・・・  仲直れ!  ・・・ 


 午前七時二十三分。
 陸軍特秘機関研究所全体を揺るがすような爆発音が響いた。
 三日後に控えた日本陸軍全体の演習のために早くから出仕していた炎は、反対側の建物の廊下に火が走るのを見た。二時間ずれていればその火柱に多くの隊員が犠牲になっていたことだろう、それくらい大きな火柱だ。零武隊の重鎮は突然の事態にも動じることなく、赤い髪を靡かせて直ちに現場へと駆け出した。
 彼の脳内に様々な可能性が浮かんでは消える。
 一番強いのは、零武隊の存在を快く思わない者による爆破。だとすれば犯人はまだこの官舎の中に居るかもしれない。罠や攻撃があることを前提に、最大の注意を払いながら疾駆する。三叉路や階段で他の隊員たちとも合流する。彼らは炎の姿を見るとすぐに後ろについた。言葉を交わさずとも未曾有の事態に対して指揮系統が完成する、訓練された軍人ならではの対応だ。
 事件が発生したのは北棟の一階、後方支援の研究組の根城。炎や隊員たちは滅多に訪れることは無い。
 廊下に充満する噴煙。隊員たちはもしものことを考えて、走りながら持っていたハンカチでマスクをする。
 直前の曲がり角までに出たとき、炎は足を止めた。走るのを止めて、刀を抜く。彼の背中から滲み出る警戒の空気が強くなる。後ろの男たちも倣って迎撃態勢をとった。
 研究部屋の壁は完全に崩壊していた。廊下と研究室が繋がり、炎達の眼前には大きな空間が広がっている。焦げの後から特定するに、爆発したのは部屋の内部らしい。
 木で作られた壁や天井は所々が焦げて、いまだに燻って煙を上げている。しかしどこにも火の手はあがっていない。そういえば北棟は研究施設のために特殊な資材でつくられていたな、と思い出しながら、炎はゆっくりと焼け野原に足を踏み入れる。
「……凄いな」
「これじゃあ、爆発した奴も死んでいるんじゃないか?」
「事故だとして、研究者ならひとたまりも無いぜ」
部屋はもう跡形も無い。この中に居たら勿論、廊下に居ても命はないだろう。時限爆弾等の小細工をしていなければ、普通の人間は爆発に巻添えをくって死んでいるに違いない。
 ―――が。赤髪の上官は一人、きょろきょろと首を回し、何かを探しているようだった。
 突然、彼らから離れた一角の瓦礫ががたがたと音を立てた。
 真っ先に気づいた炎が刀を向けながら振り向く。
 続いて一般隊員たちも切っ先を向けた。敵か、異形のものか。
 間断的に下から突き上げられて、崩れていく山。
 ぼこっと愛らしい音がして、最後の瓦礫が放物線を描いて隊員たちの上を飛んだ。
 壁の一部だろうか、十歳児並のサイズの大きな石膏の塊。

 ちょっと待て。あれ、飛ぶか、普通?

 と、瞬間隊員たちに疑問が―――というか、ツッコミが―――動揺と共に過ぎる。がずぅぅん、と呆気に取られる男たちの真後ろで粉塵とともに大きな音が立った。
 その動揺は、軍人としては褒められたものではなかったが、結果としては良かった。
 お陰で攻撃のタイミングが遅れた。彼らは日明蘭大佐に襲い掛かるという天の理に逆らうような馬鹿な真似をせずに済んだのである。
 瓦礫の下から、啓蟄で出てきたモグラのように大佐と教授が顔を覗かせる。
 暫くきょとんとした表情で周囲を見回していた。
 何をどうやったのかは判らないが、この爆発に巻き込まれていながら完全に無傷ならしい。唯一爆発の名残といえば、顔に付いた煤くらいのものか。
 やはりか、と炎が溜息を漏らして鞘に愛刀を収めた。
「………っ!
 ああああああああ―――っ!
 ほら、爆発した。やっぱり爆発したじゃないですかっ!
 どーするんですか、実験の途中だったのにぃぃぃっ。データだってまだきちんととってなかったのにぃぃぃぃーっ!
 だ、だから大佐は手伝わなくて良いといったんですよっ」
突然の横の男の絶叫に、蘭もはっと正気に戻る。ここが夢じゃないと理解するのにかなりの時間が必要だった。
 陸軍のお偉方に報告しろだの予算を使い込むなだのどれだけ文句を言われようと冷笑を浴びせて「表の部隊には関係のないこと」と言い放ち頭を下げるなどもっての外―――な図太い神経もつ彼女だったが、流石に今回ばかりは即行で謝ることを選んだ。
「す、すまん。
 ……ちょっと薬品が多すぎて……ええっと……すまん」
「すまんで済むわけないでしょうっ!?
 この前導入したばかりの実験機ぃぃぃ〜。
 二百円もしたのをよぉぉぉぉぉ―――っやくいれたんですよっ! わかってるんですか貴女っ」
「そ、それは、知っているが……」
蘭は俯いてぼそぼそと言い訳をするが、それが余計に研究者の怒りの炎に油を注ぐ。
 普段歯切れがいいことしか口にしないのを誇りにしているだけに、こういうときだけ口籠るなんて卑怯だ、と丸木戸は思った。眼鏡の下の目をぎゅっと吊り上げてきつく睨みつける。
「あーそーですよねっ。知ってますよねっっ!
 貴女が二百円を許可するときあれっっっっだけ無駄遣いだとか予算食い潰し虫とか言ってましたものねぇぇーっ!
 ったく」
彼は言い終わるや否や立ち上がり、周囲を荒々しく見回した。
 煤で汚れた白衣を払いもしないで、ただ立ち尽くす。
 何も言わなかった―――というか言えなかった。予想もしてなかった程の惨状。残っているものは燃え残りと煤だけ。ここにあった、数々の愛しい実験器具も、素晴らしい海外の蔵書も、化け物も裸足で逃げ出すほどの研究成果も、何もかもが炭素に変わり果てた。
 大きすぎる崩壊は人から言葉も感情も奪うらしい。
 気が抜けて、立っているのがやっとだ。笑うことすら出来そうに無い。
 男の動きについていけない蘭はしゃがんだまま不思議そうな目で見あげた。

