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万人に、万病に効く薬は、存在するか。 する。 致死量の毒薬である。 ***** 三日前の日曜日に外国使節を護衛したので、世間では誰もが働いているこの一日が、激だけには休日となった。 他の隊員も休みならばどこかに行こうと考えるのだが、一人だけならばとりたてて出かける用事もない。そういう理由で、同室の現朗を送り出した後、再び寝台に戻って二度寝をしていた。一旦布団に包まると再び眠気は戻ってきて、ついでに頭がわずかに働いている分だけ楽しい夢を見ることができる。だから、二度寝はやめられない。 現朗にその話をしたとき、眉を思いきり顰められた。夢など、毎日見るだろう、二度寝に限らず。と、続く彼の発言の方が、異常だと思うが、生憎とその場は二人きりで結局激がおかしいということで話が片付いてしまった。 だがまあ、とにかく二度寝は良い。 それはただ本能に従って寝るのとは違う趣がある。快楽がある。 そんな、温い布団の中で丸まって丸まって丸まって幸せに浸りきって涎を垂らした激は、予想もしていなかった。 まさか、雷が直撃する以上の攻撃でたたき起こされようとは。 「激ぃぃぃぃぃぃぃ―――っっ」 と、大音量と、ぐわしゃぁぁぁんと窓の崩壊する音。 一人の人間が部屋に乗り込んできた。 普段から人殺しの仕事の従事しているだけあって、どんなに寛いだ状態であっても脳の一部は緊張を緩めない。僅かな気配があるだけで目が覚めるが、今はそんな生易しいものではない物量が彼の間合いの中に闖入してきたのだ。 ぱちっと覚醒し、即座に、すべての思考回路が動いた。 白い軍服に長い髪。 「大佐ぁっ!?」 日本で唯一軍服を着用することを許された女性、日明蘭だ。 硝子が畳に落ちきるよりも早く、激は身を起こして本能的に逃げに打つ。 が、相手のほうが彼の動きよりもはるかに早い。蘭は右足だけ畳に着地したかと思うと、そのまま蹴って一足で彼の元まで来た。 右手を差し伸ばし、がしっと半分身を起こしている彼の寝巻きの襟元を掴む。そのまま寝台から男一人引きずり出し、持ち上げた。 宙ぶらりんにされた激は、必死に足をばたつかせる。何発も蹴りを入れているが、間合いが近すぎて助走がとれず威力がない。 「貴様っ。よくもおめおめと眠れたものだなっ。 二度寝か。二度寝か、この状況でっっ!? 責任を……責任を取らんかぁぁぁぁ―――っ」 「ちょっ、待った待った。 すみません。すみません。すみません。すみません。すみませぇぇぇぇん」 わけがわからなかったのだが、とりあえず苦しいので謝罪を連呼しておく。早く言わなければ生死に関わるのだからこんなときに意地もへったくれもない。 「泣いて許されると思うなよっ」 言うと同時に突き上げた拳を下ろした。彼が謝ったから、というわけではないだろう。いきなりおろされた激は、腰を強く打って痛みで一瞬息が止まる。 右手に左手を添えて、蘭は激の顔を自分の顔に近づける。一房の髪が顔に触れるほどの近距離だ。 「謝って許されたら歴史に零武隊はいらんのだっ。 取れ。取れ。取れ。取れぇぇぇっ」 興奮のまま力任せに揺さぶると、首の関節がどうにかなっている―――ストレートに表現してしまえば死体の―――ように面白いように頭が前後する。がくがくと音は鳴るし、半分白目な上顔は真っ青だ。 上官は自分の事に一杯で部下の生命についてはとんと無頓着だった。 あ。やばい、マジで逝くかも……と激のわずかに酸素の回っている脳内が最後の警告を出す。 「取ります取ります取ります取ります取ります…… って、ちょっと待って。 何ですと?」 ぴたり。 と、蘭の動きが止まった。 「この期に及んで未だ口答えかっ。 いい度胸だっっ! 零にしてくれるわっ」 「えーっと。何があったんですか、大佐」 ここで選択肢を間違ったら零にされるという恐怖を覚えながら、取りあえず彼女の手に自分の手を軽く重ねながら質問した。