・・・  日常と非日常  2  ・・・ 


 男は腰を絨毯につけたままいそいそとズボンを下ろし始める。
 目からぽろぽろと零れ落ちるのは大粒の涙。たった七十二時間でこんなに泣きながら出来るくらい溜まっていたのかと、蘭は変な所に納得する。瞬く間に、愛用している西洋下着以外一切脱ぎ去ってしまった。
 そんな手にでるとは思わなかった蘭の精神状態は真冬の富士山山頂並に寒い。精神状態はまず目に現れる。軽蔑と小馬鹿にした視線に晒されて毒丸は余計に追い詰められた。
 一発か二発抜けば自動的に出て行くだろう。じゃあそれまでやりたくもない仕事でもするか、と、彼女は溜息をつきながら新たな書類に手を伸ばそうとした。
 が。
 ふと、思考が止まる。
 突然、素晴らしい嫌がらせ方法が閃いた。
「大佐がやってくれない所為で、独りでやるんだよっ!」
もう聞いてくれないと思ったが、毒丸は吠え立ててずにはいられない。
 しかし、彼女は聞いていたのだ。
 しかも驚いたことに、蘭は初めて夫に対して反応らしい反応を示した。
 彼女は立ち上がり、椅子をひっくり返してから再び座りなおす。
 毒丸が見上げれば、足を組み、肘を組みながら嬉しそうな顔を浮かべていた。涙と興奮で赤に染まっていた青年の顔が、その顔を見た途端一瞬にして白くなった。

「してみろ」

「え?」
その返答は、全くの想定外。
「今まで私の前で自涜行為をした奴はいなかったから、見たことはない。
 お前のが破裂してしまうより少しは楽しめそうだ。
 見てやるから、やれ」
今まで嫌がらせをするつもりだった。
 嫌がらせなら出来るような気がしていた。
 だが、今、改めて考えてみると、考えが百八十度反転した。そもそもそんな行為は彼女への嫌がらせにならないし、むしろ、自分にとって嫌がらせではないか。

 あれを……………………大佐の前で?

 毒丸は一瞬自分の股間に目を向け、そして、再び顔を戻す。
 言い出したのは自分にもかかわらず、絶対やりたくない。
 情事の最中ならともかく、普通の彼女に見られるなんて。一方的に恥ずかしい思いをするなんて。
 火が吹きそうな勢いで顔が熱くなった。白かった顔は再び赤に染まる。
 想像しただけなのに、口から焼けた炭を飲まされたように全身が熱くて痛い。そんなところを見られたら、もう、普通に顔を合わせられない。夜中裸で軒先につるされて水をかけられた恥ずかしい経験だってあるけれども、やっぱりこれは無理だ。
 青年の滾っていた性欲は一瞬にしてさめた。
「えーっと。今夜はやめときます」
戦略的撤退。
 五字を噛み締めて横のズボンを取ろうと手を伸ばす。
 が、それを許す蘭ではない。刀の端にズボンを引っ掛けると、部屋の隅に放り投げてしまった。
「私はやれと言ったんだぞ?」
彼女の目は爛々と輝いており、完全に悪戯してやろうという顔だ。こうなったら最後、徹底的に苛められるまで解放しない悪魔の顔だ。
 ひぃぃと毒丸が喉の奥で悲鳴をあげるがもう遅い。

 蘭のスイッチは完全に入ってしまった。

 しばしば、思うのだ。自分も相当アレだという自覚はあるが、彼女も変だ、と。しかも、変態の度合いに段級制があったとしたら、彼女の方が数『段』上に間違いない。
 一体どこの女性が、男の自慰行為なんか見たがるだろうか。

