・・・  温度差 1  ・・・ 


 ノックもせずに人が入ってきた。この国の守護の要ともいえる警視庁の最上階のこの部屋に、というか、オカマでマッチョで人間を超越した男の根城に、こんな礼儀知らずな真似をする人間は限られている。
 余程の物しらずか、ただの馬鹿か。
 そして、乱入者の服装を見た瞬間、八俣はうげっと心中呻きながら思った。

「仕事を持ってきてやったぞ、有難く思え。警視総監殿」

 ―――今回の闖入者は、その両方ともだったな、と。

 八俣は珍しく椅子にきちんと座っていて仕事をしている。
 本来ならばそれは当然の光景であるべきだが、蘭はひどく疑問を覚えた。まず、彼が仕事をしていることが不気味だ。さらに、普段なら蘭を認識した瞬間脊椎反射の域で矢継ぎ早に文句を言ってくるのに、いつまでたっても嫌味の銃弾がやってこないのが怪しくてしかたがない。

 何をそんなに驚いている?

 と、思ったが、直後に彼女はそれが吃驚とはどこか違うと感じた。
 それにこの表情、なんだか既視感がある。

 ―――そうだ。

 八俣が零武隊に和菓子を持って来たので茶を持ってくるよう注文したとき、激が間違えて高級珈琲を運んできたときに見た顔だ。餡子と珈琲の相性が思った以上に良くて、二人とも苦笑しながら食べた。
 「お茶っつーから、珈琲とか警視総監喜ぶと思ったんっす……」
 つんつく頭をしょぼくれさせながら謝る男を前にして、思わず怒る気が失せた。情けない空気を背負って萎れるのは彼以外がすると鬱陶しいことこの上なく(殺意も湧くのだが)、激がするとつい許してしまう。それはどうも八俣も同じようで、激が去った後「零武隊には勿体ないくらい可愛い子じゃない」と手放しで褒めていたように覚えている。
 当たり前だ。零武隊のエリートだからな。お前なんかにやるか。
 当初の疑問を忘れて考えに浸りながら、一歩踏み出した。
 刹那。
 足元から激しい音が聞こえた。
 視界の隅で、床下から鋼鉄の棒が現れるのが見える。本能が体の筋肉が固まる。動けない。棒は恐ろしい速さで天井まで伸びて、天井に突き刺さった。
「……は…………」
唐突なことに、動かなかったのがよかった。下手に動いていたら大怪我をしていたところだ。

 端的に言えば、檻に閉じ込められた、のである。

 直径三センチの棒が、十センチ間隔に、蘭の周囲をぐるりと取り囲んでいる。下は床から上は天井まで。鋼鉄を仕込んだ軍靴の爪先で床を叩くと、硬い金属を蹴った時の感触があった。床下も棒と同じ素材でできているのだろう、これでは下を破壊するという得意の手段が使えない。
 絨毯に埋め込んで巧妙に隠されていた。一見しただけでは予測するのは不可能だ。
 棒の一つを、爪で軽く触れてみる。
 下手な仕掛けがないことを確かめた後、今度はしっかり握り締めて、力を込めてみた。彼女の人外の腕力をもっても、ぴくりとも動かない。上質な鋼くらいの強度はありそうだ。
 「……なんだ。これは?」
簡単に抜け出せないことの確認が済んでから、蘭は忌々しそうに口を開いた。
「天馬ちゃんが来るはずじゃなかったの? 待ってたのに」
どうやら愚息捕獲のためにこんな無駄な用意をしていたらしい。あの愚息にいったいどれだけの価値があるかはわからないが、警視総監は時折自分の地位も名誉も全てを犠牲にしてこういう愚かな真似をする。
「あいつに言えぬ要件が増えたからな。
 ……揉み消しを頼む事件が二つ起きた。両方とも失火に見せかけて始末しておいたが、まあ警察のほうも頼む」
「このくそ暑い時期に失火?
 ったく。書類見せなさい。
 天馬ちゃんだと思って色々用意してあげたのに。あんたじゃつまらないわ」
八俣は立ち上がって、檻に閉じ込められた囚人の前までゆっくりやってくる。軽蔑と不快を混ぜて二で割ったような目が、ずっと彼の動きを追っている。
 棒と棒の間から差し出された書類を受け取り、ぺらぺらと捲った。
 嫌な沈黙が続いて―――。
 数十秒後、嫌味たらしい大仰なため息が聞こえた。
「……あんたらね〜」
全ての感情をその一言に込める。
 これを一体どうやって失火と言い切ればいいのか是非彼女に問いただしたい感情をぐっと堪えた。返される台詞は予想がつく。零武隊の仕事は大雑把に理解しているつもりだが、何故隠密に行動することが出来ないのだろうか。
 死体だけならなんとかなるが、火を使うと消防署が出て、勿論周囲の住民も知ることになる。野次馬も大量に現れる。しかも近頃は新聞記者なるものが一個の職業として確立してしまったがゆえに色々と厄介なのだ。大火事の現場から死体が三つ。しかも、どれも死後焼かれたものということは、消防に携わる人間ならすぐに分かってしまう。人の口には戸は立てられない、といったのはどこの賢人だろうか。
「火が出たから仕方ないだろう」
しれっと言い返して、それより、と蘭は言葉をきった。
「いいかげん、これをなんとかしろ。
 入り口はともかく出口がないのは不良品じゃないのか?」
刀の柄で、こつこつと鋼を叩く。
 八俣は受け取った書類を戻しながら口を開いた。
「それ、鍵を使って棒を取り外すことが出来るのよ。鍵穴が見える位置に無いほうが逃げにくいでしょ。
 扉の開いた振動と床部分の重量とを感知する装置で発動するの。設置には十五分ほど。
 なーんか上の方に山師がそんな防犯装置を売りつけてきたのよね。
 まあ天下の零武隊隊長を捕獲できるなら少しは楽しめそうだわ」
「…………こんなところに仕掛けて、仕事はどうするんだ。
 副総監の胃に穴が空いたら労災を下ろす前にお前が自腹を切れよ」
「あんただけには言われたくないわね」
言うだけ言って、八俣は背を返した。彼女を放置したまま、さっさと席に座り仕事を再開する。
 書類を二度以上確認をし、万年筆を取り上げてサインをし、横によける。
 淡々とこなしているようだが、実は案外難しいのだ。必要な指令があれば出さなければならないし、ときには許可を下ろしてはならないものもあるし―――何より、量が膨大だ。常に十以上の仕事同時に抱えながらこなさなければならない。
 ―――彼は、優秀だよ。でなければとっくに辞めさせられている。
 誰かがそう八俣を評価しているのを思い出した。