また揺さぶられたらこの手を折ってでも逃げよう。周囲に人がいない以上、自分の命を守るのは最優先事項だ。 だが、幸いなことに、その最後の非常手段に出ることはなく済んだ。 「何が、だとっ!? 現朗が有り得ないくらい怖いんだぁぁぁぁぁぁっ」 別の原因が彼の寿命を強制終了させるだろうと、宣言されたからだ。 ***** 仮にも鬼子母神と崇め奉られているくせに、情けないと思わないでもない。だが畳の上で俯き加減で正座しながらしくしくと半泣きする上官は、普段の威厳がかけらもなかったので、思った言葉はすべて胸の内に押し込んだ。 激が着替えている間中、ずっとその状態だった。 殺人未遂が終わった後。目尻が赤くほのかに腫れ上がっていることに、漸く彼も気がついた。泣いた後に此処までやって来たのか、それとも泣きながらやって来たのか。おそらく後者だとなんとなく確信した。 何があった、とは訊かなかった。聞きたくないからだ。それにどうせ直ぐに原因はわかる。 激の用意が終わるとすぐに、二人は陸軍特秘機関へ急いだ。蘭は行き先を知っているのか、複雑な廊下を躊躇いなく進み、激がその後に続く。着いた先は、普段滅多に使われない資料庫だった。 現朗がいるであろうその部屋の前には、十何人かの隊員がすでに待って人垣を作っていた。 「……えーと」 足が止まる激の腕を、蘭がすばやく掴む。 「責任取るんだろ」 ………………逃げられないか。 激は相当不安になったが、人垣を掻き分けてこっそりと部屋の中の様子を伺う。資料庫は引き戸で、運良く、扉は少しだけ開いていた。 地下のわりに電灯が多量に設置されて浩々と明るいその中、一人の人間が奥にいる。棚から本を取出している立って読んでいる最中だ。 数秒中の様子を見て――― 激はがばっと顔をあげた。 「あ。ダメだ」 と、ぼそり。 意味がわからず全員の視線が激に集まる。 「どういうことだ?」 全員の気持ちを代弁して、蘭が尋ねた。 「……いや、あれ無理。 現朗の髪がちょっと跳ねがキツクなってるだろ。ああいう時はやばいんだよ。本気で怒ってる。つーか一週間は近寄っちゃ駄目だ。突付くと八つ当たりされるから。 怒らせたら殺されるというか、地獄に突き落とされる。 大佐、俺このまま一週間ほど有給とって旅に出ます」 「許可が下りると思うのか? 貴様。 だいたい、お前の所為なんだからなんとかしろ」 「……なんで俺の所為って決めつけるんすか…………。 つーか、俺より大佐の方が悪いことしてんのに…………」 「だから。 私に覚えがないならばお前だろう? 消去法だ」 と、言われたものの。 激にも少しも覚えがなかった。昨日の現朗はそれは普通通りだったし、今朝も変わった様子はなかった。あんな状態になっていたら嫌でも気がつく。 朝この陸軍特秘機関研究所に来てから、彼を怒らす何かが発生したのだろう。となるとやはり、原因は大佐しか考えられない。 視線が冷たくなったことに気づいて、私じゃないぞと蘭が頬を膨らませる。 「おそらく、違うだろう。 日明大佐は、いきなり搾られていたからな」 こそっと鉄男が激に耳打ちをした。 「搾られた?」 「うむ。朝の報告をするために現朗殿が入ってから一時間以上部屋の中から怒声が途絶えなかった上、現朗殿が去った後は大佐は正座で泣きじゃくりながら書類にサインをしていたから、搾られたと推測される。 報告の時点ではもはやあのような状態だった。 何かが起きたのはその前だろう」 じゃあ今大佐が逃げているのはどうよ、と思ったが、零武隊の隊員たちは決して一枚岩ではないところに特徴がある。結束もすれば裏切りもする。 大佐が叱られているのを見て、同情した誰かが逃亡に手助けをしたのだろう。 ―――多分、毒丸だ。 殆どの大佐の逃亡には、彼が関与している。 「毒丸、いい加減に現朗に刺されるぜ……」 普段の状態ならば、その行動は問題にはされない。予想内の行動だからだ。