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「あれは、つまり脳の習性を踏まえて、言い間違えをさせて楽しむ言葉遊びだ。直前まで何回も言葉を繰り返すと、脳自体は次もその言葉を言おうとする。そうやって引っ掛ける。 さっきの場合、お前に『ひざ』と言わせたかったんだろうな」 「はぁ……? そんな馬鹿げた子供だましで引っかかる奴がいるのか?」 炎が考えるのをやめてアンパンに食いつき始めたとき、自分の世界から帰還した真がようやく解説を始めた。ソファの前の低いテーブルにある自分のカップを取り上げ、一口すする。 懇切丁寧な説明だったが、どうにも胡散臭い。 ―――不信感がありありと表れた顔をみて、真は息をつく。 実感しない限り、これを説明だけで納得させるのは難しい。 「じゃあ、今から三分間、俺がココアと言ったら珈琲と答えてみろ。 山と言ったら川という暗号のように、手早く言うんだぞ。珈琲の前に他の言葉をいったらお前の負けだ」 「はっ。そんな簡単なこと」 笑って残りのアンパンをすべて頬張る。もぐもぐと口を動かしている間は、真は腕を組み目を瞑って動こうとはしない。 暫くして、ごくり、と骨ばった喉が動く。 開始の合図だ。 大きな三白眼が見開かれた。 「ココア」 「珈琲」 「ココア」 「珈琲」 テンポ良く炎は言葉を返す。 「ほら。簡単すぎるな」 「さてどうだかな。珈琲」 「…………っ」 思わずココアと言いそうになるのを、ぐっとこらえる。 「ココア」 「珈琲」 珈琲、ココアと言いあいが続いた。フェイントに紅茶やココナッツ、珈琲を織り交ぜるが、先ほどの一回を除いて炎は一度も戸惑わない。 彼は己の勝ちを確信した。速度はだんだん速くなるが、少し気をつければいいだけでさほど問題ではない。そもそも、こんな単純な言葉遊びに、騙される方がどうにかしている。 黒髪は適当に単語を言い放ちながら、親友の表情を鋭く観察してチャンスを待っていた。親友はとても注意深く慎重で狡猾。普通にやっただけでうまくかわされる可能性が高い。おそらく、五分五分。 だが、一つの罠を上手く避けたとき、油断が生まれる。 相手の手の内がわかったからもう大丈夫だ、と『思い込む』。 勝ちを確信する。 珈琲や紅茶は布石。 ―――炎の顔に慢心の笑みが見て取れた。 さっと己の肘を指差す。 「じゃあ、ここあ?」 待ってました、とばかりに。 「肘」 自信たっぷりの答えが戻ってきた。 炎は己の失態に気づかず、余裕そうな笑みが消えない。真は淡々と告げた。 「お前の負けだ」 と。 二人の間沈黙が降りた。 え?と、炎は理解していない表情のまま固まっている。 彼の脳内で、直前までの行動が走馬灯のように思い起こされた。 ココア。ココア。コーヒー。ここあ………… 「あっ」 小さな声が上がる。わざわざ説明をしなくとも、自分で気づいたようだ。 「……まあこんな感じだな」 両手をひらりと上にあげて、真が顔を赤らめる男にいってやる。自分の失態が、そして失態に気づかなかったという事実が、穴に埋まりたいくらいに恥かしかった。 なんと言えばいいのかわからず、くわっと目を見開いて叫ぶ。 「ず、ずるいではないかっ!」 「ずるいとかそういう問題ではない。引っ掛けて楽しむゲームだからな。 といっても、これはなかなか上級編だから気にするなよ。多くの奴がひっかかるんだ。俺だって初めてのときはひっかかったさ」 そういってやると、ようやく青年も落ち着いてきて、今にも刀を抜きそうな殺気を体に収めた。 だが、興奮自体は収まっていない。心に晴れない霧がある。 とにかく、面白くないのだ。あまりに簡単に罠に乗せられてしまって。 「あと黄色は言っちゃいけないとか、そういうのもある」 「なんだっ! それはっ」 八つ当たりで語調が荒くなるのは昔のままだな、と真は思う。 なんだか急に愛しく感じられて、くしゃくしゃっと炎の髪を弄ると、うぅぅ〜と下から呻き声が漏れた。 頬を膨らませて上目遣いに睨んでいる。 「早く説明しろっ」 思い出に浸りかけていた真は、その一言で現実に戻ってくる。 「ええと……なんだったかな。…………そうだ。 俺が色の名前を言うから、その後にお前は『色』という一言をつけて答えるんだ。青といったら、青色と答えるようにな。赤なら赤色だ。赤色といったら、そのときも赤色という。 だが、黄色だけはいってはならない。黄、といったときも、黄色、といったときも、どちらも言ってはならない。