・・・  温度差 2  ・・・ 


 仕事をしている男の姿は普段以上に凛々しいと言われるし、また、付き合っている相手ならさらなり、というべきなのだが。

 「いい加減、出せ。忙しいのだっ」

 人に待たされることが死ぬほど嫌いな日明蘭は、惚れ直すとか見蕩れるとかそういう甘酸っぱいことは一切なく、簡単に限界がきた。
 五秒くらい静かにしていたが、今は他人の物だとかは関係なくがすがすと檻の棒に蹴りをいれて破壊しようとしている。しかし蹴りでもその棒はびくともしない。刀を抜ければ早いのだが、それができないくらいの狭さだ。
「ああ、そうか。俺も忙しいぜ」
「なら勿体ぶらんでとっとと出さんかっ」
「……いいけど。
 そこの鍵、キーワードなのよ。音声認識ってやつぅ?
 最近流行ってるのよねー」
「知らん」
「……あっそ。
 まあ簡単にいえば、決められた言葉を言えば鍵が開くのよ。いちいち全員分に合鍵を作らなくて便利でしょう。警察の手錠ってそういうために全て同じ鍵で開くように出来ているんだけど、それは知ってたかしら?」
「はあ?
 まあいい。なんと言えばいいのだ」
警視総監は書類から目をそらさずに一枚のメモ帳に殴り書きをすると、それを片手で破って握りつぶす。小さくなった紙片を蘭に投げつけた。
 軽いながらもかなりの速度で飛んできたそれを上手く掴みとる。
 すぐに渡すくらいならばとっととやれ、勿体ぶるな、と百の不平が彼女の中に渦巻いているのは、その面白くなさそうな顔からよく読み取れた。口をへの字に曲げ、眉間に一本皺が刻まれている。
 そして―――
 その顔がそのまま見事に凍てついたのだった。

 『あいしてる』

 あの状況でよくもまあと呆れるほど達筆な、平仮名五文字。
 だから、といって内容が変わるわけではないが。

 鍵、なのだ。この言葉が。

 状況を理解できない―――というよりは、したくないが正確だろう―――彼女は、目を白黒させて必死で理解しようと無駄な努力をする。こわばる口元が痙攣してひくひくと震えていた。
「……さ。言えよ」
にやついた視線で彼女に追い討ちをかけると、びくりと面白いように反応を返す。
 暴力で解決するのが得意な蘭にとって、一番嫌いなものは駆け引きだ。
 色恋の駆け引きともなれば、いつも面白いように八俣の手で踊らされてしまう。押すばかりでは相手の都合のよい方になってしまうとわかっているのに、後悔も反省もしているのに、いつまで経っても彼に逆らうことが出来ない。
「う、う、う お……お……お前が言えぇぇっ!」
子供の我侭のように地団駄を踏みながら叫んでみるが、
「嫌だね。それじゃあ、つまらないじゃない」
相手は容赦なく一刀で切り捨てる。
 再び視線を書類に戻して、先ほどと同じ仕事を始める。
 彼が自分の署名をする度に、特有のがりがりとした音とびっと伸びやかな音とが聞こえる。その速度から考えて自分よりもずっと事務処理能力が優れているのは良くわかる。
 先ほど以上に蹴り付ける乱暴な音が聞こえてきたが、絶対に顔を上げない。
 退路も進路も断って、ただ自分のところだけにおびき寄せる執念深い性質。待つのは慣れている。飛び回るしか脳のない自由な風を己の手中に収めることは容易いことだ。
「……さっさとしろよ。俺の部下が来るぜ?」
下を向いたまま発された、低い声が彼女の背中を押す。
「……そんな愚かな言葉を、鍵にしたら、皆に迷惑がかかるではないのか?」
悔し紛れに言ってみるがそれは少しも効果がない。
「お前以外は、俺が鍵を開けてやっているんでな」