「毒丸、脱げ」

蘭がそう『命令』した。
 命令には絶対服従。
 ―――それだけは、骨の髄まで躾けられてしまった。
 『命令』されれば毒丸は声をあげることも反駁することも出来なくなる。彼女もそれをわかっていて『命令』したのだ。
 毒丸は、機械の様なぎこちない動きで立ち上がった。そして、腰を覆う最後の一枚に指をかける。小刻みに震える指先にぐっと力を込めた。そろりそろりと緩慢に下着を下ろす様を、妻は完全に面白がっている。何がそんなに楽しいのだろう、と毒丸は鬼と心中絶叫しながら思う。見慣れた一物が彼女の視線に晒された。
 脱ぎ終わるや否や、すぐに正座をして身を縮める。俯いた顔は真っ赤だ。胸は激しく上下し、荒い息遣いが薄暗い部屋に響く。両手は必死に男の象徴を覆い隠そうとしていた。性器を見られるのは初めてではないのに―――見せ付けることだってあるのに―――今まで感じたことが無いくらいに恥ずかしさが込み上げていた。
 恥らう姿を味わい尽くした蘭は、徐に踵で椅子の足を蹴る。
 その盛大な音に、びくりと男の肩が震える。
 様々な辛い記憶が蘇っては消えた。命令を待たせて怒らせれば、もっと酷い事をされる。彼に残された道は一つしかなかった。それ以外を選ぶなんて、出来るわけが無い。―――唇の端を噛んで、毒丸は覚悟を決めた。右手に巻かれた布を取って横に置いた。
 左手の下で、彼の右手が動き始める。
 焼き切れそうな羞恥心と早く終わらせてしまいたいという焦りで、普段のように上手くはいかない。
 ひぃ、ひぃっと洟をすする音。
 このまま大佐に見られるのだ。あの、世にも一番恥ずかしい自分の姿を。
 そう思うと、胸が苦しくなってくる。あまりの惨めさに、悔し涙が顎を伝って膝に落ちた。
 一時期的不能とかになればいい、なってくれ、とこいねがう。
 だが、残念なことに。三日振りのお許しに、股間は触れば反応してしまうくらいに限界だったのだ。若い肉体は性欲に忠実だ。奴隷と言ってもいい。左手で隠した下で致そうとしていつもの調子がでないにもかかわらず、手を動かしているうちに、だんだん血が集中して固くなっていくのを毒丸は感じた。

「……おいおい。
 私が見てやっているのに、それでは良く見えないだろうが」

弾かれた様に、惨めな顔を上げる。
 ぼろぼろと溢れては零れ落ちる涙。さっきまでの滲むような涙ではなく、本泣きモードに突入しているときのに見せるそれだ。
 ぶるぶると唇を震わせて獣のような低い呻き声を漏らしていた。
 嗚咽と痛ましい泣き顔。

 ぞくりと、蘭の背筋に悪寒が走る。

 覆い隠す手の下で彼の体の一部が盛り上がっているのが見えて、さらに興奮が加速する。耳の中でがんがん煩くなる血流の音。
 なんとも表現しがたい衝動に突き押されて、蘭は席を立ち、青年の脇に手を入れ抱きかかえる。そして、扉の方へ足を向けた。
 何も告げられずに連れて行かれる恐怖に、毒丸は声が出せない。喉がからからに渇いていることに、今、初めて気づいた。見上げれば、彼女は無表情だ。夜の寒さのせいではなく、ぶるぶると戦慄いた。
 命令をきちんと遂行できなくて怒っているのだろうか。怒って酷いことをしようと考えているのだろうか。

 がんっ

 寝室を蹴破るように強引に入る。その荒々しい動作に、毒丸は自分の予想が正しいと確信する。
 蘭は一直線に寝台へ向かい、その上に丁寧に毒丸を横たえた。
 青年は青ざめた表情のままぴくりとも動かない。俎板の上の鯉。もはやどうすることも出来ない。すぐ与えられるだろう激痛に恐怖しながら身構えた。
 だが、なんと、蘭はいきなりその頬に口付けを落としたのだ。目を白黒させる毒丸に、さらに、優しくその顔を舐め始める。頬、額、鼻、目、眉。溢れる涙を丁寧に舌先で拭い取った。最後には唇を甘噛みしてやる。
 生温かい感触に、怯え固まっていた男の心が溶けていく。
 恐怖で萎えきっていた肉体の一部にじんわりと熱が戻ってきた。体に沸き起こった熱い欲情は全身に至る。心臓が爆音を奏で始める。
「……たいさ?」
「今夜だけだぞ。
 ったく、甘えるのも大概にしろ」
蘭はそのまま彼の肩を掴んで押し倒す。
 かくして毒丸の望みどおり、今夜は三日ぶりに解禁となったわけである。