お前は黄色とはいう言葉自体を言ってはならないと考えればいい。 ルールはこんなかんじだ。わかったな? ―――それで。この引っ掛けは二段階ある。先ほどの珈琲と同じような見え見えの罠として、時折、赤色とか青色とかを混ぜる。やり過ぎないように適度にだ。ここで引っ掛かったらそれでいい。 本当の罠はこれだ。紫、だ。言ってみろ」 「むらさきいろ…………あっ」 「そうだ。最後が黄色になるだろう?」 「本当だっ」 膨れっ面で興味のないような素振りで聞いていた。が、わかったな? と念を押される頃には、完全に没頭していた。こくこくと首を縦に振る。大きな蝶々を目の前にした少年のように、透き通った目がきらきらと輝いていた。 話が終わると同時に、炎は自分の珈琲を急いで飲み干し席を立つ。 用を思い出した、と言い分けしていたが、覚えたての遊びを誰かに試したくてうずうずしているのはバレバレだ。 「行って来い」 真は優しく送り出した。 広い休憩処内全体に、アンパンの良い香りが広がった。 親友がいなくなって、真は手足を放り投げ、ソファに深く身を沈ませた。首はソファの背の部分に置き、天地が引っくり返った世界を眺める。言いようのないくらいに気持ちが良い。 有名な遊びだから、もう今更ひっかかる奴も居まい。せいぜい現朗が付き合ってくれる程度だろうな…………。 長い間、穏やかな時間を保ちつけていた空間。隊員たちに魂の休息時間を与えてくれていた世界。 しかし、残念なことに。崩壊するのは一瞬なのだ。 天井をぼんやりと見上げながら風を感じていた真は、いきなりの轟音に身が強張った。空気の振動自体が、一種の攻撃とも思えるような圧迫感を感じさせる。破壊力はあった、が、砲撃ではないと確信した。火薬の香りがしない。そして、音が変わったものだ。 刀が床を破壊する音は、独特だ。 ―――そして、刀で床を破壊するという真似は、そう滅多にできるものではない。 「言った。言った、言った。 確かに言ったっ!」 「言っとらん言っとらん言っとらん言っとらん言っとらんっっ」 二つの影が休憩処全域を使って戦闘を開始している。 人数は少ないが、双方の破壊力は、戦闘と呼ぶには相応しい。樫のテーブルは砕ける、ソファは宙を舞う、ファンは落とされる。遠慮手加減一切なく、縦横無尽に倉庫内を駆け巡っている。 赤い影と、それを追う黒い影。 「はっはっはっ。 見事に嵌められたな、大佐っ」 「貴様ごと零にしてくれるわぁぁぁ―――っ!」 風に乗って二人の会話が聞こえる。 真は唖然とした表情で、ソファに反り返ったまま固まっていた。 ……はたして、これは自分が悪いのだろうか。 と、驚愕する彼の胸にさまざまな言い訳が去来したが、まあ彼がどんなに正当な言い逃れをしようとしても、絶対最後には責任を取らされるのだ。 炎の監視を怠った、という一点について、彼は言い訳は出来ない。 数十手打ち合ったが結局勝敗はつかず、南側に大きな通路を新たに作成して影は出て行った。その最後の一手は、硝子が割れなかったのが奇跡という凄まじい衝撃だった。 半分廃墟に変わってしまった真の逆さまの視界に、見慣れた二人がやってくる。 「炎ちゃんって勇気あるねー。 普通大佐にはやんないよ。 休憩処は暫く閉鎖だね」 と。トラブルメーカーの元部下が呆れた口調で言う。 「……仕組んだのか?」 真は答えを期待せずに質問を口にした。覇気のない声、ぼんやりとした瞳からは、疲労の色が強くにじみ出ている。 毒丸は首を横に振った。 「あっはっはっは。残念。 俺も、流石に、こんなに優れた休憩処を破壊するような、全員の恨みを買ってあり余るようなことする程見境ないわけじゃないんだよねー。 さ、真ちゃん。たるんでないで、さっさとあの二人の回収に行ってよ。 これ以上壊されちゃたまんないから」 口調は子供っぽいが声は非常に冷たい。 ―――おそらく彼も怒りを覚えているのだ。こんな優れた休憩処を破壊したことに。 命令するなとか、その口調は上官になんだとか、そういう反論すらする気力が湧かない。 大佐と炎にどう処分をすれば良いものやら…… 真は脱力仕切った体に力を込めると、のろのろとソファから立ち上がった。 そして、同じく責任を取らされるであろう金髪の同僚を目で探すと、彼も放心状態で椅子に座ったままの姿だったのである。 |
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