現朗は逃亡した―――助けがあったとはいえ、逃げるのを選んだのは彼女自身だ―――上官に対して制裁を加える。 だが、あの状態の現朗にそれをしたら、それは危険だ。今の彼は無関係な人物ですら攻撃対象にしかねないのだ。 「もう刺された」 しれっと、鉄男がとんでもないことを言う。 激がここに到着する前、蘭が逃げたと知った瞬間に金髪は毒丸を捜し制裁措置を問答無用で取った。応戦もしたし周りも助けたのだが、金髪はなんと重火器を持ち出したので、最後には、大砲に照準を合わせられた毒丸が官舎の壁に背をつけたまま両手を上げて硬直するという結果になったのである。捕縛後は一方的な撲殺に終わった。鉄男が手加減を乞う暇もなかった。 運が悪かったのは、真と炎がいないことだ。 現朗とある程度拮抗した実力を持つ二人がいれば、毒丸の怪我の程度も少しは変わっただろう。 だが、兎にも角にも、隊員は全てを悟った。 ―――自分たちが、今、殺人鬼の餌食になる瀬戸際にいるのだ、ということを。 ***** 「とにかく、お前、行け」 蘭が言うと、周囲の隊員たち全員が同時に頷く。無言の威圧で激の背中を押した。 嫌だと心中では腹の奥底から絶叫したが、かといってこの場から逃げられはしない。我が身の保全と他人の命を比較すれば前者に傾くのは誰でも同じことだ。命が関わる瞬間はどうしても少人数の者が負ける。カルネアデスの板。 犠牲になるのは、もう、激だと選ばれてしまった。 覚悟を決めると、二十メートルほど下がった。隊員たちが割れて、彼の通れる道がざっと開く。普段の気配に戻してその道を歩き、扉の前で佇む。 コンコン。 「入るぜ、う、現朗?」 緊張のあまり少し変な音程になったが、金髪はさして不審に思わなかった。 「どうぞ」 淡々とした返事が返ってきて、言われるがままに黒髪が入った。廊下に隠れていた隊員たちは金髪に見つからないよう必死で隠れたが、当の現朗は書類から目も上げずにいた。ぱたん、と戸が閉まる。蘭はさっとその戸板に耳をつけると、他の隊員たちもそれに倣った。 「どうした、休みだろう」 「え、いやぁ、それが一人だと……暇でさ。 手伝うこととかあったらなーって」 「ないな。 邪魔だ、出てけ」 ………………。 カチャ、パタン。 激は、誰もの予想以上に早くさっさと戻ってきてしまった。 「意気地なし」 「役立たず」 「使えねー」 迎えるのは冷ややかな視線。同僚の容赦ないツッコミに、馬鹿野郎、と、目を開き、声を殺して叫んだ。 「マジで怖ぇぇんだからなっ、本当に怖ぇんだよっ! なんとかなるわけねえだろっ! 何度か半殺しにされたことあんだからっ。 あれは一週間は無理なのっ。 原因がやんでも、原因が謝っても、原因を半殺しにしてもそれでも一週間はああいうままなのっ! つーか、俺なんて、部屋一緒なんだぞっ。あれが戻ってくるんだぞっ。死活問題なんだよっ。 こういうときこそ教授使えよっ。 教授になんか怪しげな新薬開発してもらえっ」 部屋から出た後から、冷汗が滝のように流れ落ちてくる。早鐘のように打つ心臓。いつの間にか過呼吸になっている己がいる。 恐怖を感じるのは本能だが、理解した後に更に強くなることがある。檻に入って、何かがいることに気づいて逃げる。そこにいたものが、腹を空かせた猛獣だと理解する。たとえばそんなようなことだ。 過去何度か見たことがあるが、その度に思う。もう一生見たくない、と。 興奮気味の激は先ほど讒言をはいた同僚の一人の胸倉をつかみ、がくがく揺さぶりながら反論し、そして相手も応戦する。周囲の同僚らも無駄に囃し立てていた。ただ現朗に気づかれるのが怖いので、誰も音は立てない。 無音の騒乱だ。 そんな中。 「……………………お前、時折良い案を出すな」 と。 ぽつりと蘭が言った言葉は誰もの耳に届き。 誰もの動きを止めた。 |
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