  ******

 「差別だっ」
「区別だ」
鼻歌を歌いながら最後の最後の抵抗を企てる蘭に、からかうように返答する。
 まあ相手は間違ってしまったけれども、結果的には面白いことになったものである。否。もしかしたら、彼女が自分の本当の獲物だったのかもしれない。
 好きだとか愛しているとか睦言を囁くのはいつも八俣だけで、ついぞ蘭から言われた記憶はない。それは半分は諦めていたが、諦めながらもずっと望んでいた。彼女から、と、考えるだけで精神の高揚が抑えきれない。
「区別は最大の差別だと言うぞ」
「それは詭弁だ、とも言うよなぁ」
びっ。
 と、再び、サインの音がした。
 その書類を最後にして、八俣は万年筆の蓋を閉じ顔を上げる。片方しかない眼が蘭の体を束縛した。不思議な色を湛えた眼睛。禍々しくも美しい黒の色が、水色の髪とよく似合って思わず見蕩れそうになる。
 そんな自分を、蘭は、何度も何度も叱咤した。
 言え。さあ、言え。
 愛、という言葉そのものに、深い意味はない。定義づけの難しい感情、それだけのものだ。
 だがその言葉を口にするという行為は、意味がある。まさにそれこそ『愛している』ということなのかもしれない。
 胸が躍るのを知られないようにするのに、八俣は一杯一杯だった。あまりにも嬉しくて。自分がこれだけ望んでいたのかと驚くくらいだったが、それを彼女に知られたくはないと意地を張る。
 喜びを嫌味っぽいにやついた表情に変化させて蘭を急かす。
 だが、一方。急かされている彼女は別の思惑に囚われていた。八俣が魅力的であると認めることが、怖い。一瞬でもそんなことを思ってしまった自分が情けなく、そして危険だと感じる。
 ―――だから。

「そんな言葉、言う気はない。
 さっさと貴様が開ければいい」

揺らぐ気持ちを押し殺すために蘭は敢えてその言葉を口にした。それが、どれだけ重い意味を与えるかは考えることはなく。予想を完全に裏切られた八俣は目を見開いて、完全に止まっている。
 惹かれているなど、決して認めたくはない。
 記憶に残ってしまうような言葉になど、絶対にしたくはない。
 自分と彼とは、割り切った関係のはずだ。
 次の瞬間すぐに顔見知りに戻れるくらいの、非常に些細な関係なのだ。心を預けたりなどしていない。
 自分は子持ちで、軍人で、もう、色恋に浮かれるような年齢ではない。そして、なにより。警視総監は美しい相貌と高い社会的地位を持つのに比べて、自分はいかに劣っていることか。
 八俣は遊びで、こちらも遊びだ、と独りごちた。

 ―――遊びの領域を超えるようなことをするな、頼むから。

「早くしろ。本当にいそが……」

「……俺が、その言葉を聞きたいんだよ。それがどうしても嫌か」

 彼女の言葉を遮って席をたつ。
 つかつかと足早にやって来て、檻の眼前にすっくと立った。
 見下ろすその真剣な瞳。
 威圧的で、殺気籠もる空気が蘭を押し潰そうとする。男の怒りを肌で感じながら、敢えて無理やり鼻で笑った。
「誰がお前の言いなりになるものか」
いいながら睨めつけても、彼の反応はなかった。鋼と鋼との隙間から太い腕がするりと入り込む。余りに滑らかな動きだったので、反応が一瞬遅れる。
 気づいたときには、肉厚的な手が蘭の首を包んでいた。
 手に力をこめれば、それで終わる。人殺し真っ最中なのに、八俣の顔はどこまでも無表情だ。触る程度で締められているのではないが息苦しい。嫌な汗がじわりと滲んだ。
「言えよ」
淡々とした命令。
「……………………言うか」
頚動脈の上にある男の指に自分の手をかけるが、狭い空間で無理に折り曲げたので、殆ど力がかからない。指を必死にはずそうとするがびくともしない。それどころか、抵抗を始めた途端八俣は僅かに力を込めた。
 冷たい目で男を睨め上げる。意志の強い光を目の中に感じ取って、それが余計に男の気を勃たせる。
「死んだ方が、マシってか?」
返答は、いくら待っても戻ってこなかった。

