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暗い廊下の端に立っていた。 目の前には見たことの無い襖。 嫌な胸騒ぎを抱えながらも、現朗は襖の引手に手をかけて開く。 小さな部屋の中には、六つの布団が所狭しと敷かれていた。 中央にいるのは、二人。正座をしているわけではないが、寛いでいるわけでもなかった。 現朗を見たまま驚いた表情で固まっている。 だが彼ら以上に現朗の方が驚いていた。 「……激」 現朗が掠れた声で一人の名前を呼ぶと、びくっと激の肩が震える。 普段の特徴的な髪の毛はすべて垂らされており、一見すれば女性のようだ。 いつもなら呼ばれればくりくりとした大きな垂れ目を向けてくるのに、その目を真っ赤に腫らしたまま此方を見ずに項垂れてしまう。 「あー。現朗ちゃんもう到着ぅ? 早すぎだよ。 もう一回戦ってとこなのにさー」 激は上着の前をしっかり握り締めたまま、下ばかり見ていた。下肢にはなにも穿いておらず、おそらく上体も、その上着だけしか着ていないだろう。白い制服からもれる二本の足はどこか艶かしい。彼の体から漏れ出す雰囲気そのものが普段以上の色香を醸し出していた。 乱れた布団の端には、どこか遠くを見つめたまま黙り込む毒丸がいる。上を脱いだままの状態で煙草を燻らせていた。 何があったかなど、訊く必要はなかった。 激のもらす嗚咽だけが時を刻む。 現朗の頭から、血が、まっすぐ大地のほうへ向かって流れ落ちるような不思議な感覚がした。 「あー」 口を開いたのは、毒丸だ。 とんとん、と灰皿代わりの皿に灰を落とす。 「……ごちそうさま」 ……という、悪夢で目が覚めた。 悪夢といえばこれ以上の悪夢はそうない。 全速力で疾駆した後のように痛いくらいの動悸がする。見れば手は小刻みに震えていた。夢だと理解してなお完全に取り乱している。 「っはぁ、はぁ、はぁ…………」 真っ暗―――と思ったがもうすぐで夜明けらしい。 空と大地の境界が薄ら明るくなっており、烏の鳴き声が明けの明星の下で響いていた。ひんやりと冷たい空気が頬を撫ぜる。 手で額を拭ってみるとずいぶん汗をかいたようだ。上の激はまだ眠っている。規則正しい寝息が冷たい部屋の中で静かに響いていた。 激がいる。確かに、そこにいるのだ。 そう考えると体の奥底が少し温かくなってくるような気がして、ようやく脈が落ち着いてきた。 「そんな……馬鹿なことが…… あるわけがない」 なにがあったとしても激が毒丸と自分を裏切るはずはない、と言い聞かせる。自分が愛されているという確信と言うよりは、激が毒丸に手を出すはずがないのだ。激の目には毒丸は後輩以上には映っていなのは確かだから。 毒丸がどんなに屈折した感情を湛えた視線を寄越しても、激は少しも相手にしない。一度現朗がその点について問い質したことがあるが、『若いんだから大目に見てやれよー』と笑って流した。 だが、その無防備で甘い考えは危険ではないだろうか? 激が思うほど毒丸が子供だとは思えない。 いや、逆に、子供であればあるほど恐ろしいのだ。年若い者は責任感も自覚も足りないからこそ無謀な行為に走るというものだ。 「……馬鹿なことが……あるわけない」 言葉を繰り返して心を落ち着けようと躍起になるが、自らが興した不安の塊はそう簡単には消し去ることはできなかった。 激を信じているのに、信じているというのに―――。 「現朗、早いなぁ」 と。 驚いたことに、恋人はすでに起きていた。 「……お前、起きていたのか?」 「ん? 今目ぇ覚めた。 お前が先に起きるなんてめっずらしーじゃねえか。雪でも降るかもな。 ……まだ五時前か。 もう少し寝てなくて大丈夫か?」 「…………。 いや、目が醒めた。 今日から遠征だから、早めに準備をしようと思っていてな」 「いーね。俺も朝稽古してえし。 一緒に起きようぜ」 すとん、と恋人は上から降りてきて手を伸ばす。 低血圧だという触れ込みを信じて、いつもこうやって起してくれる。