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「犯ぁ〜 らぁ〜 せぇ〜 てぇ〜」 真後ろから聞こえてきたのは、内容はともかく、ちょっと可愛い声だ。 それは男が出すにしては少し甲高い。しかし、だからといって耳障りではなく、女の情に訴える甘ったるい響きを持つ音。 毒丸は満面の笑みと愛らしい空気を纏って蘭の背後にいきなり降り立った。いつも見えない位置で護衛する習性からか、屋根裏からやってくるのだ。 夜十二時。 夕飯が終わり蘭が部屋へ引き篭もってから、既に四時間以上経過していた。蘭の夫、毒丸は食事の時点では帰っていなかった。彼はここ数日出張だったのである。 もうそんな時間か、と独りごちた。 ……思ったが、蘭は特に反応せず仕事を続ける。この男が来たからといって仕事を止める理由も義理も無い。 毒丸は無視されたことに少しもめげず、広い背中にがばりと乗りかかる。そして、腕を前に回して書類を読むのを邪魔してやる。 蘭が鬱陶しそうに首を振ると、少し調子に乗った彼は彼女の柔らかな頬肉を摘んだり撫でたりしてやる。だが、もう始めのような反応は見せたりはしない。完全に仕事に没頭している。 ぷぅと頬を膨らませ、毒丸は五本の指を動かして胸部の膨らみを狙いをつけた。が、勿論それに気づいていた蘭は、さり気ない動作で万年筆を回して躊躇無く甲を刺す。あまりに滑らかな動きすぎて、逃げようと考えることすらなかった。痛い。とにかく痛い。万年筆の先は金で出来ているはずなのに、彼女が持てば鋼の強度を持つ。 数秒は堪えてまだ狙っていたが、蘭はさらに万年筆をぐりぐりと回して傷を広げる。血が流れ始めて、ようやく、毒丸は手を引いた。普段あれだけ他人を殴ったり蹴ったりしているくせに、血で自分を汚すと怒り出すのだ。理不尽にも。 ハンカチを取り出して手早く応急手当をし、ふう、と腹の底から彼は一旦溜息をついた。 二人の目が、きらりと光る。 勝負の火蓋は、切って落とされた。 「ねえ大佐ぁ。今夜はいいでしょ。 俺、今日まで出張だったんだよ。 真ちゃんと炎ちゃん人使い荒くてさ、『じゃ、毒丸。囮に行ってこい』とか言ってさ。むかついたけどきちんと囮になって妖怪とついでに炎ちゃんボコろうとして返り討ちにあった……とかはまあさておいて。でも一番沢山倒したし、一番強い奴も俺が殺したよ。 とにかく三日ぶりなんだから、やらして」 「無理だな。 明日は午前中には激の隊の演習が入っているし、午後は馬鹿な中将どもに我が隊の説明とやらをせねばならん。夕方はどうせ雄山元帥に呼び出しだ。他にも教授が新しい発見をしたとか言うから見てやる必要がある。となると早朝に行かなければなるまい。後この仕事も明日が期限だ。 うむ、やはり無理だ」 文字を書き続けながら淡々と言い返す。彼女は本気だ。三日間死闘してきた夫に対する労わりの心はかけらもない。 むぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ〜。 毒丸はツマラなそうな低い呻き声をあげた。ある程度予想した反応ではあったが、それでもちょっとむかつく。 が。彼はすぐに心を持ち直す。 ―――その気じゃないならその気にしてやれ。 毒丸は自分にそう言い聞かせて、寂しそうな声を『作って』口を開いた。 「大佐は俺のこと嫌いなんだ……」 もじもじと指を擦り、暗い顔をつくる。それが本心からならば少しは聞いてやってもいいのだが、わざと過ぎて腹も立たない。万年筆を置いて横の小筆をとり、蘭は書き慣れた堂々とした文字で署名しながら低い声で言い放つ。 「嫌いかそうではないかの二択ならば後者だが、好きかそうではなかの二択でも後者だな。 ま、お前の立場は微妙なところだ」 畜生ぉぉぉっ! 本気だよっ! 心中血の涙を流しながら絶叫しつつ、青年は必死に自分を抑えた。声を出したら負けだ。そんなことをしたら「煩い」と言われて部屋から追い出されてしまう。そうなってしまったら今夜は自動的にお預けになってしまうではないか。 一方。蘭は、曲がったなぁとぼやきながら眉根を顰めて紙の上の名前を見ていた。夫との三日ぶりの会話よりも署名の方に全神経を集中させていたのだ。彼女の字は豪快で一本で真っ直ぐだ。だから少しでも曲がると『とんでもない方向へ真っ直ぐ』へ行ってしまうのだ。 「俺、大佐のこと大好きだよ」 「そうか。迷惑だ」 はっきりと迷い無く言い切る。これもまた本心である。 しかし毒丸は強張った笑みを浮かべて聞こえなかったことに決めた。 彼の部隊が帝都に戻ってきたのは十時。武器の片付けや大砲の手入れなどなんやかんやあり、結局解散したのは十一時半頃だった。