・・・  正しい部下のススメ  1  ・・・ 


 猪三郎が研究室に来たとき、珍しく丸木戸は睡眠中だった。
 瞼がわずかに動いてさえいなければ、一見死体と見間違うほどに動きがない。顔色は真っ白だ。
 残業して実験をしていたのだろう、万年筆を握ったまま机に突っ伏して眠っている。実験器具の電源は全て落とされていたが、ランプは点けっ放しだった。
 無精ひげの生えた上司の頬にはインクの跡。せめてもの救いは万年筆からインクが漏れなかったことだろう。

 全く……

 猪三郎は溜息をついた。
 この若い上司は、研究にも人一倍熱心である上に、零武隊後方支援の医療部と開発部双方の責任者でもあり、さらに、遠征にはほとんど彼が同行している。何事もきっちり済まさなければ気がすまない性格が災いして、疲れが溜まって限界を超えるとこまでやってしまうのだ。
 手を抜け、とまではいわないが、もう少し体に気を使えないようでは社会人として困る。
 こんな生活を続けられてはいつ倒れてもおかしくないし、彼が倒れられると部隊の運営に非常に支障が出るのをわからない彼でもないだろう。
 とりあえず猪三郎は自分の机に鞄を置いてロッカーに戻った。ロッカーに常備してある毛布を持ってきて眠りこける丸木戸に掛けてやる。起きる気配はなさそうなので、電灯を消してやった。
 もう少ししたら医務室で眠るように勧めよう、と心に決めて、日課の朝の一杯にありつくため、再び研究室を後にした。
 やかんにたっぷりと水を入れてお湯を沸かす。
 お湯が沸くまでの間、ドリップのセッティングを始める。
 紅茶と珈琲の違いがわからないと豪語する甘党な隊長は問題外として、零武隊の隊員―――特に後方支援の研究者たちは―――飲み物にこだわりを持つ者が多い。おかげで給湯室にはコーヒー豆も茶の葉も種類豊富に取り揃えられている。
 箪笥を改造して造られた棚には、上から三段はびっしりと所狭しと同形の瓶が並んでいた。珈琲豆は一番取りやすい二段目においてあるが、目当ての缶を見つけ出すのにも一苦労だ。蓋のシールにかかれた細かい文字を読み取って判断していく。
「グアテマラ、グアテマラ……」
挽き終えた豆の香りを嗅ぎながら恍惚とする。これも日課だ。
 だが、勿体無いことに器には全然無頓着なのだ。豆は気にする割にはカップには無頓着で、一番下の棚に並べられたカップは各自の家から持ってきた余りものの陶器が雑然と並んでいた。猪三郎は自分専用のカップを取り出して軽く水に漱いだ。
「その豆、いい香りですよねー」
その時、戸口から声が聞こえた。
 顔を見るまでもなく相手は分かる。掛かっている布巾でコップを拭くのに集中しながら、猪三郎は答える。
「おはようございます、丸木戸教授。
 ……寝てたほうがいいじゃないですか?」
「そういうわけにもいかなくて。朝から大佐の御付きで出かけなきゃいけないんですよー。珈琲、分けて貰えませんか?」
頭痛の治まらない頭をさすりながら、丸木戸は苦笑いを浮かべた。
 特徴的な髭がぴんと上を向いている彼の横顔を見ながら、思わず自分の顔が気にかかる。
 そういえば、髭、剃らなきゃな……
 と、関係なく唐突に思ってあごを摩った。父親譲りの薄い無精ひげの存在が、指からちくちくとした刺激で伝わってくる。
「丸木戸さんのカップはどれでしたっけ? 淹れて向こう持ってきますから顔でも洗って待っていて下さい」
「花柄の紫色です。
 ……すみません、お願いします」
沸騰したやかんがかたかたと音を立てる。
 猪三郎は火を消し、それから棚に向き直って彼のカップを探した。花柄のカップはそう多くはないので、すぐにわかった。教授はそこまで見届けると、ふらつく足取りで出て行った。

