・・・  虚言癖 2  ・・・ 


 丸木戸は視線を彼女に合わせたまま動かそうとしない。そのままでたっぷり一分以上の時間が経過した。
 結局のところ、先に折れたのは丸木戸の方だった。
 折れた、というのは語弊があろう。彼はすべてを投げたのだ。
「まあどうでもいいことですけれどね。
 メニューだけお願いします」
冷たく言い捨てて横を通り過ぎて行こうとする。
 その気配にはっとなった蘭は、思わずその腕をつかんでいた。
「……何か?」
彼はあくまでも冷たく、固い表情を崩さない。
 その言葉が痛い程胸を抉る。
「食事を、した、だけだ」
「そうですね。
 お一人で予約をいれてお一人で食事をした―――のですから、何か問題でもあるんですか」
「それはっ……」
「……それとも何か私が怒るような原因があるとでもお考えで?」
自分の言った嘘で真綿で締められるように追い詰められて、蘭の立場はますます悪くなる。
 少しの間は何かを言おうと薄い唇をぶるぶると震わせていたが、結局は言葉が見つからずゆっくりと項垂れてしまった。
 嘘を言ってしまったことを、今、非常に悔いていた。
 いつもそうだ。彼にだけは、咄嗟に、思うことと違うことを言ってしまう。わざとではないのに。
 そして後悔するばかりだ。
 そう思う口惜しくて口惜しくて、服の裾を握り締めた手にさらに力が籠った。



 はぁぁぁ―――。
 服を千切ったとしても絶対に離れないだろうその手をしばらく見つめて、丸木戸は大仰に溜息をついた。
 声に驚いて、蘭の顔が上を向く。
 見れば、丸木戸の目から先ほどの険がすっかりとれていた。
 手の平を額につけてふるふると首を振っている。なにやら酷く疲れたようだ。
「わかりましたよ……
 私が、大人気なかったです。
 お昼は警視総監と二人で食事に行ってきたのでしょう?」
びくっと怯えて肩が震える。
 しかし、教授の目には先ほどの怒りの色は最早なかった。
「その、それは」
……普段はあれほど曲がったことが嫌いだというのに、どうして、私にばかり嘘を吐くのですか。貴女は。
 蘭の様子に再び酷い疲れを感じながら、教授は口を開いた。
「……激から聞いたのでいい訳は必要ありません。
 別にそんなに気にしていないんですよ、その行為自体は。貴女がしっかりしてさえいれば深い意味があるわけではないんですし。だいたい警視総監と食事をなさるなんて今更じゃないですか。
 ただね。
 私が食事に誘っても殆ど断るのに、警視総監にはすぐに一緒に行くのだと聞いてあまり面白くなかったんです。
 ……わかりやすく言えば、妬いたんですよ。
 嫉妬です、大人気ないですね」
と、丸木戸はいいながらいつもの笑みを添える。
 先ほどまでと違った意味で蘭が固まった。見る見るうちに頬が紅潮していくのは見間違いではない。
 握り締められた手が、スルスルと離れて戻される。顔をまともに見れないのか、また、枝垂れてしまった。
「まあ貴女が見え透いた嘘を吐くから余計に……」
「断ってしまうのは、君の、所為ではない。
 八俣だと、別に、緊張しないからだ」
と。
 教授の言葉を遮って、口を開いた。
「え?」
囁くような声が上手く聞き取れなくて丸木戸は瞬間的に聞き返す。

「…………。
 君と一緒だと……変に緊張する。
 だから、食事に行こうって言われると、思わず、断ってしまう。
 ………………。
 自分でも、よくわからん。
 …………すまん。後悔している」

後悔している……って言われるとはね。
 彼女の心情が伝染ったからなのだろうか、急に何とも気恥ずかしくなって、感情を誤魔化すために右手で頭をかく。掻きながら今の言葉の意味をゆっくり理解した。

 つまり、そうなると、もっと強引に誘って欲しいってことじゃないですか。

「今夜、空いてますか?」
「……空いてない」
「じゃあ今夜、食事に行きましょう。
 酒は飲ませんけど旨い料理屋を見つけましてね」
「……いつも飲んでない」
「毎日の検査結果が毎晩飲んでいると語ってますよ。
 今日昼間から飲まなかったのは褒めてもいいですが、休肝日を作れとあれほどいっているでしょうが。
 六時には仕事を終わらせて下さい、迎えにあがります」
ようやく彼女は顔を上げる。
 意志の強そうな眉はきりりと跳ね上がり、口は真一文字に結ばれている。視線がきょろきょろ動いてさえいなければ、いつもどおりの彼女だ。
「今夜の予定について、何か問題はありますか?」
緊張する、という言葉は嘘ではないらしい。
 富士山並みに高いプライドを傷つけまいと、丸木戸は必死に自分の感情を殺して笑いを堪えた。いつもの事務的な表情のまま、まるで仕事の報告のような口調で言っておく。
「…………時間には遅れるなよ」
「了解しました。
 では、昼のメニューを忘れないようお願い致します」
「わかった」
言うだけ言って、蘭は先に歩き出した。
 規則正しく刻まれる靴の音を聞きながら、教授もゆっくり研究室のほうへ向かう。窓から見える春の情景をちらりと見て、五時までに仕事を片付ける算段をする。まずはその前に胃薬が必要だ。
「当分は嘘にも慣れてあげなければならない、ってことですか」
あれだけ焦っているのなら、まあ仕方がない。
 時間がかかるなぁと不満そうに嘯きながらも教授の顔はその空のように晴れやかだった。