 ………………死ぬ程、嫌か。

 八俣は冷たい目をしたまま、蘭の首を外へ引き寄せた。
 広い部屋に響くほどの衝撃音。
 檻の棒に顔が強烈にぶち当たり、痛みが顔から体中を駆け巡る。右頬と小鼻の辺りに鋼鉄が直撃した。人体の急所だけあって、さしもの彼女でも無傷とはいかない。痛そうに顔を顰めたまま固まっていると、鼻から血が流れだした。
 首を掴んだまま、八俣は顔を近づけてきた。
 恋人から流れる落ち体液を愛しそうに舐め始める。
 逃げようと努力はしてみるが、殆ど効果がない。鉄格子が動きの邪魔をして顔が僅かしか動かないのだ。
 血が止まると、八俣は狙いを唇周辺に変えた。指からは彼女の心拍がダイレクトに伝わってくる。興奮しているのは自分だけではない。下唇を甘噛みしたかとおもえば、舌で唇を突付く。そんな愛撫を数回繰り返した後、きつく閉ざされた唇を舌でこじ開け始めた。一瞬緩んだ隙をつき、するりと彼女の体に潜り込む。入れてしまえばキスの経験の浅い蘭など思うが侭で。愛撫から接吻に変わると、彼女は一切の抵抗を止めていた。
 息と息がかかる距離。
 愛しているの一言はいえないくせに、こうやって唇を重ねると、噛み付くことも突き放すこともせず、動かないで身を任せる。

 嗚呼、こういう手合いが一番厄介だ。
 精神は絶対屈さずに。
 ―――身体は簡単に売り渡す。

 二人の顔が離れた。酸欠か興奮か、目が潤んで頬が赤いのが見える。
 八俣が手を離すと、直ぐに身を引いて俯いてしまった。檻の反対側によりかかりながら、床に視線を這わせている。男の行動を責めはしないが、決してこちらを向いてくれそうにはない。

 ……いっそ心の底から抵抗してくれれば止めるというのに。
 これじゃあ、いつも、俺だけが加害者だ。

「愛してるわよ」
がちゃ―――と、檻の下のほうから金具同士が外れるような音が聞こえた。どうやらその言葉の鍵とやらは嘘ではなかったらしい。蘭が棒に手をかけると、先ほどまでとは違ってわずかに揺れる。前に突き出すようにしてみると、棒の下部が台から外れて棒ごと抜ける。
 文句を言わないところからみると、こうやって出るのが正解のようだ。
 蘭は続けざまに三本の棒を外し、一人が悠々と出れるスペースを作ってから何事もなかったように出てきた。
 外に出てから同じように棒を戻すと、再び檻の完成だ。
 横に立つ男には一瞥もくれず机まで行き、必要な書類を選り分ける。たったこの数分で、彼女が持ってきた厄介な事件の半分は片付けてくれた。
 やはり一つはまだ終っていないらしい。
「こちらの件は終ったら連絡をくれ、隊員を遣す」
「はいはーい。
 さあお仕事頑張らなきゃねー」
言葉とは裏腹に、彼の口調は少しも仕事をやる気はない。
 必要な書類の端を机で揃えてから、彼女は背を返した。
 八俣とはすれ違わないように一直線に進んで、扉から少しずれた壁の前に立ち塞がった。
 彼女の行動を予測して、八俣は天井を見上げて目を瞑る。一秒後、壮大な破壊音が部屋を揺るがした。
 視線を戻すと、予想通り壁は大人一人が通れるくらいの穴が出来上がっている。予想外なのは、その穴が案外大きいということだ。それは彼女の怒りの大きさを表す。
「良い左官屋だ」
「ありがと。お金かけてるからねー」
「無駄金だったな」
嫌味を言い捨て、挨拶もなく出て行ってしまった。
 恋人にあれだけのことをしておいて肉体的な損害はなく済んだのだから、今日は良かった方だ。良かった方なのだ。
 なのに。
「愛が欲しいわ〜」
 どこか果てしない疲れが、体の奥底に溜まっていくのを感じていた。