 自分の研究室が、たった一瞬で炭になるなんて。

 突然。
 低い唸り声が口から洩れる。
 それは次第に大きくなり、獣の咆哮のようなその声に蘭はぎょっとして身を離すと、男は荒く髪をかきむしり始めた。教授の腹の中で渦を巻き練り上げ膨れ上がった激情は、流石の蘭にも理解できた。
 丸木戸はそのままその場に座り込んだ。そして、膝を抱えて頭を丸めながら蹲ってしまう。母親の死でさえ涙を見せなかったのだけれども、今は、心の底から号泣出来るような気がする。胸が苦しい、脈拍が早い、何より目が焼けるように熱い。人が泣き出す、一歩手前の症状だと研究者の脳が冷静に判断する。
 蘭はどう声をかければよいかわらかず、おろおろとしながら傍らにしゃがんでいた。手を丸木戸の肩の傍まで近づけるが、触るに触れず、中空でさ迷わせている。
 炎と隊員たちは、これからどうしようかと顔を見合わせた。
 爆発の原因はわかった。侵入者でも敵対者でもなく、零武隊を率いる大佐だ。
 ……ならば、まあ、現朗の隠し予算『大佐費(大佐が間違って壊してとんでもないことになっちゃたものを修理または修復するために使ってもいい涙ながらに用意しておいた予算)』から修理費を出すことが出来る。
 材料を今日注文しても到着には一週間。三日後の演習以外には今は急ぐ事件も無いから、隊員総出でやれば三日もあれば研究室自体はもとのようになるだろう。
 大佐が物を破壊するのはさして珍しくはないし、陸軍特秘機関研究所が壊れるのはそれこそよくあることだ。ただいつもとは違って後方支援組のテリトリーで起きたのだが。
 目と目で会話していると、急に大きな声が聞こえてきた。

「だいったい、君は貴様は零武隊を自宅化し過ぎだっ!」

大佐の一言に、全員が思わず振り向く。
 見れば、落ち込んでいたはずの二人が立ち上がって、エキサイティングなオーラを立ち上らせながら対峙している。
 あれだけショックを受けた教授も、あれだけしょげていた大佐も、もうすでに復活して怒りマックスの興奮状態。
 双方ぎりぎりと歯を食いしばり、親の仇のように相手を睨みつけているではないか。
 この人たち、落ち込むって言葉はないのかな……と部下の気持ちが一つになる。
 生暖かい目で見守られる中、二人はどんどんボルテージを上げていった。
「ほとんど家に帰ってないくせに、自分専用の郵便受けをここにつくるなっ。零武隊の看板の横にこっそり『丸木戸』って書いただろう、知ってるぞっ!」
「はぁっ? 零武隊を私物化してる貴女に言われたくありませんよっ。
 何ですか、あの戸棚にみっしり詰まったお菓子はっ」
「お菓子はお菓子だっ。何が悪い」
「そこの全てが悪いんですよ。横暴でしょうが。我侭でしょうがっ!」
「我侭じゃないもんっ。普通だもん。よくあるもん。
 それに君だって我侭なところがあるだろーっ!
 うちの隊員を研究材料か試験台ぐらいにしか思ってないくせにっ」
「ええそうですよ。
 でも、貴女こそ部下を何だと思ってんです?
 三度の飯より部下を蹴っている方がぜんぜん多いじゃないですかっ! 襲ってくる暴漢よりも容赦なく攻撃しているのを知らないとでもっ?」
「当たり前だっ。
 鬱陶しい羽虫どもよりもきっちり相手してやるのが上官の優しさだっ」
「健康で一般人よりも耐性が強いことを研究者的に優秀だと評価して実験台に選んであげているんですよっ。私の実験台になるなんて、喜んで感謝されたっておかしくないくらいの光栄なことなんですからねーっだ」
「ふん、……詭弁だな」
「貴女のだって屁理屈でしょう?」

 二人揃って駄目だろっ!