その手から体温を感じながら、不安を胸の奥に仕舞い込んで固い固い鍵をかけた。 江戸から京都までは約492km。 通常歩けば2週間程度で到着するが、飛脚は3〜4日で走ったという。 「だからって荷物もちの零武隊で五日って無理だよねー」 小走りしながら毒丸は横の激にぼやいた。 今回の遠征はさほど武器が必要のないので、訓練を兼ねて走って現場に行く予定だった。先頭は炎が、最後尾には刀を振り回す隊長 日明大佐がいる。最後尾一人前には鉄男が丸木戸教授を肩に乗せて運んでおり、擦れ違う人々は必ず不審げな視線を寄越したが、なんだか見てはならないものを見たような気分になってそっと目を逸らして記憶から抹消するのがいつものことだ。こうやって歴史は消されていくのである。 関西までのマラソンは、零武隊隊員たちにとっては慣れた訓練の一つだ。多いときは月に一度位のペースで組まれることもある。夏だったが雲が多い日のが幸いして、今日はさほど暑くはない。 「もう疲れたのかよぉ。毒丸」 「疲れたよーだ」 あっかんべぇと舌を出しながら生意気な後輩が答える。 「……疲れた輩がそんなに話せるか。 おいっ、ペースを遅くするなっ。あと十分もすれば第三休憩ポイントに着くから気合をいれろっ」 激、現朗、毒丸は三人並んで丁度列の真ん中の部分を走っていた。 現朗はいつも「自分の可愛らしさに対し自覚症状がないっ、毒丸に気をつけろっ」っつうけどよぉ、なんか違うんだよなぁ。俺達が一緒だと、こいつが向こうから来るんだよ…… ―――と、走りながら激は少しだけ訝っていた。 何度かさぐりは入れているが、さらりとかわされる。 実は、毒丸は、大佐から直々に勤務時間中に現朗と激がいちゃつき過ぎないよう監視かつ妨害せよとの極秘任務を請け負っていたりするのだが、そこまでは気づいていない。 激ちゃんのくせに生意気ー 「そーいえばさー。 今夜はいつものお化け屋敷だよねっ!」 キャピ。 と特有の効果音を背負いながら、零武隊の可愛い担当のぶりっ子ぶりを発揮して可愛く言ってみた。 そしてその反応は――― ―――判り易いくらい判り易い程の動揺だった。 びきっと音が聞こえるくらいのままで激は上半身が固まっている。下半身が動いているのは慣性というやつだろうか。 見る見る青ざめる先輩の顔が面白くて、毒丸はうけけけけ……と笑う。 さっきまでは汗ひとつかいていなかったのに、だらだらとこめかみから水滴が落ちているのは見間違いではないだろう。 唇の端がぶるぶる震え目は焦点が合ってない。普段は元気な分だけその豹変振りはいつ見ても心配にさせられる。 ただお化けの話を聞いただけだろうが。 ―――と、現朗は思わないでもないが、人間苦手なものは苦手なのだ。 「……大丈夫だ、激。 確かに妖怪絡みの宿であることは事実だが、今までだって何もなかっただろう? そう不安がるな」 ぽんぽんと肩を叩いてやると、親友は眉毛を八の字にしたとても情けない顔で振り返ってきた。目は大きく、少し潤んでいる。大の男のくせにこういう瞬間はまるで子猫のようだ。 「う、うつろぉぉ……」 その涙声が、ずっきゅーんと金髪の胸を撃ちぬく。現朗の目には、可愛い担当の毒丸よりも一千万倍可愛い空気を背負っているように見える。 嗚呼。どうしてお前はそんなにも可愛いんだ。お前はこんなに可愛いから俺はいつも心配で心配で…… じっと見詰め合う二人。空気が変わってあまり面白くない毒丸は、けっと軽く吐き捨ててから口を開いた。 「そーそー大丈夫だって。 あそこは本物のお化け屋敷だから、ちゃーんとカミヨミがお札くれたしね! 魅入られなければとり憑かれないってさ。 あーそういえば、オバケって怖がる人に憑くんだよねー」 現朗の目の前で激の顔が真っ青を通り越して白くなり――― 「うっぎゃぁぁぁぁ〜っ!」 悲鳴をあげながら猛ダッシュで先頭集団まで駆け抜けていった。 「うけけけけっ。面白ぇなぁー激ちゃんっ」 「……毒丸っ!」 |
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