の背中を見ながら、苦虫を噛み潰したような表情を作っていた。
「なんでこんなトコで寝てるんですかっ」
真っ暗のそこは、板張りで、木箱がいくつも積んである。物置なのだろう、少し黴臭い。決して人が休むような場所ではない。
 床には壊れた木箱が転がっており、溢れた物が床に散らばっていた。奥の箱の上に、大人一人が横たわるので精一杯な空間がある。おそらく、壊れた箱はそこから落としてしまったのだろう。
「……箱が落ちてしまってな。
 明日、明るくなったら片付けようと―――」
普段歯切れの良い言葉しか返さない彼女にしては珍しく口篭り、待って戻ってきた答えは答えにはなっていない代物。
 少年の中で何かが繋がった。

 こんな倉庫に、何故彼女が寝るのか。
 ―――当然じゃないか。
 自分と、寝ることが、できないからだ。

 それを理解すると、彼は振り返って、逆に戸口で立ちふさがる蘭の腰に手を当てた。そして、廊下へと押し出そうとする。
「た、大佐、あっちで寝てください」
「は?」
「俺、こういう方が性にあってるし、布団より。
 倉庫みたいなとこの方が、面白いっす」
全身の力を込めて押すが、軍人は微動足りしない。
 毒丸は顔を上げた。
 にっと笑みを浮かべて。
「俺、こっちの方がいいです。
 大佐疲れてるんですから、布団で寝たほうがいいっしょ。
 信用、できない、の、わかってます、から」
本当は笑って言うつもりだったのに。
 くしゃりと少年の顔が崩れ、見る見るうちに涙が滲む。
 溢れた涙を抑えることが出来なくて、ぼたぼたと床に零れ落ちた。
 泣き崩れそうになる小さな体を、蘭は素早く背中に手を回して抱きかかえた。
 顔を押し付けて涙にむせぶ少年を抱えたまま、自分の部屋に戻る。布団の上に二人ごと横たわっても、彼は離れようとしない。さっきまでは必死に嗚咽を堪えていたというのに、その全てを諦めて、身悶えして号泣し始めていた。
 その背中を、落ち着かせるようにゆっくりと叩く。
 拭っても拭っても止まらない涙。盛大にわあわあと泣き喚く。
 顔が熱く火照り、心臓がばくばくと鳴り響いた。
 その体を力強く抱きしめられた。
「……すまん、違うのだ。どうかそんなに泣かないでくれ」
泣き出した毒丸の気を収めるために、言い含めるようにゆっくりと耳元で囁いた。
 真っ暗の部屋の中。
 その声は、とても温かくて、余計に少年の心を奥底からぐらぐらと揺さぶる。
「本当は、お前を独りにしたくないのだよ。
 不安だろう、初めて行くところなんて。
 すまんな。
 ………………。
 ……実は、薬を、切らしてしまったんだ。
 興奮を抑える薬でな。私はそれを飲まないと、周囲にいる人を傷つけてしまう」
蘭はぎゅっと力を籠めてから、両手を離して距離をとった。
 首を上げた少年の顔が、暗闇の中なのに何故か良く見える。
「お前を傷つけたくない。わかってくれ」
「……く……す、り……っある……よっ。俺……持って……る」
「はははは、お前の持つ可愛い毒では効かんよ。
 遠征中は上手く緊張を解くスイッチが切れなくてな。蚊を叩こうとした殺気だけで刀を抜いてしまう」
すまん、と再び彼女は謝る。
 その胸に毒丸は顔を埋めて再び泣き始めた。
 もはや何が悲しいわけでも辛いわけでもない、ただ涙と興奮が収まらないのだ。
 困った蘭は、そのまま寝台に横たわる。擦り寄ってくる少年をしっかりと抱擁しながら、目を閉じた。
 船のゆったりとした震動と、独特の機械音。その中で、少年の嗚咽だけが闇に響いては消える。
 子供の体温の心地よさに紛れて迫り来る眠気に対して、蘭は必死で抗った。
「……さ、ゆっくり眠っておくれ。
 隣の部屋に居るから」
そういってやるが、逆にぎゅっと服がきつく掴まれた。
「毒丸」
名前を呼ぶと、ぶるぶると首を横に振る。そしてさらにきつく握り締められてしまう。
 絶対離すものか、という固い意志。それが小さな拳から見て取れる。
 ―――どうやら、彼が眠るまで待つしかない、と蘭は悟った。
 ここ一週間滅茶苦茶なことをさせたのは、他ならぬ自分なのだ。この少年の面倒を見ると腹を括った以上、このくらいのことは引き受けなければならない。まだ年端も行かぬ少年に、この事情をわかってくれという方が無理があろう。
 少年の背中を再び心音に合わせて叩き始める。

 ぽん、ぽん、ぽん、ぽん……

 ……天馬ならばすぐに眠るというのに、人を信じぬ少年はなかなか心を開こうとしない。
 それにしても、気持ちが良い。
 温かな体。
 芳しい香り。
 蘭は目を瞑る。
 毒使いとして、きっと想像も出来ぬような過去を背負ってきたのだろう。自分が連れて行くことが、果たしてこの少年にとって幸せなのか、揺らぎがないといえば嘘になる。
 でも。

 でも、どうしても許せないのだ。

 子供が、自分の前で、命を削って生きていくことなど。

 どうしてもそれだけ許せない―――。


 *****

 押さえたノックの音に、蘭と毒丸はほぼ同時に目が覚めた。
「……日明大佐」
「朝食か。わかった、直ぐに行く」
蘭が外の兵隊に答えているうちに、毒丸は起き上がって寝台から離れる。彼女の方に背を向けて、俯いたまま動かなくなってしまう。
 あれだけ泣いたのは久しぶりで、恥ずかしさがこみ上げてどんな顔をすれば良いのかわからなくなった。
 難しい年頃だ、と心の中でこっそり苦笑しながら、蘭は少年の方に視線を送る。
「よく寝たな」
「う、うん……」
「薬がなくて最近良く眠れなかったのだが、どうやらお前のお陰ですっかり疲れが取れた。
 礼を言うぞ、毒丸」
「ほ、ほんとっ!」
くるりと振り返って、ぱたぱたと駆け寄る。
「じゃあ、俺、ずっと大佐を守るよっ!」