と唖然としている隊員たちの目の前で、口汚く罵り合う二人。
 まさに傍若無人の文字通り、傍らで部下が聞いていることを微塵も考慮していない。
 隊員たちの顔は知らずうちに引き攣る。
 上司の心の裡をまさかこんな形で知る羽目になろうとは。
 ぷるぷると震えた手はさっきとは違う動機から柄をきつく握り締めていた。
 事件ではなく事故ならば、もうこの場に居る必要は無い。なのに誰も立ち去ろうとはしない。目の前の子供上官の言い争いに、必死で自分を押さえる男たち。怒っている二人よりも、自分たちのほうが怒っていいんじゃないかとすら思う。何が切欠さえあれば、その手は躊躇いなく刀を抜くだろう。
 そんな緊迫した背景を後ろにしながらも、口喧嘩はますますヒートアップしていた。
「南瓜っ、茄子、土手鍋っ!」
「ああ……土手鍋おいしいですね。で、それがなにか? え? 今の何か関係あるんですか会話の中で? 意味のある言葉を話してくださいよ。ほら。早く。どうぞ?」
「丸木戸君の馬鹿ぁっ。馬鹿ぁ。馬鹿ぁあぁぁ」
「頑固で意地っ張りで鬼畜で性格悪い大佐に言われても」
だがまあ、結果は初めから見えていたのだ。
 殴る蹴る斬るがまず一番に出てくる蘭が、口から生まれた丸木戸に敵うはずがない。
 一言えば百で返ってくる。それに必死で言い返せば小馬鹿にされる。怒り出せば鼻で笑われて言い包められる。―――余裕綽綽の教授とは対照的に、蘭の顔は真っ赤になっていった。
「それにねえ、昔から言うでしょう。
 馬鹿って言う方が馬鹿なんですよ。
 そんなことも知らないなんて、さすが大佐ですねー。零武隊を率いている軍人様だけのことはある。常識がなくてさぞや苦労するでしょう? 大変だぁ」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪い。
 バーカ。馬ー鹿。馬鹿眼鏡。乱視眼鏡っ。
 似合ってないんだお前の眼鏡っ」
ぶち、と丸木戸のどこかが乱視眼鏡の一言に切れそうになったが、彼は決して感情を顔に出さない。
「へえ。ああそう、喧嘩売ってるならいくらでも買いますよ。
 でもまあ、もうちょっと高尚な悪口がいえたらの話ですけどねー。そんな馬鹿に馬鹿って言われても全然気にしませんし。
 相手にするもの、まったく、馬鹿らしい」
と、あえて朗らかに笑いながら言ってやった。
 追い詰められた大佐は、頭の中に言葉が思い浮かばない。なんていいのか判らない。―――だから、叫んでしまったのだ。

「お前の父ちゃん四肢切断っ!」

真夏よりも熱くなっていた部屋に、冷たい空気が落ちた。
 その一言に周囲はいろんな意味でぎょっとする。
 丸木戸博士のあの状況をなんてこというのだこの人は。
 彼女も言った後に後悔したようで、今まで興奮に変わっていた目の色が正気に戻っている。ちょっとばかり狼狽しているようだ。あぁ、うぅとなんとか言い繕おうと必死に手で空を切る。
 その隙を丸木戸が見逃すはずも無い。
「ふぅん?
 で、なんですその言葉? 意味がわかりませんよ。意味が。
 どうせ辞典にも乗ってないものを貴女が今作り出したんでしょう? 三歳児ですか貴女。
 はーい。国語の授業やり直してから来て下さいねー。ここは大人しか入れないんですよー。お子様は駄目なんですよー。じゃあおうちに帰ってくださいねーばいばーい」
幼子に言い聞かせるような言葉遣いで彼女を挑発し、ぱたぱたと手を振って、さあ帰れといわんばかりだ。
 かっと、蘭の目が見開かれた。
 そのとき発せられたあまりの殺気に、数人は思わず刀を抜いた。教授を守るためだ。だが丸木戸は平然と冷笑を浮べながら腕を組んだままだった。
 蘭は唇を震わせて、必死に何かを言おうとしている。
 そして―――

「…………丸木戸君の馬鹿―――――――――ぁっ」

彼女の目から一気に大粒の涙がぼろりと零れ落ちた。
 言うや否や、零武隊の鬼子母神こと日明蘭は、泣きながら背を返して逃げ出してしまったのである。