今夜は、隊員の多くが研究所内に宿泊していた。遠征で非常に疲れているし、研究所には泊まる場所もあるし、帰っても数時間後にはここに戻らなければならないのだ。その選択は至極合理的である。……が、毒丸は死に物狂いで疾駆して家に戻ってきた。 三日間という禁欲を経て、性欲は最高潮の状態。触られるだけでもイッてしまいそうなくらい下半身で滾っている。 こんな機に大佐に挿れないなんて、そんなの勿体無いっ! ―――と、今日の青年の決意は無駄に相当固かった。 「迷惑って酷いなぁ。 大佐ぁ、好きだよ、愛しているよ……ねえ、俺の方見てよぉ……」 彼は言いながら再び背中に乗っかってくる。 薄暗い部屋の中、毒丸の動きにあわせて椅子が一定のリズムを刻んだ。 蘭は全く気に止めず、新しい書類を取り出して仕事を続けている。青年がこそっと手を伸ばしてそれを奪おうとすると、彼女はちらっと視線を向ける。視線だけで、毒丸は慌てて手を引っ込める。そんな攻防が数回繰り返された。 あーあ。仕事を取って興味を向かせるとかそういう甘い手が使えればいいのになー。大佐、仕事が関係すると容赦ないし…… 数ヶ月前のこと。日曜日に、急に蘭に仕事が入って予定していた行楽計画が駄目になった。毒丸は行かないで一緒に遊ぼうと駄々を捏ねた。駄々を捏ねるだけならば良かったが、彼は仕事に行かせないために妻の制服を全部汚してしまったのだ。 蘭はそれを見つけると、無表情で夫の襟首を掴み服を剥いて縄で縛って外に吊りだした。しかも、「足りないな」と呟いたかと思うと、桶を持ってきて水をかけたのである。季節は冬、夜は零下をも記録する。朝下ろされたときには髪の毛が凍っていた。 その辛い経験は彼の脳裏に刻みこまれ、思い出すと今でも震えが起こる。容赦ないとかそういうレベルではない。人間の所業ではない。 「意地悪。悪魔。鬼」 とうとう堪えきれなくなって、ぽつりと本音が漏れる。 「鬼と悪魔ならむしろ褒め言葉だな」 無視されるかと思いきや、蘭は返答してきた。 「………………浮気してやる……」 「死にたければどうぞ」 「今日くらい犯らしてよーっ! 三日も溜めたら破裂するよー!」 「ほう。破裂したらさぞ見物だ。 教授もさぞかし喜んで手術してくれるだろう」 実は明日が期限の仕事はとうの昔に終わっていたのだが、彼女はあえて仕事を続けていた。それは勿論部下のためとかそういう理由からではない。ここで焦らすと夫がどういう反応をするのか、気にかかったからだ。 結婚したのは彼の成長の為だったが、なんだか最近色々な楽しみを覚えてしまったような気がする。 ―――蘭の性格は一直線。ゆえに、一度方向性を間違えると凄いことになるのを彼女だけが知らない。 暫くして、背中から一人分の重みが消えた。 ちらりと背後を横目で見やると、絨毯の上で蹲る寂しそうな背中があった。どうやら、絨毯の上に『の』の字を書いて落ち込んでいるらしい。 続いて聞こえてくる、メソメソとした泣き声。 嘘泣きか、と蘭は思った。思ったが何も言わないで、仕事のふりをしつつ観察する。 時折、毒丸は探るような視線を蘭の背中に寄越した。彼女がまだ仕事をしているとわかると、すぐに顔を戻して声を先ほどよりも少し張り上げる。そして再び反応を確かめる。そんな動作を幾度も繰り返していた。 十分という長くもあり短くもある時間が経過した。 毒丸はぴたりと泣き声をやめて、呆然とした目で蘭の背中を見上げた。 とうとう、彼は悟ったようだ。 ……ひ、酷いっ。酷いにも程があるっ。 男がここまでして頼んでいるのになんで聞いてくれないのさっ。挿れさせてくれないのさっ!? たった一時間二時間じゃんっ。仕事くらい後でいいじゃないか。明日だって出来るじゃないか。ていうか普段サボりまくって仕事なんかちっともしてないじゃないかっ! …………ああそうかい。 大佐がその気ならいいよ。わかったよ。こうなったら徹底抗戦だ。その気になるまで嫌がらせだ。男の特権を使ってやる! 使ってやるんだからっ! 頬をハリセンボンのように膨らませて、体育座りをやめて胡坐をかく。 当初の方向性と大きくずれた目的を胸に抱えて、毒丸は一大決心をした。ふんと荒く鼻息をつく。何をするかと興味津々な蘭が首を回すと、ぎらりと鋭い目が彼女を穿った。 肺に大きく息を溜める。そして――― 「大佐が何もしてくれないなら、いいよーだっ! この部屋で独りでやってやるっ。 独りでエッチしてやるんだっ!」 ずる。 あまりの言葉に、流石の零武隊隊長も思わずこけた。 |
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