  ******

 猪三郎がカップを持って戻ってきたとき、眼鏡の上司はまだ戻っていなかった。
 珈琲を飲みながら、彼の机に珈琲をおく。机の上には先ほどまで書きかけの書類と資料が散乱していた。
「……売れ筋商品一覧表……五月期?」
資料の一番上、でかでかとのった文字が目を引く。そうとう分厚資料で、出所は去年霜月に開店した有名な呉服屋だ。社外秘、と赤い印が押してある。ではなぜここにあるのかという当然の疑問がわく。
 そして、一体こんなもので何の調査報告書を作っていたのだろうか。
 空いた手で、丸木戸が書きかけた書類を持ち上げた。
「うわっ。ちょ、見ないで。見ないで下さいよぉぉっ」
いつの間に近くまできたのだろうか。
 こざっぱりとした顔の丸木戸がいきなり出現して、慌てて彼が持っていた書類を奪い返す。洗ったばかりの顔はまだ水でぬれている。
 取替えしたそれを胸に抱いて深い息をついて安堵しているが、直ぐに、もう遅かったことを悟った。
 視線を上げると、冷め切った目で部下が見ている。知らぬうちに、こわばった笑みが浮かんでいた。
「見られちゃまずいものをのうのうと机の上に放置しておくのは、研究者として失格じゃありませんか」
「え。ええいや……まあ……その。
 ご、極秘裏と言われているもので……あははは」
「同僚に極秘裏、ですか。ふーん、怪しいねぇー」
ちらり、と猪三郎の尖った目が動く。視線の先は、丸木戸の机だ。
 例の売れ筋商品一覧表の紙の束。
 がっつりと、丸木戸の血の気が、引く。
 社外秘、という文字にこの勘の良い男が気づかないはずはない。にやついた顔を保つ余裕は、もはやなかった。真剣な顔のまま、相手の出方をうかがうように上目遣いで睨んできた。
「もしかして、大佐にも内緒なことしてんですか? 後方支援全員が巻き添いをくらうような事態は勘弁してくださいよ。
 そーじゃなくても丸木戸さんいろいろしてんだから、大佐と」
丸木戸の警戒心を解くように、猪三郎はあえて直接尋ねたりはしない。
 ごくり、と淹れたての珈琲を嚥下する。 
 丸木戸はその言葉に、意外とばかりに顔をしかめた。
「そんなに信用ないですかっ? ああいうのは私のせいではなく、一つ一つ大佐の命令なのになぁー。
 これもまた、どちらかというと、仕事以外の大佐直々のご命令でして」
仕事以外の命令。
 ―――上手い言葉だ、と猪三郎は思う。
 そして同時に、それは命令じゃない上にそれに手を貸す丸木戸さんも同罪だな、やっぱり、と思う。
 目を瞑るだけで、彼らの悪行は走馬灯のように思い出された。一ヶ月無事に過ごしたことがないのだ。
 確かに、猪三郎自身が被害を被った事件は非常に少ない(ないことはない)。だが日明大佐が一度悪戯を始めると、零武隊自体の仕事は停滞するし、それが切欠で第一師団長の黒木中将や雄山元帥が乗り込んでくるし、保健室のベットが足りないくらいの怪我人が多数出るし、良い事はひとつもないのだ。
 猪三郎が考えている間に、いつのまにか、彼の雰囲気が変化していた。
「いや。待てよ。そうか、猪三郎さんには手伝ってもらったほうがいいのかもしれないな。うん、そうだ」
何か一人で納得したらしく、ぽん、とわざとらしく手を打つ。猪三郎の注意をひくためだ。
 不審げな視線をやると、にこっといつもの笑みを取り戻した男が口を開いた。
「ねえ。
 参考までにお聞きしたいことがあるのですが、お時間宜しいですか?」
 ―――と。